さびしきもの   作:ひまんちゅ

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第十一話 残るもの

 変化は、必ずしも均一ではない。

 

 それはある部分から始まり、別の部分へと滲み出す。

 中心があって、そこから広がるように。

 

 その朝、私は指先の違和感を確かめるところから始めた。

 

 布団の中で、右手を持ち上げる。

 軽く握る。

 開く。

 

 問題はない。

 

 だが、やはり冷たい。

 

 皮膚の温度ではない。

 感覚のほうだ。

 

 何かが一枚、薄く重なっているような。

 

「……」

 

 私はゆっくりと起き上がった。

 

 居間へ向かう。

 

 彼女はすでにいた。

 

「おはようございます」

「おはよう」

 

 そのあと、少しだけ間を置いて。

 

「……少し、触れてもいいですか」

 

 私はそう言った。

 

 彼女は一瞬だけ驚いたように目を瞬かせたが、すぐにうなずいた。

 

「はい」

 

 私は右手を差し出す。

 

 彼女も手を伸ばす。

 

 触れる。

 

 指先と指先が、軽く重なる。

 

 その瞬間。

 

 ――冷たさが、消えた。

 

 代わりに、はっきりとした感覚が戻る。

 

 重さ。

 温度。

 輪郭。

 

 私はわずかに目を細めた。

 

「……なるほど」

 

 彼女は何も言わない。

 

 ただ、じっとこちらを見ている。

 

「今のは」

「はい」

「分かっていましたか」

 

 彼女は小さくうなずいた。

 

「少しだけ」

「どういう状態ですか」

「……離れていると」

「はい」

「薄くなります」

 

 私は手を離した。

 

 すぐに、わずかな冷たさが戻る。

 

「触れると」

「はい」

「戻る」

 

 彼女は再びうなずいた。

 

「強く、なります」

 

 私は少し考えた。

 

「つまり」

「はい」

「接触が、定着を強める」

 

 彼女は否定しなかった。

 

 午前中、私は外へ出た。

 

 今日は実験のつもりだった。

 

 できるだけ長く滞在する。

 そして、どこまで薄くなるかを確認する。

 

 町へ。

 

 人混みへ。

 

 時間をかける。

 

 一時間。

 二時間。

 三時間。

 

 その間、私はほとんど何もせず、ただ座っていた。

 

 観察。

 

 感覚。

 

 変化。

 

 徐々に、確実に、何かが削れていく。

 

 音が遠くなる。

 色が淡くなる。

 匂いが消える。

 

 そして。

 

 身体の境界が、曖昧になる。

 

 手を見ても、どこまでが自分なのか、ほんの少しだけ分かりにくい。

 

「……限界か」

 

 私は立ち上がった。

 

 足取りは問題ない。

 だが、地面を踏んでいる感覚が薄い。

 

 私は急いで戻った。

 

 石段。

 鳥居。

 

 境内。

 

 その瞬間。

 

 ――戻る。

 

 すべてが、急に鮮明になる。

 

 私はその場で、軽く息を吐いた。

 

「……思ったより早いな」

 

 彼女が近づいてくる。

 

「大丈夫ですか」

「問題ありません」

 

 私はそう答えた。

 

 だが、彼女は少しだけ首をかしげる。

 

「……少し」

「何ですか」

「残っています」

 

 私は眉をひそめた。

 

「残っている?」

「はい」

 

 彼女は私の手を見る。

 

「そこ」

 

 私は自分の手を見る。

 

 何もない。

 

 だが。

 

「……確かに」

 

 触れられていないのに、触れられているような感覚がある。

 

 指先ではない。

 

 手の甲。

 

 そこに、何かがある。

 

「これは」

「刻まれています」

 

 彼女は言った。

 

「少しだけ」

「……」

 

「ここにいると」

「はい」

「それは、強くなります」

 

 私はしばらく黙った。

 

 理解はできる。

 

 だが。

 

 理解したくない部分もある。

 

 午後、私は紙に書き加えた。

 

 ――刻印(imprint)

 

 その下に、短く書く。

 

 接触による強化。

 外部での減衰。

 完全な消失はなし。

 

 彼女は横でそれを見ていた。

 

「それは」

「はい」

「悪いものですか」

 

 私は少しだけ考えた。

 

「まだ判断できません」

「……」

 

「ただ」

 私はペンを置いた。

 

「影響はある」

 

 彼女は静かにうなずいた。

 

 夕方。

 

 縁側。

 

 風が吹く。

 

 いつもの時間。

 

「……あの」

 

 彼女が言った。

 

「何ですか」

「触れてもいいですか」

 

 私は少しだけ驚いた。

 

 だが、すぐにうなずいた。

 

「どうぞ」

 

 彼女は手を伸ばす。

 

 私の手に触れる。

 

 今度は、向こうから。

 

 その瞬間。

 

 冷たさが完全に消える。

 

 代わりに、強い実在感。

 

 まるで、そこに固定されるような。

 

 私は一瞬、息を止めた。

 

「……強いですね」

「はい」

 

 彼女は手を離さない。

 

「こうすると」

「はい」

「安心します」

 

 私は何も言わなかった。

 

 ただ、その感覚を観察する。

 

 そして、同時に理解する。

 

 これは一方的なものではない。

 

 彼女もまた、何かを得ている。

 

「……」

 

 やがて、彼女は手を離した。

 

「すみません」

「いえ」

 

 私は首を振った。

 

「問題ありません」

 

 それは事実だった。

 

 だが。

 

 問題がないわけではない。

 

 夜。

 

 布団に入る。

 

 目を閉じる。

 

 その直前。

 

 私は再び、手を見た。

 

 何もない。

 

 だが。

 

 そこに、確かに残っている。

 

 触れられた感覚。

 刻まれたもの。

 

 それは消えない。

 

 たとえ外に出ても。

 

 たとえ時間が経っても。

 

「……なるほど」

 

 私は小さく呟いた。

 

 これは、単なる現象ではない。

 

 関係だ。

 

 そして。

 

 一度できた関係は、完全には消えない。

 

 私はその事実を、静かに受け入れた。

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