さびしきもの   作:ひまんちゅ

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もうひとりの迷い人

 その日、私は社を出なかった。

 

 出られなかったわけではない。石段の下へ続く林の影は昼間ならば普通に見えたし、足を踏み出そうと思えばできた。だが、一度「帰れるかもしれない」と知ってしまうと、今度は別の種類のためらいが生まれる。昨夜までのような、怪異への本能的な恐怖ではない。もっと面倒で、言葉にしづらいものだ。

 

 ――本当に帰っていいのか。

 

 そんなことを考える自分に、私は腹が立っていた。

 

 なぜこちらが気を使わなければならないのか。相手は勝手に人を引き止め、帰れないと思い込ませていたのだ。責めるべきは向こうであって、こちらが逡巡する理由などない。それでも、あの白い着物の「神さま未満」を一人きりにして山を下りる場面を思い浮かべると、胸のどこかに鈍い引っかかりが残った。

 

 昼過ぎ、彼女は境内の隅で洗濯物を干していた。

 

 白い布、手ぬぐい、妙に古風な襦袢のようなもの。干し方が不器用で、布の端が片方だけ長く垂れている。私はそれを見ていられなくなり、結局手を貸した。

 

「こういうの、角を合わせて留めたほうが乾きやすいですよ」

「そうなんですか」

「……今までどうしてたんです」

「風まかせで」

 

 私は洗濯ばさみを留めながら、呆れてため息をついた。

 彼女は少し嬉しそうに、横から私の手元を見ていた。

 

「あなた、案外やさしいですね」

「別に」

「では、面倒見がいい」

「それも違う」

「では、見ていられない?」

「それです」

 

 即答すると、彼女はくすりと笑った。

 

 その笑い方に、また少しだけ調子を狂わされる。人ではないくせに、人に好かれようとする時の表情だけは妙に上手い。あるいは、それこそがこの存在の唯一の武器なのかもしれなかった。相手を脅し、閉じ込め、従わせる力はたいしてない。その代わり、捨て置けないと思わせることには長けている。

 

 いや、それすら計算ではなく、単にそういう性質なのかもしれないが。

 

 昼食は山菜の炊き込みご飯だった。どこから採ってきたのかと尋ねると、「裏のほうです」としか答えなかった。裏、と言われても、社の裏手にはすぐ木立が迫っているだけだ。境内の周囲は狭いようでいて、視線の抜け方が妙だった。少し歩けば外へ出られそうなのに、角度を変えるたび木々の位置が微妙に違って見える。やはりここは、普通の場所ではない。

 

 食後、私は居間の隅に置かれていた古びた本棚を眺めていた。

 中には和綴じ本と、比較的新しい文庫本と、なぜか十年ほど前の観光雑誌が混じっている。雑誌の特集は「日本の秘境百選」だった。表紙の端が色褪せている。

 

「読むんですか」

「たまに」

 

 背後から声がする。

 

「字は読めるんですね」

「失礼ですね」

「いや、神様っぽい存在って古文しか読まなさそうじゃないですか」

「偏見です。わたしだって進歩します」

 

 進歩、という言葉が可笑しくて、私は思わず口元を緩めた。

 彼女はその変化を見逃さなかったらしく、少しだけ胸を張る。

 

「笑いましたね」

「笑ってません」

「今、ちゃんと」

「気のせいです」

 

 そんなやりとりをしていた、その時だった。

 

 境内の外から、ぱきり、と枝を踏む音がした。

 

 私は反射的に顔を上げた。

 彼女も動きを止める。

 

 山の中で、音は唐突に現れる。鳥かもしれない。獣かもしれない。だがそれにしては、今の音はあまりに人間的だった。靴底で乾いた枝を踏み抜いたような、ためらいのある一歩。

 

 もう一度、音がする。

 今度は葉をかき分ける気配も混じった。

 

 彼女の表情が、わずかに強張った。

 

「誰か来ます」

「誰かって」

「人です」

 

 当たり前のことを、ひどく不本意そうに言う。

 

 私は居間を出て、境内の方へ向かった。鳥居の近く、石段の脇に生えた低木が揺れている。次の瞬間、そこからひょいと顔を出したのは、三十代半ばほどの男だった。登山用のジャケットに、少し泥のついたズボン。片手にスマートフォン。肩には小ぶりのリュック。

 

「あっ、よかった! 人いた!」

 

 男は心底ほっとしたように言った。

 

「すみません、このあたりで道に迷って……」

 

 私は一瞬、言葉を失った。

 あまりに普通だったからだ。

 

 怪異の山中に迷い込んでくる人間というのは、もっとこう、青ざめているとか、息を切らしているとか、何かしら異常の兆候があるものだと思っていた。だが目の前の男は、少し疲れてはいるものの、ただのハイカーにしか見えない。

 

「この先、下山道ってあります?」

「……あります、たぶん」

「助かったあ」

 

 男は額の汗を拭い、鳥居をくぐって境内に入ってきた。

 何のためらいもなく。

 何の畏れもなく。

 

 その様子に、私は横目で彼女を見た。

 白い着物の彼女は、露骨にむっとした顔をしていた。

 

「勝手に入ってきました」

「神社ってそういうものでしょう」

「わたしの家です」

「神社なんですよね?」

「そうですが」

 

 男には彼女の異様さが分からないのか、それとも分かったうえで気にしていないのか、普通に会話を続ける。

 

「宮司さんとかですか? いや、巫女さん? あ、違ったらすみません」

「違います」

「じゃあ、お住まいの方?」

「そうです」

 

 不機嫌そのものの声だった。

 私は思わず咳払いをした。

 

「それで、下山道ですけど……」

「あ、はいはい。スマホの地図が途中からおかしくなっちゃって。ほら、ここらへん、道が消えてて」

 

 男は画面を見せてきた。

 圏外の表示こそ出ていたが、キャッシュされた地図には現在地らしき場所がちゃんと示されている。私は目を疑った。昨日、私のスマートフォンでは地図自体がまともに表示されなかったはずだ。

 

 男は軽い調子で続ける。

 

「なんか変なとこ迷い込んだかなーって思ったんですけど、神社見えたから人いるかなと。よかったです」

「……ここに来るまで、何かありませんでしたか」

「何か?」

「怖いとか。帰れない感じがするとか」

「え? いや別に。ちょっと薄暗いなとは思いましたけど」

 

 私は黙った。

 

 男は本当に何も感じていないらしかった。

 

 そうか。

 そういうことか。

 

 私が今までここに留まっていたのは、場所そのものの力も多少はあったのだろう。だがそれ以上に、「ここは危険な異界だ」と私が先に知っていたからだ。怪異譚の型を知っている。禁忌の構造を知っている。だから自分で恐怖を補強し、自分で帰れない理由を積み上げていた。

 

 目の前の男には、その前提がない。

 だから、普通に入ってきて、普通に出ていこうとしている。

 

 彼女はそれを見て、唇を引き結んでいた。

 悔しそう、というより、傷ついた子どものような顔だった。

 

「下まで案内しましょうか」

 

 そう言ったのは、私だった。

 

 男は「助かります」と素直に頭を下げた。

 私は一瞬だけ彼女を振り返る。彼女は何も言わない。止めもしない。ただ、細い指先で着物の袖をつまみ、じっとこちらを見ていた。

 

 私は男と並んで石段を下り始めた。

 

 すると、本当に何事もなかった。

 

 昨日あれほど不気味だった石段は、昼の日差しの中ではただの古びた参道にすぎなかった。数十段ほど下りれば、すぐに獣道のような細い道へつながる。さらに少し進むと、見覚えのある林道に出た。私は思わず立ち止まった。

 

 これだけだったのか。

 こんなにも、あっけなく。

 

「いやあ、助かりました。上に人が住んでるなんて知らなかったなあ」

 

 男は笑いながら、ペットボトルの水を飲んだ。

 

「よくあそこに入れましたね」

「え? 何か入りにくい感じありました?」

「……いえ」

「神社って、なんか寄っちゃうんですよね。山で見つけると安心するし」

 

 私は曖昧にうなずいた。

 男は礼を言い、地図アプリを見ながら林道を下っていく。その背中はすぐ木立の向こうに消えた。

 

 ひとり残されて、私はしばらくその場に立ち尽くした。

 

 帰ろうと思えば、このまま帰れる。

 山を下りて、町へ出て、電車に乗って、自宅へ戻れる。

 サークルの連中には「山中で変な社を見つけた」とでも話せばいい。怪異譚の収穫としては上々だ。録音機の雑音もある。少し脚色すれば、それなりに面白い報告になるだろう。

 

 だが、足が動かなかった。

 

 石段の上を見上げる。

 鳥居の向こう、木々の隙間から、白い着物がかすかに見えた。

 こちらを見ている。

 追ってこない。

 呼びもしない。

 ただ、そこにいる。

 

 私は舌打ちしたくなった。

 

 あの顔だ。

 ああいう顔をするのはずるい。

 寂しそうで、諦めたようで、それでも少し期待している顔。怒ってくれたほうがどれだけ楽か分からない。帰るなと喚かれたら、振り切れる。縋られたら、罪悪感をごまかせる。だが彼女は黙って待つ。

 待たれると、人は自分で選んだことの責任を逃げられなくなる。

 

 私は深く息を吐いて、石段を上り返した。

 

 境内へ戻ると、彼女はまだ同じ場所に立っていた。

 表情は読めない。

 だが、袖をつまんだ指先だけが、少し震えている。

 

「帰るんじゃなかったんですか」

 

 先に口を開いたのは彼女だった。

 声は平坦だった。努めて平気なふりをしている時の声だと、もう分かる。

 

「……あなた、止めないんですね」

「止めたら、嫌われます」

「今さらだろ」

「今さらでもです」

 

 少しだけ間があいた。

 

「あなたは、帰れるんですね」

「そうみたいですね」

「その方のように、普通に」

「たぶん」

 

 私が答えると、彼女はほんの少し目を伏せた。

 

「下手に知識があると、そういう思い込みをしてしまいますよね」

 

 昨日と同じ言葉だった。

 だが今日は、責めるというより、自分にも言い聞かせているように聞こえた。

 

「わたしも、少し思っていました」

「何を」

「詳しい人なら、怪異らしくしていれば、ちゃんと留まってくれるかもしれないって」

 

 私は顔をしかめた。

 

「ちゃんと留まる、って何ですか」

「怖がって、諦めて、ここで暮らして」

「それのどこがちゃんとしてるんだ」

「わたしにとっては、です」

 

 困ったように微笑む。

 

「でも、駄目でした。あなたは怖がっていたけれど、ちゃんと見てしまうから」

「見てしまう?」

「わたしが、大したものではないことを」

 

 その言い方は妙に胸に刺さった。

 誇りがないわけではない。卑屈でもない。ただ、自分の限界だけは正確に知っている声音だった。山の社に棲み、人を引き止めるくらいのことはできる。けれど、圧倒的な怪異にはなれない。帰ろうとする人を力づくで縛ることも、世界の理を捻じ曲げることもできない。

 

 だからこそ、こうして小さな細工に頼るしかないのだ。

 

「……さっきの人には効かなかったんですね」

「たぶん、あまり」

「なんで」

「知らないからです。怪異を。型を。怖がり方を」

 

 私は黙った。

 

 確かに、その通りだった。

 恐怖には文法がある。

 怪談には形式がある。

 私はそれを知っていたから、言外の脅しを補完してしまった。

 彼は知らないから、ただの神社として通り過ぎることができた。

 

「じゃあ、私はあなたに騙されてたわけだ」

「少し違います」

 

 彼女は首を横に振った。

 

「騙したというより、あなたが勝手に深く考えてくれたんです」

「もっと性格悪いな、それ」

「そうかもしれません」

 

 そこで彼女は、初めてはっきりと寂しそうに笑った。

 

「でも、そうでもしないと、誰もいてくれないので」

 

 山の風が吹いた。

 洗濯物が揺れ、白い布がぱたぱたと鳴る。

 

 私はどうしていいか分からなくなって、結局いちばん無難なことを言った。

 

「……お茶、淹れますか」

「え」

 

「いや、その。戻ってきたし。話くらいは」

「してくれるんですか」

「帰るかどうか、考える時間は必要でしょう」

「あなたが?」

「私が」

 

 彼女は目を見開いたまま、しばらく黙っていた。

 やがて、ゆっくりとうなずく。

 

「では、お茶を淹れます」

「今度は焦がさないでください」

「お茶は焦がしません」

「そういう意味じゃない」

 

 居間へ戻る彼女の足取りは、さっきまでより少しだけ軽かった。

 

 私は縁側に腰を下ろし、境内を見渡した。

 鳥居。狛犬。掃き清められた土。干された白い布。どれも平凡で、どれも少しだけ現実からずれている。怪異の舞台としては拍子抜けするほど小さく、生活の場としては静かすぎる場所。

 

 ここを拠点にする、という発想が、その時ふと頭をよぎった。

 山の怪異を調べる足場として。あるいは、あの寂しがりの神さま未満を見張るために。

 いや、違う。そんな理屈ではないのだろう。

 もっと単純に、放っておけないと思ってしまっただけだ。

 

 怪異に情が移るなんて、探索者としては失格だ。

 だが私はもともと、探索者などではない。ただの、少しばかり知識のある学生にすぎない。

 

 居間から湯の沸く音がした。

 私は小さく息を吐く。

 

 帰る道があると知ってしまった以上、ここに残るのは私の意思だ。

 もう怪異のせいにはできない。

 そのことが、思った以上に重かった。

 

 それでも。

 

 白い着物の彼女が一人で湯を沸かす音を聞いていると、今すぐ立ち去る気には、どうしてもなれなかった。

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