僕のヒーローアカデミア:スパイダーウェブ   作:スパイダーキャット

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第2話 安良久根イト:オリジン

 春休みに入って三日目のことだった。

 

 中学二年の春休み。受験生になる前の、最後の長い休み。イトはその大半を、ウェブシューターと蜘蛛糸液の改良に費やす予定でいた。実際、午前中はずっと工房に籠もって射出ノズルの調整をしていた。

 

 午後になって、皐月に「買い物を手伝って」と言われた。近所の商店街まで、二人で歩く。春先の風はまだ冷たいが、日差しには暖かさが混じり始めている。

 

「イト、最近ずっと部屋にいるでしょ。たまには外の空気も吸いなさい」

「吸ってるよ。射出テストのとき窓開けてるし」

「それは空気を吸ってるとは言わないの」

 

 商店街に着き、八百屋で野菜を受け取り、肉屋で注文していた豚肉を引き取る。皐月が店主と世間話を始めたので、イトは少し離れた場所でスマホを開いた。ヒーローニュースの更新を確認する。いつもの日課。いつもの午後。

 

 ──異変に気づいたのは、その時だった。

 

 最初は匂いだった。焦げた匂い。木が燃える、鼻の奥を刺すような匂い。

 次に音。遠くから、何かが割れる乾いた音。そして叫び声。

 

 イトの頭の奥で、何かがざわめいた。

 

 何か危険を感じた時の、いつもと同じ感覚──ただし、比較にならないほど強い。頭の中に警報が鳴り響くように、全身の毛が逆立つ。

 

 商店街の向こう、二つ先の交差点の方向。

 古いアパートの二階の窓から、黒い煙が噴き出していた。

 

「──火事だ!」

 

 誰かが叫んだ。商店街が一瞬で騒然となる。人々が火元を見上げ、スマホで通報し始める。消防車のサイレンはまだ聞こえない。

 

 イトは立ち尽くしていた。

 

 頭では分かっている。自分が出る場面ではない。消防が来る。プロヒーローが来る。一般人は避難するのが正しい行動だ。ましてや中学生の自分が──

 

 感覚が、鳴り止まない。

 

 二階だけではない。煙の向こう──三階に「誰か」がいる。

 見えない。煙で何も見えない。でも、確かに感じる。

 人だ。逃げられていない人が、まだ中にいる。

 

「ッ」

 

 足が動いた。

 

「イト!?」

 

 皐月の声が背中に飛んできた。イトは振り返らなかった。振り返れば止まってしまうと、体のどこかで分かっていた。

 

 走る。商店街の人混みを抜け、交差点を渡り、燃えるアパートに向かって一直線に。

 

 近づくにつれて熱が増す。煙が目に沁みる。一階のドアは開いていて、住人が何人か外に出てきている。泣いている子供。咳き込んでいる老人。

 

「上に、まだ人がいる! 三階に──」

 

 住人の一人が叫んだ。

 

 階段は使えない。一階と二階の間で煙が充満し、視界がゼロだ。

 

 だから──

 

 ──イトは、跳んだ。

 強く脚を踏み切り、アパートに向かって思いきりジャンプする。自分でも信じられないほどの力が出た。

 強い風を顔に受けながら飛び、三階の壁に勢いよく張り付く。

 

 周囲の野次馬が目を見開く。中学生の少女が、垂直の壁に張り付き、窓に向かっている。煙が体を包むが、視界がなくても向かう先は解っている。

 

 三階の窓に辿り着く。ガラスは熱で割れていた。窓枠を掴み、中に飛び込む。

 

 煙。

 

 視界はほぼない。目を開けていられない。咳が止まらない。

 

 でも解る。左の奥、六メートル先。動けなくなっている。

 

 手探りで進む。壁伝いに、低い姿勢で。床が熱い。煙を吸わないように、制服の袖で口を覆う。

 

 ──頭上で、木材が軋む音がした。

 

 天井だ。火が梁を侵食している。このまま崩れたら、奥にいる人も自分も埋まる。

 

 イトは手首から糸を射出した。天井の梁と壁を繋ぎ、崩落を食い止める。もう一本、廊下の左右の壁を糸で繋いで補強する。即席の応急処置。完璧じゃない。でも少しの時間は稼げるはずだ。

 

 体が重くなるのを感じた。自前の蜘蛛糸の代償だ。生成するたびにエネルギーと水分を持っていかれる。喉が渇く。頭がぼんやりする。

 

 構わない。進む。

 

 さらに奥へ。途中、焼け落ちかけた壁が廊下を塞いでいた。糸で引っ張り、倒して道を作る。また体力が削れる。

 

 いた。

 

 倒れている。年配の女性だ。意識がない。煙を吸ったのだろう。呼吸はある。生きている。

 

「大丈夫です、今──」

 

 声が出ない。自分も煙を吸っている。時間がない。

 

 女性の体を抱え上げる。筋力がなければ不可能な行為だが、イトにとっては重くない。問題は重さではない。

 

 出口だ。

 

 階段は使えない。窓から降りるしかない。しかしこの女性を抱えたまま壁を降りるのは──吸着は手足の指で行う。両手が塞がれば壁を降りられない。

 

 背負うか。いや、意識のない人を背負って垂直の壁を降りるのは、途中でずり落ちる危険がある。

 

 ──糸。

 

 自分の蜘蛛糸で、この人を自分の体に固定すればいい。

 

 イトは手首に意識を集中した。蜘蛛糸生成器官が反応する。出せ──もう少しだけ。細い糸がかろうじて吐き出される。女性の体とイトの胴を繋ぐように巻きつけ、固定する。

 

 ──重い。

 

 限界が近い。天井の補強と、壁の除去と、今の固定で、もう体の中がほとんど空だ。喉が干上がるような渇きと、視界の端がちらつく倦怠感。

 

 固定は出来た。窓際まで戻り、外壁に足をかける。

 

 降り始める。三階から地面まで、およそ八メートル。壁面に垂直に張り付き、一歩ずつ降りる。背中の女性の重みが、糸を通じてイトの体に伝わる。

 

 二階の高さまで降りた時──頭上で、嫌な音がした。

 

 火が回っている。三階の外壁の一部が焼け崩れ、コンクリートの塊が真上から落ちてくる。

 

 ──糸。

 

 糸が出せれば、窓枠に射出して横に飛べる。瓦礫を避けてから降り直せばいい。

 あるいは、崩れかけた壁を糸で繋ぎ止めて、落下を遅らせることもできる。

 

 手首に意識を集中する。出せ。もう少しだけ──

 

 出ない。

 

 体が枯れている。糸を生成するエネルギーがもう残っていない。手首の生成器官がかすかに痙攣するだけで、何も吐き出されない。

 

 瓦礫が落ちてくる。避けられない。

 

 イトは壁から体を離し、女性を抱え直した。背中を上にして、自分の体で覆いかぶさる。

 

 衝撃。

 

 コンクリートの破片がイトの背中と肩を打った。鋭い痛みが走る。でも女性には当たっていない。

 

 そのまま壁面を滑り落ちる。吸着がもう安定しない。片手と両足で壁にしがみつきながら、半ば制御されたかたちで落下する。コンクリートの外壁がイトの掌を削る。熱い。痛い。

 

 地面まであと二メートルの高さで、吸着が限界を迎えた。

 イトは女性を庇うように体を回し、自分の背中から地面に叩きつけられた。

 

「──ッ……!」

 

 衝撃で息が止まる。背中の痛み。でもすぐに確認する。腕の中の女性。呼吸。脈。

 

 ──生きている。

 

「だ、誰か! この人を……!」

 

 声を絞り出す。周囲の大人たちが駆け寄り、女性をイトの腕から受け取る。

 

 その瞬間、力が抜けた。

 

 糸を出した代償だ。視界がぐらりと傾き、膝が折れる。立っていられない。ひどい喉の渇きと、頭の芯が痺れるような倦怠感。もう指一本動かせない。

 

 地面に膝をついたまま、イトは荒い呼吸を繰り返した。

 

 

    *

 

 消防車とプロヒーローが到着したのは、その数分後だった。

 

 火はプロの個性で速やかに鎮火された。

 

 イトは救急隊員に水とブランケットを渡され、アパートの向かいの歩道に座り込んでいた。手のひらには壁を滑り降りた時の擦過傷が一面に広がっている。制服は煙で黒く汚れ、ところどころ焦げていた。

 

 そこに、プロヒーローが近づいてきた。

 

「君がやったのか」

「……はい」

「中学生だな」

「はい」

「個性を使って、燃えている建物に無断で侵入。要救助者を独断で搬出。壁面の吸着行為は飛行に準じる公共空間での個性使用にあたる可能性もある」

 

 淡々と列挙される。全て正論だった。

 

「君自身も煙を吸っている。もう少し遅ければ二人とも助からなかった。結果的に間に合ったから良かったものの、これは──」

「……すみません、でした」

 

 イトは俯いたまま答えた。反論する気はなかった。その通りだから。

 

 自分が出しゃばるべきではなかった。プロを待つべきだった。自分はサポート科を目指す中学生で、現場に出る訓練も受けていない。やったことは無謀で、危険で、結果論でしか正当化できない。

 

 ──やっぱり、分を弁えるべきだった。

 

 そう思いかけた時だった。

 

「あの……あの子は、どこに……」

 

 担架の上から、声がした。

 

 イトが顔を上げると、さっき助けた女性が身を起こそうとしていた。救急隊員に止められながら、きょろきょろと周囲を見回している。

 

「あの子。あの子が助けてくれたの。私を抱えて降りてきてくれた子……」

 

 周囲の視線がイトに集まる。

 

 女性がイトを見つけた。

 

 起き上がり、担架から降りようとして救急隊員に制止された。それでも手を伸ばし、イトの方を見て──泣いていた。

 

「ありがとう……ありがとう、ありがとう……!」

 

 その声は震えていた。煙を吸ったせいで掠れて、小さくて、でも確かにイトの耳に届いた。

 

「わたし、もう駄目だと思った。煙で動けなくなって、誰も来ないと思って……でも、あなたが来てくれた」

 

 イトは何も言えなかった。

 

 プロヒーローの正論が、正しいことは分かっている。

 自分が無謀だったことも、分かっている。

 でも──

 

 目の前で泣いている人がいる。

 生きている。

 

 自分が走ったから。

 

 理屈じゃなかった。13号の映像を何十回と見た時に感じていた、言葉に出来なかった感情が、胸の中で形を成していく。

 

 危険なことを、怒られて当然のことをした。

 でも──この人は、生きてる。

 

 涙が出た。自分でも驚いた。泣くつもりなんてなかったのに、止まらなかった。

 

「……よかった」

 

 それだけ言うのが精一杯だった。

 

 

    *

 

 皐月おばさんが駆けつけたのは、それからすぐだった。

 泣きながらイトを抱きしめ、「馬鹿」と言い、「無事でよかった」と言い、また「馬鹿」と言った。イトはされるがまま、「ごめん」と繰り返した。

 

 帰宅後、イトは風呂に入り、煤だらけの制服を洗濯機に放り込み、擦過傷に薬を塗り、そしてずっと考えていた。

 自室のベッドに座り、壁の13号のポスターを見つめる。

 

 ──危険な個性でも、使い方次第で人を救える。

 

 ずっと、それを見ているだけだった。

 13号みたいになれたらいいのに、と思いながら、「無理でしょ」と自分で蓋をしていた。

 

 でも今日。自分は走った。考えるより先に体が動いて、煙の中に飛び込んで、壁を登って、糸を出して、背中から落ちて──そしてあの人は生きていた。

 

 サポート科で、裏方から支える仕事。それが自分に合っていると思っていた。

 本当に?

 

 本当は。

 

 ──助けに行きたい。

 

 目の前で誰かが危ない時に、プロが来るまで待ってなんかいられない。今日、実際にそうだったじゃないか。頭では分かっていても、体が動いた。そしてそれを後悔していない。

 

 怒られたことは正しい。訓練も受けていない中学生が飛び出すのは間違いだ。

 

 なら──訓練を受ければいい。

 

「……ヒーロー科」

 

 声に出すと、急に現実味が増した。

 

 雄英高校ヒーロー科。サポート科ではなく。

 目指すべきは、そこだ。

 

 イトの視線が机の上のウェブシューターに移った。

 

 今日、糸が出せなくなった。瓦礫が落ちてきた時、糸が出せれば避けられた。補強できた。でも体がもう空っぽで、何も出せなかった。自分の体を盾にするしかなかった。あの状況でウェブシューターがあれば、自分の体に負担をかけずに糸を使えた。

 

 趣味の工作。サポート科の入試に出すための試作品。

 ──違う。

 これは自分の武器だ。自分がヒーローとして動くための、必須の道具だ。

 

「……本気で作ろう」

 

 ウェブシューターを手に取る。まだ不完全な、未完成のサポートアイテム。

 でもこれを完成させて、持ち歩くようにする。もう二度と「糸が出せない」なんてことがないように。

 

 そして、ヒーローになる。

 

 イトは進路希望の用紙を引き出しから取り出した。

 「サポート科」と書かれた文字を消しゴムで消し、その上に書く。

 

 ヒーロー科。

 

 消しゴムのカスを払い、用紙を見つめる。なんだか字が震えている。手が震えているのだ。怖い。でも、書いた。

 

 窓の外を見る。春の夜の空気は冷たいが、もう冬の匂いはしなかった。

 

中学編、USJ編みたいな章区分あった方がいいですか?

  • あった方がいいかも
  • なくてもいいかも
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