グラウンドは、水を打ったような静寂に包まれていた。
この学園でも随一のパワーを持つジェンティルドンナ。彼女の全力の突進を、ただの一歩も引かずに受け止めた異形。
彼女が呆然と見上げる先で、フリーザはにこやかな笑みを崩さないまま、スッと右手を伸ばした。
「では、お返しです」
その言葉と共に、フリーザの白い手がジェンティルドンナの手首をふわりと、ごく無造作に掴む。
「……っ!?」
次の瞬間、ジェンティルドンナの表情が驚愕から苦悶へと変わった。
万力などという生易しいものではない。まるで星一つの重力がその腕一点にのしかかったかのような、絶対的な圧力。ウマ娘の中でも最強クラスのフィジカルを誇る彼女が、全身の筋力を総動員して抵抗しようとする。しかし、フリーザの細い腕はピクリとも揺るがない。
「ぐ、うぅっ……!!」
ミシミシと骨が軋む音を立てながら、ジェンティルドンナは抗いきれず、ゆっくりと、そして完全に片膝をグラウンドの土へと突かされてしまった。
最強のウマ娘が、ただ手首を掴まれただけで平伏させられる。
その屈辱的な体勢に、ジェンティルドンナはギリッと牙を剥き出しにして顔を歪めたが、フリーザは彼女のプライドなど全く気にした様子もなく、あっさりと手を離した。
「ホッホッホ。素晴らしい突進でしたが、少々『気』の練り方が足りませんね」
埃を払うようにパパンと両手を叩き、フリーザはぐるりと周囲を取り囲む野次馬のウマ娘たちを見渡した。圧倒的な力の恐怖に縛り付けられ、誰一人として声を発することができない彼女たちに向けて、宇宙の帝王は極めて優雅に、そして残酷な問いを投げかける。
「さて。……他に、私に挑戦したい方はおられますか?」
静まり返るグラウンド。ウマ娘たちの本能が『あれに逆らってはいけない』と激しく警鐘を鳴らしている。たづなでさえ、声の出し方を忘れたように青ざめていた。
その時だった。
「……底が全く見えないな。だが」
重々しく、しかし凛とした声が静寂を切り裂いた。
群衆をかき分け、毅然とした足取りで前へ歩み出たのは、威風堂々たるトレセン学園の生徒会長――『皇帝』シンボリルドルフだった。
彼女は鋭い眼光でフリーザを見据えながら、隣で飄々と鼻歌を歌っている破天荒なウマ娘へ視線を向けた。
「我がトレセン学園の威信にかけて、これ以上、客人とはいえ好きにさせるわけにはいかない。……ゴールドシップ。手を貸す気はあるか?」
名指しされたゴールドシップは、被っていた耳当て付きの帽子をクイッと持ち上げ、ニヤリと凶悪な、それでいて最高に楽しそうな笑みを浮かべた。
「お!? 堅物の生徒会長様から直々のパーティーのお誘いとは、明日は槍でも降るんじゃねーの!?」
ゴールドシップは独特のステップを踏みながら、ルドルフと肩を並べるように前に出る。そして、目の前の異形の宇宙人を指差し、高らかに宣言した。
「いいぜ! 宇宙の帝王だかタコ星人だか知らねえが、アタシの黄金のドロップキックで、宇宙まで蹴り飛ばしてやんよ!」
「……フッ。頼もしいな。では、行くぞ」
「おうさ!」
決して交わることのないはずの『皇帝』と『黄金の不沈艦』。トレセン学園が誇る最強にして異端のタッグが、宇宙の帝王フリーザを前に、並び立ったのである。
「……ほう?」
フリーザは真紅の瞳を細め、嬉しそうに口角を吊り上げた。
「これはこれは。ずいぶんと威勢の良いお嬢さんたちですねぇ。ええ、歓迎しますよ。まとめてかかってきなさい」
■
グラウンドの中央。対峙するシンボリルドルフとゴールドシップを見据えながら、フリーザは退屈そうに首をポキリと鳴らした。
「ですが、ただの力比べでは少々つまらないですね。純粋な腕力において、先ほど平伏していただいた彼女を上回るウマ娘は、この場におられないとお見受けします」
「……全くだな。ジェンティルドンナのパワーは我が校でも随一。それを真っ向からねじ伏せた君に、同じ土俵で挑むほど我々も愚かではない」
冷静に分析するルドルフの言葉に、フリーザは「ホッホッホ」と満足げに笑った。
「話が早くて助かります。では、一つ提案ですが……貴女方の全力をもって、私の体に一度でも『触れる』ことができたら……そちらの勝ち、というのはどうですか? もちろん、私からは一切手を出しませんよ」
その言葉が響いた瞬間。ルドルフの理知的な瞳の奥に、そしてゴールドシップの破天荒な笑みの裏に、確かな「怒り」の炎が灯った。
(……舐められたものだな)
言葉には出さずとも、二人のウマ娘が放つ闘気が一段と跳ね上がる。トレセン学園の威信を、ウマ娘の誇りを、ただの遊戯の対象として見下されたのだ。
「へっ、言ってくれるじゃねえか。ハンデなんざいらねえが、そこまで言うなら宇宙の果てまで後悔させてやるよ!」
「行くぞ、ゴールドシップ!」
刹那、先陣を切ったのはルドルフだった。
芝を蹴り飛ばし、フリーザの正面へと肉薄する。しかし、それは単純に直線的な突進ではない。フリーザの視界を奪い、退路を塞ぐように精密に計算された、完璧な制圧のステップだった。
(ふむ。見事な身のこなしですが、遅いですね)
フリーザが余裕の笑みを浮かべ、ルドルフの包囲網からスッと身をかわそうとした、まさにその時。
「そりゃあああああっ!!!」
ルドルフが作り出した完璧な死角――上空から、太陽を背に猛烈な影が降ってきた。
理詰めなルドルフの動きとは対極にある、野生の獣のような全く予測不能な軌道。ゴールドシップの代名詞とも言える『ドロップキック』が、フリーザの顔面目掛けて放たれたのだ。
皇帝の陽動からの、不沈艦の本命。あまりにも規格外な連携に、さすがのフリーザも「おや?」と僅かに目を見開いた。
――ドスゥゥンッ!!!
凄まじい衝撃音がグラウンドに響き渡った。ゴールドシップの両足が、確かにフリーザの白い頬にクリーンヒットしたのだ。
「あわわわわわ……っ! し、シンボリルドルフさんまでもお客様に……っ!!」
見てはいけないものを見てしまったとばかりに、たづなが頭を抱えてその場にしゃがみ込む。野次馬のウマ娘たちも一斉に息を呑んだ。
しかし、砂埃が風に流されると、そこには異様な光景が広がっていた。
「クリーンヒットォ! どうだタコ星人……! ……って、おいおいおい、マジかよ」
ドロップキックを直撃させたはずのゴールドシップが、空中で静止していた。フリーザは頬に彼女の両足を突き立てられたまま、首をほんの数センチ横に傾げただけで、微動だにしていなかったのだ。顔には傷一つ、泥すらついていない。
「……私の負けです。見事な連携と、あの体勢からの規格外な跳躍。全く気の探れない死角からの奇襲ですか。なるほど、ウマ娘とは実に、面白い存在だ」
フリーザはどこ吹く風といった様子で涼しく微笑むと、空中のゴールドシップを指先で軽く弾き飛ばした。「うおっ!?」と見事な受け身を取って着地した彼女と、警戒を解かないルドルフを見つめ、フリーザは愉快そうに告げた。
「決めました! しばらくはこのトレセン学園に留まることにしましょう!」
宇宙の帝王の突然の「長期滞在宣言」に、周囲がざわめきに包まれる。
フリーザはそんな混乱など気にも留めず、視線をグラウンドの端へと向けた。そこには、先ほど片膝をつかされた屈辱を噛み殺し、射殺すような鋭い眼光でこちらを睨みつけているジェンティルドンナの姿があった。
「貴女も……」
フリーザは真紅の瞳を細め、彼女の煮えたぎるような闘争心を愛でるように微笑んだ。
「私が近くにいた方が、いつでも再戦を挑めてご都合がよろしいでしょう?」