さびしきもの 作:ひまんちゅ
朝、境内の空気は妙に静かだった。
風はある。
木々も揺れている。
だが、何かが一段、薄い。
「……昨日の影響ですか」
私は縁側で呟いた。
彼女は少し離れた場所に立っている。
「少しだけ」
「何が」
「境界が」
彼女はゆっくりと周囲を見る。
「緩んでいます」
私は眉をひそめた。
「緩む?」
「はい」
その言葉は、昨日の現象と繋がる。
外から来たもの。
それが、内側に触れた。
そして、崩れた。
その影響が、残っている。
「……なるほど」
私は小さく息を吐いた。
つまり。
――完全には元に戻らない。
何かが通ると、その痕跡が残る。
午前。
私は境内を歩きながら、変化を確認していた。
結び目は安定している。
だが。
境界の感触が、少し違う。
いつもよりも、外側との距離が近い。
「……確かに」
私は立ち止まる。
境界線の近く。
昨日なら、はっきりと歪む場所。
だが今日は。
――少しだけ、通りやすい。
「どうですか」
彼女が近づいてくる。
「緩んでます」
「はい」
彼女はうなずいた。
「外からのものが通ると」
「はい」
「境界が柔らかくなる」
私はそれを聞いて、少しだけ考えた。
「それって」
「はい」
「危険ですか」
彼女は少しだけ迷った。
そして。
「条件次第です」
そう答えた。
午後。
私はひとつ、試すことにした。
「外へ出ます」
「はい」
彼女はうなずく。
「いつもより、少しだけ遠くまで」
彼女の表情が、わずかに変わる。
「大丈夫ですか」
「確認です」
私は短く答えた。
石段を下りる。
林道。
舗装路。
町へ。
今日は、昨日よりも軽い。
距離が、近い。
外が、遠く感じない。
「……やっぱり」
私は小さく呟いた。
境界が緩んでいる。
それは。
――移動しやすい。
だが。
同時に。
――戻りやすい。
私はそのまま歩く。
昨日と同じ場所まで。
そして。
さらに一歩。
昨日、止まった位置。
そこを越える。
身体は問題ない。
感覚も、まだ保たれている。
「……行けるな」
私は小さく言った。
だが。
その瞬間。
胸の奥で、何かが引く。
結び目。
それが、わずかに伸びる。
距離に応じて。
引き延ばされる。
「……」
私は立ち止まった。
それ以上は進まない。
理由は明確だ。
――戻れなくなる可能性。
私は踵を返した。
戻る。
石段。
鳥居。
境内。
その瞬間。
――強く戻る。
だが。
昨日とは違う。
戻り方が、滑らかだ。
「……なるほど」
私は息を吐いた。
彼女が近づいてくる。
「どうでしたか」
「行けました」
「どこまで」
「昨日の先まで」
彼女は少しだけ目を見開いた。
「……そうですか」
その声には、わずかな不安がある。
「でも」
私は続ける。
「戻りました」
彼女は小さくうなずいた。
「はい」
午後の残り。
私は紙に書き加えた。
――境界状態(boundary state)
その下に。
安定
緩和
不安定
そして。
昨日の現象を、緩和として記録する。
「これで」
私は言う。
「少し見えてきた」
彼女はそれを見ていた。
「何が」
「変化の方向」
私は答える。
「内側だけじゃない」
「はい」
「外との関係で変わる」
彼女は静かにうなずいた。
夕方。
縁側。
今日は、少しだけ距離が近い。
「……あの」
彼女が言う。
「何ですか」
「外に行きやすくなるのは」
少し迷う。
「いいことですか」
私は少し考えた。
そして。
「場合によります」
そう答えた。
「選択肢が増えるのは、いい」
「はい」
「でも」
「……」
「戻れなくなる可能性も、増える」
彼女は何も言わなかった。
ただ。
静かにうなずいた。
夜。
布団に入る。
目を閉じる。
結び目は、安定している。
だが。
その周囲が、少し柔らかい。
境界が、完全ではない。
それは。
――拒まない状態。
私はその言葉を思い浮かべた。
内側が、外を拒まない。
外もまた、内側を拒まない。
そのとき。
何が起きるのか。
私はまだ、それを知らない。
だが。
確実に、その方向へ進んでいる。
そのことだけは、はっきりしていた。