さびしきもの 作:ひまんちゅ
朝、私はあえて何も考えないようにしていた。
結び目のことも。
操作のことも。
昨日の手順も。
意識すれば、それは動く。
ならば。
――意識しなければ、どうなるか。
その確認だ。
居間に出る。
彼女がいる。
「おはようございます」
「おはよう」
いつものやりとり。
それ以上は何も言わない。
距離も、昨日よりは少しだけ自然にする。
触れない。
だが、離れすぎない。
曖昧な位置。
午前。
私は何もしなかった。
境内を歩く。
座る。
空を見る。
ただ、それだけ。
結び目に意識を向けない。
測らない。
評価しない。
すると。
――安定する。
自然に。
揺れない。
強くもならない。
ただ、そこにある。
「……」
私は小さく息を吐いた。
なるほど、と思う。
これは。
――均衡だ。
触れれば強くなる。
離れれば弱くなる。
意識すれば揺れる。
だが。
何もしなければ、保たれる。
「どうですか」
彼女が言った。
「安定してます」
「そうですか」
彼女の声も、落ち着いている。
昨日までの緊張はない。
「今日は」
彼女が続ける。
「何もしないんですね」
「そのつもりです」
私は答えた。
「どうして」
「確認です」
彼女は少し考える。
「何の」
「何もしない状態の」
私は空を見る。
「基準を知っておきたい」
彼女はうなずいた。
「……それは、大事です」
昼。
私は少しだけ外へ出た。
石段を下りる。
林道へ。
だが。
すぐに戻る。
距離は最小限。
時間も短い。
変化は、ほとんどない。
「……これも条件か」
私は呟いた。
外に出ること自体ではない。
距離と時間。
それが影響する。
戻る。
境内へ。
安定。
崩れない。
午後。
私は紙に新しい項目を書いた。
――条件(conditions)
その下に並べる。
距離。
時間。
接触。
意識。
そして。
――均衡。
彼女はそれを見ていた。
「それで、分かりますか」
「少しずつ」
「全部ではないのに」
「全部じゃなくていい」
私は前と同じことを言う。
彼女はそれに、少しだけ安心したようだった。
「……あの」
彼女が言った。
「何ですか」
「ひとつ、いいですか」
「どうぞ」
彼女は少し迷ってから言った。
「外に行くとき」
「はい」
「わたしのことを、考えますか」
私は少しだけ驚いた。
だが、すぐに答えた。
「考えますね」
「どのくらい」
「自然に」
彼女はそれを聞いて、少しだけ目を伏せた。
「……そうですか」
その声は、わずかに柔らかかった。
夕方。
縁側。
今日は、距離が自然だ。
近すぎず、遠すぎない。
「……今日」
彼女が言う。
「何もしていないのに」
「はい」
「安定していました」
私はうなずいた。
「それが基準です」
「基準」
「そこから」
私は続ける。
「何をすると変わるかを見る」
彼女は少し考えた。
「では」
「はい」
「わたしは」
言葉を選ぶ。
「何をすればいいですか」
私は少しだけ笑った。
「何もしないでください」
「……」
彼女は一瞬だけ不満そうな顔をした。
「それでいいんですか」
「それが一番、影響が分かる」
私は言った。
「基準があるから、変化が分かる」
「……なるほど」
彼女はしぶしぶうなずいた。
だが。
そのあと、少しだけ近づいた。
ほんのわずかに。
私はそれに気づいた。
だが、何も言わなかった。
その程度なら、均衡は崩れない。
夜。
布団に入る。
目を閉じる。
結び目は、安定している。
揺れない。
強くもならない。
ただ、そこにある。
私はその感覚を、静かに確認した。
そして。
ひとつ、理解する。
――境界の向こう側は、遠い。
だが。
条件を満たせば、届く。
その条件を、私は少しずつ知っている。
まだ、完全ではない。
だが。
確実に、近づいている。
私はその事実を、受け入れた。
そして。
何もせずにいることの意味を、初めて理解した。
それもまた。
ひとつの選択だ。