さびしきもの 作:ひまんちゅ
その日の朝、私は自分の名前に違和感を覚えた。
理由は単純だ。
彼女に呼ばれる回数が、増えている。
それだけのことだ。
居間に出る。
彼女がいる。
「おはようございます」
いつもの挨拶。
そして。
自然に続く。
私の名前。
昨日までと同じはずなのに。
――少しだけ、違う。
「……」
私は一瞬、返事を忘れた。
「どうかしましたか」
彼女が言う。
少しだけ首をかしげている。
「いえ」
私は答えた。
「ただ、少し」
言葉を探す。
「違和感があって」
「違和感」
彼女は繰り返す。
「名前です」
私は言った。
彼女は少し考えた。
「呼び方が、変わりましたか」
「いえ」
「では」
「受け取り方です」
彼女はそれを聞いて、少しだけ目を細めた。
「……どう違いますか」
「ここで呼ばれると」
私は少しだけ考える。
「重い」
「……」
「外で呼ばれるのと」
「はい」
「違う意味がある気がする」
彼女はしばらく黙っていた。
やがて、静かに言う。
「ここでは」
少しだけ間を置く。
「結びつきます」
私はその言葉を、ゆっくりと受け止めた。
午前。
私はあえて外へ出た。
石段。
林道。
舗装路。
町。
人の中へ。
そして。
自分の名前を、意識する。
呼ばれる。
店員に。
電話で。
普通に。
何も起きない。
軽い。
ただの識別子。
だが。
――ここでの名前は違う。
私はそれをはっきりと理解した。
戻る。
石段。
鳥居。
境内。
彼女がいる。
「おかえりなさい」
そして。
名前。
その瞬間。
――結び目が反応する。
わずかに。
確かに。
私は小さく息を吐いた。
「……やっぱり」
彼女が近づいてくる。
「どうでしたか」
「外では普通です」
「はい」
「でも、ここでは違う」
彼女は静かに聞いている。
「名前が」
「はい」
「結びつく」
彼女は小さくうなずいた。
「そうだと思います」
午後。
私は紙に書き加えた。
――呼称(name)
その下に。
外:識別
内:接続
彼女はそれを見ていた。
「それは」
「はい」
「重要ですか」
「たぶん」
私は答える。
「軽く見ないほうがいい」
彼女は少しだけ目を伏せた。
「……呼ばないほうがいいですか」
その問いに。
私はすぐには答えなかった。
少し考える。
そして。
「いいえ」
そう言った。
「呼んでください」
「……本当ですか」
「はい」
私はうなずいた。
「どうして」
「そのほうが分かる」
彼女はそれを聞いて、少しだけ困ったように笑った。
「観察ですね」
「そうです」
私は少しだけ笑った。
夕方。
縁側。
風が吹く。
「……名前」
彼女が言う。
「はい」
「大事ですね」
私は少しだけうなずいた。
「そうですね」
少し間を置く。
「ここでは」
彼女は続ける。
「外よりも」
「重いです」
私はその言葉を、静かに受け取った。
「……はい」
短く答える。
夜。
布団に入る。
目を閉じる。
その直前。
ふと。
思い出す。
彼女の呼び方。
少しだけ。
変わっている。
最初よりも。
近い。
自然で。
そして。
――深い。
私はその変化を、はっきりと認識した。
名前は変わっていない。
だが。
意味が変わっている。
それは。
ただの呼び方ではない。
結び目に触れる。
小さな動作。
私はそのことを理解しながら。
ゆっくりと目を閉じた。
そして。
その名前が、胸の奥で静かに響くのを。
確かに感じていた。