さびしきもの   作:ひまんちゅ

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第三十三話 残していく形

 朝、私は「残す」という行為について考えていた。

 

 まだ布団のぬくもりがわずかに残る中で、目を開けたまま、しばらく天井を見ていた。

 

 考えていたのは、いつもの延長にあるはずのことだった。

 

 これまでは、持ち出すことと持ち帰ること。

 

 内から外へ。

 外から内へ。

 

 その往復。

 

 内と外のあいだで、何を運べるか。

 

 何が移るのか。

 どこまで移せるのか。

 

 そればかりを見てきた。

 

 だが。

 

 ふと、別の向きがあるのではないかと思った。

 

 運ぶだけではなく。

 

 ――外に残すことはできるのか。

 

 持っていくのではなく。

 持ち帰るのでもなく。

 

 ただ、そこに置いてくること。

 

 関係の一部を。

 結びつきの痕跡を。

 

 それを、まだ試していない。

 

 思えば、その発想そのものが今までなかった。

 

 私はゆっくりと身を起こした。

 

 居間に出る。

 

 朝の空気は静かで、冷たさがまだ少し残っている。

 

 彼女がいる。

 

 いつものように。

 そこにいる。

 

 距離は近い。

 

 すぐ手の届きそうな場所にいる。

 

 だが、揺れている。

 

 見えているのに、定まりきらない。

 

 近さと不確かさが同時にある。

 

「おはようございます」

「おはよう」

 

 短いやりとり。

 

 必要最低限の言葉。

 

 けれど、それだけで朝が始まる。

 

 少しの沈黙。

 

 私はそのまま立っていた。

 

 そして。

 

 考えていたことを、そのまま口に出した。

 

「外に残します」

 

 彼女は静かにこちらを見る。

 

 驚いたようにも見えない。

 否定するようにも見えない。

 

 ただ、その言葉の形を確かめるように。

 

「何を」

「関係です」

 

 私は答えた。

 

 言葉にした瞬間、少しだけ輪郭が定まった気がした。

 

 自分でも曖昧だったものが、口に出すことで少しだけ固まる。

 

 午前。

 

 私は外へ出た。

 

 社の空気を背にして、石段を下りる。

 

 一段。

 また一段。

 

 足の裏で石の感触を確かめながら進む。

 

 石段。

 林道。

 舗装路。

 

 見慣れた順路。

 

 それでも、今日はそれぞれが少し違って見えた。

 

 町へ。

 

 人の流れの中へ。

 

 車の音。

 遠くの話し声。

 店先の気配。

 

 そういう、外の密度の中へ入っていく。

 

 そこで立ち止まる。

 

 人の邪魔にならない場所を選び、足を止める。

 

 意識を向ける。

 

 余計なものを少しずつ落としていく。

 

 周囲ではなく。

 まず、自分の内側へ。

 

 内側。

 彼女。

 結び目。

 

 このところ何度も確かめてきた感覚。

 

 見えないが、確かにあるもの。

 

 それらを。

 

 ――外に置く。

 

 押し出すというより、移しかえるように。

 

 乱暴にはしない。

 

 切り離すのでもない。

 

 ただ、ここに留める。

 

 完全ではない。

 

 それは最初から分かっていた。

 

 一度で明瞭にできるようなものではない。

 

 だが。

 

 少しだけ。

 

 本当に少しだけでいい。

 

 意識を外へ固定する。

 

 その一点に、感覚をとどめる。

 

 すると。

 

 その場に、違和感が生まれる。

 

 見た目には何も変わらない。

 

 人が通り。

 風が抜け。

 音が流れていく。

 

 何もない空間。

 

 ただの町の一角。

 

 だが。

 

 ほんのわずかに、密度が違う。

 

 空気そのものが、そこだけかすかに重い。

 

 あるいは、薄い膜が張ったような。

 

 触れれば分かるというほどではない。

 

 しかし、意識は確かにそこを認識する。

 

「……」

 

 私は息を止める。

 

 余計な動きで感覚を散らさないようにする。

 

 維持する。

 

 数秒。

 

 長いようで短い時間。

 

 だが、その数秒のあいだ、感覚は確かにそこにあった。

 

 そして。

 

 離れる。

 

 無理に引き戻さないように。

 崩さないように。

 

 一歩。

 また一歩。

 

 振り返る。

 

 その場所は、変わらない。

 

 目に見えるものは何も変わっていない。

 

 ただの路上。

 ただの空間。

 

 だが。

 

 ――何かが残っている。

 

 置いたものが、消えずにそこにある。

 

「……なるほど」

 

 私は小さく呟いた。

 

 独り言に近い声だった。

 

 戻る。

 

 来た道を逆にたどる。

 

 石段。

 鳥居。

 境内。

 

 外の音が遠のき、空気が変わる。

 

 彼女がいる。

 

 やはり、そこにいる。

 

「どうでしたか」

「残せます」

「……」

 

 彼女は少しだけ目を見開いた。

 

 大きな反応ではない。

 

 けれど、そのわずかな変化が、驚きを示していた。

 

「どこに」

「外に」

 

 私は答える。

 

 余計な説明を挟まずに。

 

「関係の一部を」

 

 言いながら、自分でもその表現が最も近いと思った。

 

 一部。

 

 全部ではない。

 核でもない。

 

 けれど、たしかに関係に属するもの。

 

 午後。

 

 私はさらに確認した。

 

 最初の一度だけでは、まだ偶然かもしれない。

 

 感覚の錯覚ということもある。

 

 だから、確かめる必要があった。

 

 先ほどの場所へ戻る。

 

 町の中。

 

 同じ位置。

 

 できるだけずれないように立つ。

 

 そこに立つ。

 

 足を止める。

 

 呼吸を整える。

 

 すると。

 

 わずかに。

 

 本当にわずかにだが。

 

 内側の感覚がある。

 

 ここにはないはずのものが、そこにある。

 

 社の内にあるはずの気配の、ごく薄い反映。

 

「……残ってるな」

 

 私は小さく言った。

 

 言葉にして確認する。

 

 完全ではない。

 

 弱い。

 

 少し注意を逸らせば、見失いそうになるほど弱い。

 

 だが。

 

 確実に。

 

 ――つながっている。

 

 そこを起点に、内側へ触れられる。

 

 逆に言えば、内側の一部がそこに係留されている。

 

 そんな感覚だった。

 

 夕方。

 

 縁側。

 

 座ると、木の感触が静かに身体へ伝わる。

 

 風が吹く。

 

 昼の熱を少しだけ冷ましていくような風。

 

 今日は、外の気配が強い。

 

 ただ気のせいではなく。

 はっきりとそう感じる。

 

 内と外の境が、いつもより薄い。

 

「……あの」

 

 彼女が言う。

 

 声は小さいが、こちらへまっすぐ届く。

 

「何ですか」

「残すと」

 

 彼女は少し迷う。

 

 言葉を選んでいるのが分かる。

 

「どうなりますか」

 

 私は少し考えた。

 

 問いは単純だが、答えはまだ途中にある。

 

 それでも、今の時点で言えることはあった。

 

 そして。

 

「広がります」

 

 そう答えた。

 

 自分の声は思ったより静かだった。

 

「何が」

「ここが」

 

 彼女は静かに聞いている。

 

 視線を外さず、ただ続きを待つ。

 

「境界が」

「はい」

「点じゃなくて」

 

 一度、言葉を切る。

 

 頭の中で形を確かめる。

 

「面になる」

 

 彼女は少しだけ目を伏せた。

 

 その言葉を、自分の中に落としているように見えた。

 

「……では」

 

 小さく言う。

 

「ここは」

 

 私は彼女を見る。

 

 彼女の揺れはいつも通りなのに、その問いだけは妙に真っ直ぐだった。

 

「どこまでになりますか」

 

 私は少しだけ笑った。

 

 分からないものを分からないまま受け止めるしかないとき、人はこういう顔をするのかもしれないと思った。

 

「まだ分かりません」

 

 正直な答え。

 

 見通しではなく、現状そのままの言葉。

 

 彼女はそれを受け入れた。

 

 無理に続きを求めず、否定もせず。

 

 ただ、そうなのですね、というように静かに受け取った。

 

 夜。

 

 布団に入る。

 

 身体を横たえ、暗さの中で目を閉じる。

 

 耳に入る音は少ない。

 

 そのぶん、内側がよく分かる。

 

 結び目は、ある。

 

 今日も、確かにそこにある。

 

 核。

 

 中心。

 

 変わらず、内にあるもの。

 

 だが。

 

 その周囲に。

 

 新しい点がある。

 

 これまでなかった配置。

 

 内側の外縁に、かすかな灯りのように増えたもの。

 

 外に。

 

 町の中に。

 

 あの場所に。

 

 弱い。

 だが、確かな。

 

 切れていない。

 消えていない。

 

 小さいまま、そこにある。

 

「……」

 

 私は小さく息を吐いた。

 

 胸の奥にわずかな静けさが広がる。

 

 内側は広がる。

 

 ただ保たれるだけではない。

 

 持ち出され。

 持ち帰られ。

 そして。

 

 残される。

 

 外に置かれたものが、点になる。

 

 点が増えれば、面になる。

 

 面になれば、境界の意味そのものが変わる。

 

 その積み重ねが。

 

 形を変える。

 

 見えていたものの輪郭を。

 ここだと思っていた範囲を。

 

 少しずつ、しかし確実に変えていく。

 

 私はその変化を、はっきりと認識した。

 

 今日一日で起きたことは小さい。

 

 だが、小さいからこそ、無視できない。

 

 そして。

 

 それがどこまで広がるのか。

 

 町の中だけなのか。

 もっと遠くまで届くのか。

 

 点はいくつまで増えるのか。

 境界はどこまで面になるのか。

 

 まだ、想像できないことも。

 

 同時に理解していた。

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