さびしきもの   作:ひまんちゅ

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第十二話 結び目の位置

 その日、私はあえて何も持たずに外へ出た。

 

 スマートフォンも、財布も、食料も。

 最低限のものだけ残して、身軽にする。

 

 理由は単純だ。

 

 ――どこまで戻れるかを、もう一度確かめるため。

 

 石段を下りる。

 林道。

 舗装路。

 

 慣れた流れ。

 

 だが、今日は違う。

 

 私は立ち止まらず、そのまま歩き続けた。

 

 町を抜ける。

 駅のほうへ向かう。

 

 人の数が増える。

 音が増える。

 匂いが変わる。

 

 すべてが「外」だ。

 

 私はその中を歩き続けた。

 

 一時間。

 二時間。

 

 足は止まらない。

 だが、感覚は確実に変わっていく。

 

 ――薄い。

 

 身体が。

 

 視界が。

 

 世界が。

 

 すべてが、少しずつ軽くなる。

 

 いや。

 

 軽いのではない。

 

 ――結びつきが弱くなる。

 

 私はそう理解した。

 

 足が地面に接している。

 だが、その接触が浅い。

 

 音が耳に届く。

 だが、どこか遠い。

 

 人とすれ違う。

 だが、視線が合わない。

 

 私はそのまま歩き続けた。

 

 さらに一時間。

 

 駅に着く。

 

 改札の前で立ち止まる。

 

 行こうと思えば行ける。

 

 電車に乗る。

 もっと遠くへ行く。

 

 山を離れる。

 

 あの場所から、完全に距離を取る。

 

 それは可能だ。

 

 だが。

 

「……」

 

 私は、動かなかった。

 

 理由は、はっきりしている。

 

 ――戻れなくなるかもしれない。

 

 それは恐怖ではない。

 

 ただの事実としての理解だ。

 

 ここまで離れても、まだ「戻る」感覚はある。

 

 だが、これ以上進めば。

 

 その感覚が切れるかもしれない。

 

 完全に。

 

 私はゆっくりと息を吐いた。

 

 そして、踵を返した。

 

 戻る。

 

 同じ道を、逆に辿る。

 

 町を抜ける。

 林道へ。

 石段。

 

 上る。

 

 鳥居。

 

 境内。

 

 その瞬間。

 

 ――強く、戻る。

 

 私はその場で、軽くよろめいた。

 

 重さが一気に戻る。

 

 音。

 匂い。

 温度。

 

 すべてが濃くなる。

 

「……大丈夫ですか」

 

 彼女がすぐに現れた。

 

「問題ありません」

 

 私はそう答えた。

 

 だが、少しだけ息が荒い。

 

「今日は、遠くまで行きましたね」

「駅まで」

「……」

 

 彼女は一瞬だけ言葉を失った。

 

「そこまで、行けるんですね」

「行けます」

 

 私はうなずいた。

 

「でも」

「はい」

「それ以上は、やめました」

 

 彼女はゆっくりと息を吐いた。

 

 安心したような、そうでないような。

 

「どうしてですか」

「切れるかもしれないからです」

「切れる」

「戻る感覚が」

 

 私は自分の胸に手を当てた。

 

「ここにある、これが」

「……」

 

 彼女はそれを見ていた。

 

「それは」

「はい」

「どこにありますか」

 

 私は少し考えた。

 

「……ここです」

 

 胸のあたりを指す。

 

「中心」

「はい」

 

 彼女はゆっくりと近づいた。

 

「触れてもいいですか」

「どうぞ」

 

 彼女の手が、私の胸に触れる。

 

 直接ではない。

 衣服の上から。

 

 だが、その瞬間。

 

 ――はっきりする。

 

 位置が。

 

 結び目が。

 

「……ここですね」

 

 彼女が静かに言った。

 

「結び目」

「はい」

 

 私はうなずいた。

 

「ここに、つながっている」

「どこに」

「ここに」

 

 彼女は境内を指す。

 

「……なるほど」

 

 私は小さく息を吐いた。

 

 理解した。

 

 これは単なる「定着」ではない。

 

 ――接続だ。

 

 私と、この場所。

 そのあいだに、結び目ができている。

 

 そして、それは。

 

 完全には切れない。

 

 午後、私は紙に書き加えた。

 

 ――結び目(node)

 

 その下に、仮説を書く。

 

 位置:胸部。

 機能:接続維持。

 範囲:不明(拡張可能性あり)。

 

 彼女はそれを見ていた。

 

「それは」

「はい」

「増えますか」

 

 私は少しだけ考えた。

 

「分かりません」

「……」

 

「でも」

 私はペンを置いた。

 

「ひとつで済むなら、そのほうがいい」

 

 彼女は小さくうなずいた。

 

 夕方。

 

 縁側。

 

 いつもの場所。

 

 だが今日は、少しだけ距離が近い。

 

「……あの」

 

 彼女が言った。

 

「何ですか」

「もし」

 

 少しだけ迷う。

 

「もし、切れたら」

 

 私は空を見た。

 

「戻れなくなります」

「……」

 

「でも」

 私は続ける。

 

「まだ切れてない」

 

 彼女はうなずいた。

 

「はい」

 

「だから」

「はい」

「今は、大丈夫です」

 

 彼女はしばらく黙っていた。

 

 やがて、静かに言う。

 

「……切らないでください」

「努力します」

 

 私は軽く答えた。

 

 だが。

 

 その言葉は、思ったよりも重かった。

 

 夜。

 

 布団に入る。

 

 目を閉じる。

 

 胸に手を当てる。

 

 そこに、確かにある。

 

 結び目。

 

 目には見えない。

 

 だが、触れれば分かる。

 

 確かなもの。

 

 私はそれを、ゆっくりと確かめた。

 

 そして。

 

 ――まだ、大丈夫だ。

 

 そう判断して、目を閉じた。

 

 眠りに落ちる直前。

 

 ほんの一瞬だけ。

 

 その結び目が、わずかに強くなった気がした。

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