あれから、およそ一週間後。
日本の政治の中枢、総理大臣官邸の特別応接室には、この世のものとは思えない異様な緊張感が漂っていた。
「……こちらが、あなたの『日本国籍』と身分を証明する書類一式になります。我が国は全力を挙げて、フリーザ殿……いや、フリーザ様の身の安全と自由な活動を保証し、庇護することをお約束いたします」
最高権力者であるはずの内閣総理大臣は、ハンカチで滝のような冷や汗を拭いながら、恭しく一枚のカードをテーブルに差し出した。
「ホッホッホ。これはご丁寧に。わたくしともあろう者が、よもや辺境の星の『一市民』として国に庇護される日が来ようとは。なんとも不思議な気分ですね」
フリーザはふかふかの革張りソファに深く腰掛け、面白そうにそのマイナンバーカードをつまみ上げた。そこには確かに『降伊座(フリーザ)』という当て字の氏名と、白と紫の異形の顔写真が印刷されている。
……総理大臣がここまで極端な特別待遇を呑み、平身低頭な態度をとっているのには、明確な理由があった。
ほんの数日前――突如として現れた未知の宇宙人に対し、政府高官たちは当然のごとく疑いの目を向け、武力による制圧すら検討した。だが、フリーザは彼らを東京湾の視察へと連れ出すと、海に向かってスッと人差し指を向けたのだ。
『――ピキィィィィンッ!!』
指先から放たれた目にも留まらぬ一閃。
次の瞬間、轟音と共に海面が真っ二つに割れ、海底の泥土が遥か彼方まで剥き出しになるという、神話さながらの光景が現出したのである。
津波すら起こさず、ただ純粋なエネルギーの波圧だけで、海そのものを両断してみせたのだ。
『ホッホッホ……どうでしょう? これで私の力、ご納得いただけましたかね? 本物の、フリーザである、と。 お望みであれば、国の一つや二つ、この星から消して差し上げますが?』
にこやかに、かつ絶対的な死の気配を纏って微笑むフリーザの姿。思い出すだけで、総理大臣の背筋をまた氷のような悪寒が駆け抜けた。自衛隊など全く意味をなさない。いや、それどころか、世界中の軍をかき集めても相手にはなるまい。機嫌を損ねれば、この国ごと、この星ごと一瞬で消し炭にされる。
「……し、して、フリーザ様。我が国において、一体何をされたいのですか? 領土、莫大な資金、あるいはなにかの施設など……我々にできることであれば、なんなりと――」
怯えながら尋ねる総理に、フリーザはふっと笑みをこぼした。頭に浮かんでいたのは、あのオタク気質の警察署長が熱っぽく語っていた、未知の種族の少女たちの姿だ。
「領土も資金も必要ありませんよ。そんなものは、私の気まぐれ一つでどうとでもなりますからね」
フリーザは優雅に立ち上がり、窓枠に歩み寄る。眼下に広がる日本の首都を見下ろしながら、静かに、しかし確かな興味を含んだ声で言った。
「そうですね……。あの『ウマ娘』のレースというものを、一度生で見てみたいものですねぇ」
■
その週末。日本のレース文化の中心地である府中、東京レース場。その最上階に位置する、通常は国家元首や王族クラスしか足を踏み入れることのない特別VIPルームに、フリーザの姿はあった。
政府の極秘要請により、この日案内役として派遣されたのは、緑色の帽子とスーツがトレードマークの駿川たづなであった。周囲を固めるSPたちの異様な緊張感と、目の前で優雅に紅茶を傾ける、『明らかに地球の生命体ではない』異形の存在に対し、普段は冷静沈着なたづなでさえ、当初はその表情を硬くしていた。
しかし、その緊張は意外なほど早く解れることとなる。
「なるほど。芝とダートで要求される筋力と適性が異なり、さらに距離によってペース配分という名の『気』のコントロールが勝敗を分ける……単なる徒競走ではなく、極めて高度な知的格闘技というわけですね」
たづながレースのルールやウマ娘の特性について解説を始めると、フリーザは一度聞いただけでそのシステムの根幹を完璧に理解してみせた。宇宙規模の軍星を統治し、数多の種族の生態を把握してきたフリーザにとって、この程度の情報を整理することなど造作もない。そのあまりの理解力の速さと、時折挟まれる知性的で淀みのない、そしてどこか甘美ですらある巧みな話術に、たづなは次第に警戒心を解き、彼を「見識の深い一人の紳士」として接するようになっていった。
やがて、VIPルームの巨大なガラス窓から、出走前のウマ娘たちが周回するパドックを見下ろす時間がやってきた。
この日行われていたのは、G1には届かないものの、実力者たちが集うオープン特別競走。パドックには、動きやすい指定の体操服姿でウォーミングアップを行うウマ娘たちの姿があった。
フリーザはガラス越しに目を細め、彼女たちが発する独特の『気』を観察した。
常人には到底感知できない領域のエネルギー。それは惑星を吹き飛ばすような破壊的なものではないが、極限まで圧縮された濃密な闘気だった。パドックを歩く彼女たちの瞳の奥には、他者を蹴落とし、ただ一番にゴール板を駆け抜けたいという純粋かつ強烈な渇望が燃えたぎっている。
(……なるほど、なるほど。これは興味深い)
フリーザの脳裏に、かつて自分に牙を剥いた黄金の戦士たちの姿がよぎる。
(あの忌々しい野猿ども……サイヤ人とよく似ていますね。己の限界を超え、闘うことそのものに悦びを見出す戦闘種族の業。しかし彼女たちのそれは、殺戮や破壊ではなく、全てが『レースで勝つこと』のみに向けられている。血なまぐささの無い、ひたすらに純粋な闘争心……)
そして、ファンファーレが鳴り響き、各ウマ娘がゲートに収まる。そして、静寂を切り裂くようなスタートの合図と共に、十数人の少女たちが一斉にターフへと飛び出した。
「ほう……!」
フリーザは思わず感嘆の声を漏らした。
時速70キロを超えるスピード。
芝を蹴り上げる力強い足音。
風を切り裂き、互いの意地と戦術が火花を散らすデッドヒート。
それは単なる物理的な速さの競い合いを超えた、魂の削り合いだった。最終直線で最後方から一気に撫で斬るように抜き去っていったウマ娘の豪脚を見た時、フリーザの心には、久しく忘れていた純粋な「娯楽としての興奮」が湧き上がっていた。
「……素晴らしい。実に面白い見世物ですね。宇宙の数多の娯楽施設でも、これほど熱狂できる闘技場はそうそうありませんよ」
レースが終わり、スタジアムを包む割れんばかりの歓声を聞きながら、フリーザは満足げに拍手を送った。そして、ふと視線を隣のたづなへと向ける。
「一つ、気になったのですが」
「はい。なんでしょうか、フリーザ様」
「彼女たちのあの爆発的な脚力と、闘争心をコントロールする精神力。あれは生まれ持った才能だけではないでしょう。一体、どのようにしてあそこまでの実力を身につける訓練をしているのですかね?」
その問いに、たづなは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
目の前の存在が底知れぬ力を持っていることは痛いほど理解している。
彼をウマ娘たちの育成の「心臓部」に案内することが、果たして安全なのかどうか。しかし、フリーザがレースに向けていた眼差しには、悪意や破壊の衝動はなく、ただ未知の強者に対する純粋な探求心と敬意のようなものが感じられた。
何より、案内役としての使命感と、トレセン学園の理念が彼女の背中を押した。
「……彼女たちは皆、『日本ウマ娘トレーニングセンター学園』――通称『トレセン学園』という教育機関で、日々トレーナーと共に過酷な訓練を積んでおります」
たづなは居住まいを正し、真っ直ぐにフリーザの目を見つめ返した。
「もし、彼女たちのたゆまぬ努力の結晶と、その過程にご興味がおありでしたら……よろしければ、私がトレセン学園をご案内致しましょうか?」
その申し出を聞いた瞬間、フリーザの端正な顔に、あの凍りつくような、それでいてどこか優雅な笑みが浮かんだ。
「ホッホッホ……。良いですね。ぜひ、お願いしましょうか」