さびしきもの 作:ひまんちゅ
変化は、気づかない形で積み重なる。
それはある日突然ではなく、少しずつ、意識の隙間に入り込む。
違和感としてではなく、むしろ「自然なこと」として。
その朝、私はいつも通り目を覚ました。
障子越しの光。
木の匂い。
静かな空気。
起き上がると、ふとした違和感に気づく。
――軽い。
身体が、ほんの少しだけ軽い。
疲労が抜けている、というのとは違う。
もっと根本的な、重さの欠落。
私は手を握る。
開く。
感覚はある。
問題はない。
ただ、密度が薄いような。
「……気のせいか」
そう結論づけて、居間へ向かう。
彼女はすでにそこにいた。
「おはようございます」
「おはよう」
いつものやりとり。
変わらない。
だが。
「……どうかしましたか」
彼女が言った。
「何がですか」
「少しだけ」
言葉を選ぶようにして。
「軽いです」
私は一瞬、動きを止めた。
「軽い?」
「はい」
彼女は近づいてくる。
距離が詰まる。
視線が合う。
「少しだけ、薄いです」
「……」
私は何も言わなかった。
代わりに、深く息を吸う。
吐く。
「そういうこと、分かるんですね」
「分かります」
迷いのない答え。
「ここにいるものは、全部」
「……なるほど」
私は少し考えた。
そして、言う。
「問題はありますか」
「今はありません」
「今は」
「はい」
彼女は一歩引いた。
「まだ、です」
その言い方は、曖昧でありながら確信を含んでいた。
私はそれ以上追及しなかった。
午前中、私は再び外へ出た。
石段。
林道。
舗装路。
慣れた流れ。
だが今日は、少し違うことを試す。
――長く滞在する。
町の中を歩く。
人の流れに混じる。
店に入る。
買い物をする。
ベンチに座る。
時間をかける。
一時間。
二時間。
その間、私はずっと観察していた。
自分の状態を。
周囲との関係を。
そして。
やはり、ズレがある。
ほんのわずかだ。
他人には分からない程度。
だが確実に。
音が遠い。
匂いが薄い。
温度の変化が鈍い。
そして。
人とすれ違うとき。
ほんの一瞬だけ、目が合わない。
避けられているわけではない。
ただ、認識が滑る。
「……なるほどな」
私は小さく呟いた。
これは外の問題ではない。
私の側の問題だ。
私は立ち上がった。
戻る。
同じ道を、逆に辿る。
石段を上る。
鳥居をくぐる。
境内に入る。
その瞬間。
すべてが、はっきりする。
音。
匂い。
温度。
そして。
――重さ。
「……戻ったな」
私は静かに言った。
彼女はすぐに現れた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
その声は、少しだけ安心していた。
「どうでしたか」
「予想通りです」
私は短く答える。
「外にいると、少しずつ薄くなる」
「……はい」
彼女はうなずいた。
「ここに戻ると」
「戻る」
「元に戻る」
私は腕を組む。
「つまり、これは」
「はい」
「一種の……定着ですね」
彼女は言った。
「ていちゃく」
「ええ」
私は考える。
言葉を選ぶ。
「ここに長くいると」
「はい」
「こちら側に寄る」
彼女は静かに聞いている。
「外にいると」
「はい」
「少しずつ離れる」
「でも」
彼女が言った。
「完全には、戻りません」
「……」
私は彼女を見た。
「何が」
「一度、触れたものは」
彼女は自分の胸に手を当てた。
「少しだけ、残ります」
私はしばらく黙った。
その言葉は、理解できる。
そして。
理解したくない部分も含んでいた。
午後、私は紙に新しい項目を書き加えた。
――定着(anchoring)
その下に、仮説を並べる。
時間。
接触。
意識。
彼女は横でそれを見ていた。
「それは、危険ですか」
「まだ分かりません」
「……」
「ただ」
私はペンを置いた。
「不可逆かもしれない」
彼女は何も言わなかった。
その沈黙は、肯定にも否定にも見えた。
夕方。
縁側。
いつもの場所。
風が吹く。
「……あの」
彼女が言った。
「何ですか」
「戻りたくなくなりますか」
私は少しだけ笑った。
「まだ分かりません」
「……」
「でも」
私は空を見る。
「今のところは」
「はい」
「戻れるなら、戻るつもりです」
彼女はうなずいた。
だが。
その表情は、少しだけ複雑だった。
「……分かりました」
それだけ言って、黙る。
私はその横顔を見ていた。
何も言わない。
言う必要もない。
ただ。
確かに何かが変わり始めている。
それは彼女かもしれない。
私かもしれない。
あるいは、その両方。
夜。
布団に入る。
目を閉じる。
その直前。
私はふと、気づいた。
指先。
ほんのわずかに。
冷たい。
まるで。
何かに触れられているような。
だが。
目を開けても、何もない。
「……」
私はそのまま、目を閉じた。
そして。
考えることをやめた。