さびしきもの 作:ひまんちゅ
翌朝、私は生きて目を覚ました。
夜のあいだに手足を縛られることも、夢の中で名前を盗まれることも、内臓を抜かれて神饌にされることもなかった。もちろん、そんなのは半ば冗談だったけれど、半ば本気でもあった。怪異譚を集めていると、人は妙な線引きを覚える。九割の荒唐無稽を笑いながら、残り一割の「あるかもしれない」を捨てきれなくなる。
布団の上に起き上がると、障子越しの光が白かった。山の朝は冷える。頬に触れる空気がひやりとしている。遠くで水の音がする。沢の流れだろうか。昨夜は聞こえなかった音だ。
「起きましたか」
襖の向こうから声がする。
「朝餉にします」
「……はい」
間抜けな返事が出た。
畳に足を下ろしたとき、自分が案外平静なのに気づいた。パニックになってもおかしくない状況だ。山中で見知らぬ社に一泊し、正体不明の存在に「帰れない」と言われている。普通ならもっと叫ぶとか、暴れるとか、少なくともスマートフォンで外部に連絡を取ろうとするべきだろう。
実際、私は真っ先にスマートフォンを確認した。圏外。バッテリーは七十二パーセント。時刻は午前六時四十分。昨夜からほとんど減っていないのが、むしろ気味悪かった。録音機も無事だった。試しに再生してみると、老人から聞いた「迷い社」の話までは入っている。その後、石段を見つけたあたりから、妙な雑音ばかりだった。風にも虫にも似ていない、湿った擦過音。何かがマイクを撫で続けているような音だ。
居間に入ると、卓袱台の上に朝食が並んでいた。
白飯。味噌汁。焼き魚。漬物。卵焼き。
怪異の住処にしては、あまりにまともだった。
「すみません、魚は少し焦げました」
「神様でも焦がすんですね」
「神様ではないかもしれません」
「そこは否定しないんだ」
彼女は昨日と同じ白い着物姿だったが、髪だけは簡単に結っていた。そのせいか少し年相応に見える。年相応、という表現が妥当なら、だが。
私は席についた。
「毒は入ってませんよ」
「入ってるなら先に言いませんか」
「それもそうですね」
くすりと笑う。
私は思わず、その笑い方がずいぶん自然だなと思った。神めいた不気味さは、黙って立っているときのほうが強い。こうして日常の所作をしていると、ただの人に近づく。いや、ただの人、ではないか。人のふりが下手な何か。
食事は普通においしかった。
魚は確かに少し焦げていたが、味噌汁は出汁がよく出ていた。私は空腹もあって箸を進めた。彼女は私が口に運ぶたび、露骨ではないが、ちらちらこちらを見る。それが妙に落ち着かなかった。
「食べるんですね」
「食べますよ。食べなきゃ死ぬでしょう」
「そうですね」
少し沈んだ声で言う。
その響きに、私は箸を止めた。
「……死なれたら困るんですか」
「困ります」
即答だった。
「あなたには、ここにいてもらわないと」
まっすぐ見られて、私は視線を逸らした。重い。言葉が重すぎる。好意だとしても、敵意だとしても、説明のつかない執着は人を疲れさせる。
「理由を聞いても?」
「寂しいからです」
「……ずいぶん率直ですね」
「嘘をついても仕方ありません」
それだけ言って、彼女は湯呑みに口をつけた。
あまりにあっさりしていて、私は逆に返す言葉を失った。
もっとそれらしい理由をでっちあげることもできただろう。私は選ばれた生贄であるとか、名を知られたので契りが結ばれたとか、ここから出れば災厄が降るとか。いくらでも怪談めいた理屈は並べられる。だが彼女はそうしなかった。ただ「寂しいから」と言った。
寂しいから、帰さない。
単純すぎて、かえって厄介だった。
朝食のあと、私は境内を見て回った。
逃げ道を探すためだ。もちろん。
昨日の暗さは消えていた。境内は朝露に濡れ、木々の隙間からやわらかな光が落ちている。狛犬の欠けた鼻先には水滴がついていた。石段のほうへ向かう。今度はちゃんと見えた。昨日と同じ石段。鳥居の向こうに、林の影。下れば林道に出られるはずだった。
私は一段、踏み出した。
ぞわり、と背筋が粟立つ。
別に何かが見えたわけではない。空気が変わったわけでもない。ただ、ひどく強い違和感があった。ここを下りたらいけない。いや、下りてもいいのかもしれない。だが、下りた瞬間、自分が何か決定的な過ちを犯す気がした。理屈ではなく、感覚だった。
私は足を止めた。
「行かないんですか」
後ろから声がした。
振り返ると、彼女が箒を持って立っている。
「……足がすくんだだけです」
「そうですか」
「何をした」
「何も」
彼女は本当に分からないという顔をした。
「何もしていません。怖いなら、怖いだけです」
「その“だけ”が困るんですよ」
私は苛立ちを抑えきれずに言った。
だが彼女は怒らなかった。ただ少し目を伏せただけだ。
「ここは、そういう場所ですから」
「どういう場所です」
「来た人が、帰りたくなくなる場所です」
「最悪だな」
「そうでしょうか」
箒の先で落ち葉を寄せながら、彼女は首をかしげた。
「みんな、どこかへ行ってしまうんです。家へ、町へ、仕事へ、人のところへ。だから、少しくらい引き止めてもいいと思っていました」
「その“少しくらい”で軟禁される側はたまらない」
「軟禁、ですか」
言葉を噛みしめるように繰り返して、彼女は少しだけ傷ついた顔をした。
「そう見えるんですね」
「そう見えるも何も、そのものだろ」
「でも、鍵はかけていません」
「……は?」
私は眉をひそめた。
「家の戸も開いています。縄もありません。檻もありません。あなたが本気で出ていきたいなら、たぶん出ていけますよ」
「たぶん?」
「わたしが怖いから、自分で止まっているのでは?」
返答できなかった。
腹が立つほど、その通りだったからだ。
私は知っている。怪異譚を。
神隠しを。
境界を越えた者の末路を。
だから自分で足を止めている。
目の前の何かが圧倒的な怪物である、と半ば決めつけて。
彼女は私の顔を見て、小さく笑った。
「下手に知識があると、そういう思い込みをしてしまいますよね」
その声音は、勝ち誇ったものではなかった。
むしろ少し、寂しそうだった。
「期待、していたんです。あなたは詳しそうだったから。もっと上手に、ここにいてくれるのかなって」
「意味が分からない」
「怖がりながらでも、逃げないでしょう?」
私は言葉を失った。
それは確かに、その通りだった。
彼女は私を力で閉じ込めているわけではない。
ただ、私の想像力と知識と臆病さが、勝手に檻を作っている。
しかも最悪なことに、彼女はそれを知っていて利用している。
「……性格悪いな」
「よく言われません」
「言われるほど人付き合いしてないだろ」
「はい」
そこで少し、彼女は笑った。
私はため息をついた。
逃げようと思えば逃げられるかもしれない。
少なくとも、昨夜考えていたような圧倒的な神威や呪力で縛られているわけではなさそうだ。
だがその事実は、安心より先に妙な居心地の悪さをもたらした。
相手が怪物なら、憎めた。
倒すか、逃げるか、正気を保つか、その三択で済んだ。
けれど目の前にいるのは、どうやら怪物になりきれない何かだった。
人を怖がらせることはできる。
山の空気を歪めることもできる。
だがそれ以上は大したことがないらしい。
そして、その弱さを自分で知っている。
弱いものの執着は、強者の暴力よりずっと扱いに困る。
「帰りませんか」
気づけば、そう口にしていた。
彼女は目を丸くした。
「え?」
「いや、だから。ここじゃなくて。町に。人のいるところに」
「無理です」
「即答だな」
「無理なものは無理です」
今度はさっきまでの柔らかさが消えた。境内の空気がひやりと冷える。私は一歩、彼女を見直した。弱いとはいえ、やはり人ではない。触れてほしくない芯のようなものがある。
「ここが、わたしのいる場所です」
白い着物の裾が、朝の風に揺れた。
「だから、あなたに来てもらうしかないんです」
その言い方が、あまりに切実で。
私は再び、腹の立つほど同情してしまった。
この瞬間からだったのかもしれない。
逃げることと、見捨てることが、私の中で少しずつ別の意味を持ち始めたのは。