さびしきもの 作:ひまんちゅ
その日の朝、私は地図の前で立ち止まっていた。
これまで書き足してきた線と記号と文字。
境界。
条件。
関係。
それらが、少しずつ密度を持ち始めている。
だが。
ひとつ、決めきれていないものがあった。
――内側。
私は紙の中央に目を落とす。
「拠点」と書いた場所。
その周囲。
ここが内側なのは、間違いない。
だが。
どこまでが内側なのか。
その定義が、まだ曖昧だった。
「……」
私はペンを持つ。
線を引こうとする。
だが、止める。
決めてしまっていいのか。
その範囲を。
「どうかしましたか」
彼女の声。
振り返ると、いつもの位置に立っている。
「内側の定義です」
「内側」
彼女はゆっくりと近づいてくる。
距離は自然だ。
昨日までよりも、少しだけ迷いがない。
「ここからここまでが内側、っていうのを決めたいんです」
「……決める必要がありますか」
私は少し考えた。
「ある程度は」
「どうして」
「基準がないと、変化が分からない」
彼女はそれを聞いて、少しだけ納得したようだった。
「では」
少しだけ間を置く。
「どこまでが内側ですか」
私は紙を見た。
そして。
答えた。
「あなたがいる範囲です」
彼女は一瞬だけ、目を瞬かせた。
「わたし」
「はい」
私はうなずく。
「あなたの影響がある範囲」
「……」
彼女は少しだけ考えた。
「では」
「はい」
「わたしが動けば」
「内側も動く」
私は言った。
彼女はそれを聞いて、静かにうなずいた。
「そうですね」
その答えは、思ったよりも自然だった。
午前。
私はそれを確かめることにした。
「少し、移動してもらえますか」
「どこまで」
「境内の端から、反対側へ」
彼女はうなずき、歩き出す。
ゆっくりと。
境内を横切る。
私はその動きを見ていた。
そして。
結び目に意識を向ける。
すると。
――位置が、わずかに変わる。
「……」
私は息を止めた。
間違いない。
彼女の位置に合わせて。
結び目の中心が、微妙にずれる。
「……やっぱり」
私は小さく呟いた。
「どうですか」
彼女が言う。
「動きます」
「何が」
「内側」
私は紙を指す。
「固定じゃない」
「……」
「あなたに依存してる」
彼女はそれを聞いて、少しだけ目を伏せた。
「……重いですか」
私は少しだけ笑った。
「そういう意味じゃないです」
「では」
「構造です」
私は答える。
「ここは、場所じゃない」
「はい」
「あなたを中心にした、関係の場」
彼女はゆっくりとうなずいた。
「……そうですね」
午後。
私は新しく線を引いた。
だが、それは固定された円ではない。
点線。
揺れる境界。
中心が動く構造。
「これで」
私は言う。
「少しは近い」
彼女はそれを見ていた。
「分かりやすいですか」
「完全ではないけど」
「はい」
「前よりは」
彼女は小さく笑った。
夕方。
縁側。
いつもの時間。
だが今日は、少しだけ距離が近い。
自然に。
意識せずに。
「……あの」
彼女が言う。
「何ですか」
「内側にいる、というのは」
少しだけ迷う。
「どういうことですか」
私は少し考えた。
そして。
「影響を受けることです」
そう答えた。
「影響」
「はい」
「離れると」
「弱くなる」
「近づくと」
「強くなる」
彼女はそれを聞いていた。
「では」
「はい」
「外は」
「影響がない」
私は言う。
少しだけ間を置いて。
「少ない」
彼女はうなずいた。
「……分かりました」
夜。
布団に入る。
目を閉じる。
結び目は、安定している。
だが。
その位置が、少しだけ広がっている。
中心は彼女。
だが。
その周囲に、輪郭がある。
内側。
それは固定された場所ではない。
関係の範囲。
私はその構造を、はっきりと理解した。
そして。
その中に、自分がいることも。
もう、疑いようがなかった。