さびしきもの   作:ひまんちゅ

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迷い社

山に入ったのは、ほんの出来心だった。

 

大学の民俗学サークルで、私は怪異譚の採集を担当していた。担当、というと聞こえはいいが、要するに他の連中が嫌がる聞き込みや現地確認を、なぜか私が押しつけられていただけだ。いや、押しつけられたというのも少し違うかもしれない。私はそういう話が嫌いではなかったし、少なくとも「怖い話を怖いと感じないふり」は得意だった。

 

今回の題材は、古い山村に伝わる「迷い社」の話だった。

 

山道を外れた者が、見覚えのない石段に出る。

段を上がると小さな社があり、白い着物の誰かがいる。

もてなしを受けるが、振り返ってはならない。

名前を教えてはならない。

出されたものを三度断ってはならない。

 

そういう、どこにでもある類の禁忌の寄せ集めだった。地方ごとに細部は違っても、骨格はだいたい同じだ。異界に迷い込み、そこにいる何かに気に入られてしまう。連れ去り、神隠し、婚姻、供物。昔話と怪談と信仰の境目で、何度も擦られて丸くなった石ころのような話。

 

だから私は、半分は馬鹿にしていた。

 

録音機を片手に、集落の老人から話を聞いた帰り道だった。舗装の切れた林道を歩きながら、私はスマートフォンのメモを見返していた。圏外。午後四時。日暮れまでには戻れる見込み。沢沿いの道は湿っていて、靴の裏に泥が張りつく。杉の匂いが鼻にこもる。

 

ふと、鳥の声が止んだ。

 

ああ、これは出来すぎだ、と思った。怪談の導入としてあまりに出来すぎている。そう思いながら顔を上げたとき、林道の脇、倒れた木の向こうに石段があった。

 

古びた、幅の狭い石段だった。

苔むしているのに、なぜか踏面だけが新しいように見える。

その上には朱の褪せた鳥居が立っていた。

 

さっきまでなかったはずだ、と思った。

少なくとも私は気づかなかった。

だが、気づかなかったことと存在しなかったことは同じではない。山では視界が簡単に歪む。見落としもする。思い込みもする。私は怪異の入口に立っていながら、なお説明を探す側の人間だった。

 

録音機をポケットに押し込み、私は石段を上がった。

 

上りきった先には、本当に小さな社があった。

 

社殿と呼ぶにはみすぼらしい、板張りの建物。前に注連縄。両脇に狛犬。片方は鼻先が欠けている。境内は驚くほどきれいに掃き清められていた。風もないのに紙垂がかすかに揺れている。

 

そして、その前に、ひとり立っていた。

 

女、と最初は思った。

白い着物に、黒い髪。年の頃は二十前後に見える。けれど顔立ちは妙に曖昧で、目を離すたび印象が変わる。幼いようでもあり、老いているようでもある。美しいのに、細部を思い返そうとすると輪郭からこぼれ落ちる。

 

「ようこそ」

 

鈴のような声だった。

 

「よく来てくださいました」

 

山中で人に会った驚きより先に、私はその言葉の自然さに違和感を覚えた。まるで私が来ることを知っていたみたいではないか。

 

「道に迷っただけです」

「そういうことにしておきましょう」

 

微笑む。

その笑みが、ひどく人間らしくて逆に怖かった。

 

「お茶を淹れます。少しお休みになってください」

「いえ、結構です。もう下りないと」

「お帰りになれませんよ」

 

さらりと言われて、私は黙った。

 

冗談めいた調子ではなかった。

脅しでもない。ただ、今夜は雨です、と告げるような平坦さだった。

 

「……そういう決まりなんですか」

「決まりというほど立派なものでもありません」

 

彼女は社務所めいた建物の戸を引いた。

中は意外なほど生活感があった。畳、卓袱台、湯呑み、箪笥、壁に掛かった扇子、干しかけの布巾。神域というより、ひとり暮らしの古い家のようだった。

 

「どうぞ」

 

私は逡巡した末、上がった。

 

怪異における禁忌は、たいてい「知っていて破る」と発動する。そう考えている自分に苦笑した。あまりにも安い探索者気取りだ。だが同時に、山の夕暮れを前にして石段を引き返す気にもなれなかった。空気が重い。鳥の声は戻らない。ここで無理に背を向けるほうが、むしろ取り返しのつかないことになる気がした。

 

彼女は手際よく茶を淹れ、私の向かいに座った。

 

「お名前は?」

「名乗らないほうがいいんでしょう」

「ふふ」

 

彼女は少し目を細めた。

 

「そういう知識、あるんですね」

「まあ、多少は」

「では、わたしのことも神様だと思っていますか」

「違うんですか」

「どうでしょう」

 

曖昧に笑う。

 

湯呑みから立つ湯気はまっすぐで、香りは普通の番茶だった。毒の匂いもしない。私は一口だけ飲んだ。熱い。味も普通だ。

 

「おいしいです」

「よかった」

 

ほっとしたように言うのが、妙に可笑しかった。

 

それから彼女は、取り留めのない話をした。山のこと、雨のこと、昔はここにも参拝客が来たこと。どれも本当らしく聞こえ、同時に、どこか作り物めいていた。私が帰る話をするたび、彼女は「まだです」とだけ答えた。何が、とは言わない。だが、その「まだ」が奇妙に重かった。

 

夜になった。

 

私は帰れなかった。

 

試しに戸口まで行くと、境内の向こうがひどく暗かった。山の夜など本来そんなものだろう。だがその暗さは、距離の感覚を奪う類のものだった。懐中電灯を向けても、光が途中で吸い込まれてしまう。石段があるはずの場所が見えない。空気が濡れた布のようにまとわりついて、足を踏み出す気力を削ぐ。

 

「言ったでしょう」

 

振り返ると、彼女が立っていた。

 

「お帰りになれませんよ」

 

責めるでもなく、喜ぶでもなく、ただ事実を確認する声だった。

 

「……閉じ込める気ですか」

「そんなつもりはありません」

「でも帰れない」

「今は」

 

今は。

その一言に、私はぞっとした。

 

「いつまで」

「あなたが、ここにいてもいいと思うまで」

 

意味が分からなかった。

意味が分からないのに、その言葉だけが妙に胸に残った。

 

結局、その夜、私はそこに泊まることになった。

 

布団は清潔で、部屋は静かだった。静かすぎて、自分の心臓の音がうるさい。襖ひとつ隔てた向こうに、彼女がいる。人ならざるものかもしれない存在。山の社に住み、帰るなと言う白い着物の誰か。

 

にもかかわらず、私が最後に考えたのは、恐怖よりも別のことだった。

 

夕食の味噌汁が、妙に薄味でおいしかったこと。

箸の持ち方がやけに不器用だったこと。

そして、私が「いただきます」と言ったとき、彼女が少しだけ嬉しそうに笑ったこと。

 

それは怪異を前にして抱くには、あまりに人間的な感想だった。

 

眠りに落ちる直前、襖の向こうから小さな声がした。

 

「やっと来てくれた」

 

聞こえないふりをした。

 

その一言だけで、私は理解してしまったからだ。

ここにいるのは、私を喰う怪物ではない。

もっと厄介なものだ。

 

ひどく、ひどく寂しい何かだった。

 

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