さびしきもの 作:ひまんちゅ
朝、私は「呼び戻す」という可能性を考えていた。
目を覚ましてしばらくのあいだ、まだ動かずにいた。
昨日のことが、頭の中にそのまま残っていた。
外に残したもの。
関係の断片。
内側から外へ持ち出し、その場に留めたもの。
見えないが、消えてはいなかったもの。
それを。
――こちらに戻せるのか。
残せるのなら。
留められるのなら。
逆向きの動きも、あるのではないか。
外に置かれたものを、再びこちらへ引き寄せること。
持ち帰るのとは少し違う。
ただ通り過ぎるのでもない。
いったん外に定着したものを、あらためて内へ集める。
その可能性を、私は静かに考えていた。
居間に出る。
朝の光はまだやわらかく、空気も落ち着いている。
彼女がいる。
いつものように、そこにいる。
距離は近い。
だが、重なりの中で揺れている。
近くにある感覚と、定まりきらない感覚が同時にある。
その曖昧さも、もう見慣れつつあった。
「おはようございます」
「おはよう」
短いやりとり。
それだけで、朝の輪郭が少し整う。
私はそのまま、考えていたことを口にした。
ためらいはあまりなかった。
「昨日の場所に行きます」
彼女は静かにうなずいた。
表情は大きく変わらない。
だが、ちゃんと聞いていることが分かる。
「はい」
それだけの返答。
けれど、それで十分だった。
午前。
私は外へ出た。
社の内側の空気を背にして、いつもの道をたどる。
石段。
林道。
舗装路。
足元の感触が少しずつ変わっていく。
境内の静けさから、外の密度へ移っていく。
町へ。
昨日、関係を残した場所。
そこを目指して歩く。
人の流れも、車の音も、今日はどこか遠く感じられた。
意識は先に、あの一点へ向かっていた。
そこに立つ。
昨日と同じ位置。
できるだけ同じ場所。
足を止める。
何もない。
見た目には、何も変わらない。
ただの町の一角。
ただの道端。
人が通り過ぎていく。
風がわずかに流れる。
それだけだ。
だが。
――ある。
昨日と同じように。
いや、昨日より少しだけ分かりやすく。
わずかな違和感。
その場にだけ残る、目に見えない偏り。
密度の差。
空間そのものが、ごくわずかに違っている。
「……残ってるな」
私は小さく呟いた。
確かめるように。
自分に言い聞かせるように。
意識を向ける。
周囲ではなく、その一点へ。
結び目。
彼女。
内側。
それらと、この場所。
ひとつずつ分けて考えるのではなく、ひとつのつながりとして意識する。
内にあるもの。
外に残したもの。
そのあいだの線。
それを見失わないようにする。
つながりを意識する。
すると。
その点が、反応する。
昨日置いたはずの断片が、こちらの意識に触れて応じる。
わずかに。
本当にわずかにだが。
こちらへ引かれる。
そこに留まっていたものが、かすかに向きを変える。
「……」
私は息を止める。
余計な雑音を入れないために。
感覚が散らないように。
維持する。
意識を保つ。
引き寄せる。
無理にはしない。
ただ、こちら側に帰ってこられるように道筋を保つ。
すると。
その場所の違和感が、薄くなる。
濃度が少しずつ抜けていくように。
昨日そこにあった偏りが、静かにほどけていく。
代わりに。
胸の奥。
結び目の周囲が、わずかに強くなる。
内側の中心に近い部分が、少しだけ濃くなる。
はっきりした変化ではない。
けれど、たしかに増している。
外にあったものが、戻ってきている。
「……戻る」
私は小さく言った。
口に出すことで、その変化がさらに定まる気がした。
完全ではない。
一度で全部が戻るわけではない。
残っているものも、まだあるかもしれない。
だが。
確実に。
――呼び戻される。
外に残したままでは終わらない。
こちらの意識が触れれば、戻る。
それが分かった。
戻る。
来た道をまた逆にたどる。
石段。
鳥居。
境内。
社の空気の中へ入り直した、その瞬間。
内側が、少しだけ濃くなる。
町で引き寄せてきたものが、ここへ馴染むように落ち着く。
境内の静けさと、胸の奥の感覚が重なる。
彼女が近づいてくる。
いつもより、ほんの少しだけ距離が縮まったように見えた。
「どうでしたか」
「戻せます」
「……」
彼女は少しだけ目を見開いた。
驚きは小さい。
けれど確かにあった。
「何が」
「外に残したもの」
私は答える。
言葉は短いままにした。
「関係の断片」
その表現が、やはりいちばん近かった。
全部ではない。
中心でもない。
だが、たしかに関係に属するもの。
外へ残され、それでも途切れていないもの。
午後。
私はさらに試した。
一度だけでは足りないと思った。
偶然ではなく、構造として確かめたかった。
別の場所。
昨日の場所とは少し離れた位置。
町の中の、別の一点。
そこで、同じように残し。
同じように呼び戻す。
意識を定める。
外へ置く。
少し時間を置き、再び引く。
手順は単純だった。
だが、その単純さの中に確かな手応えがあった。
結果は同じ。
強くはない。
明瞭とも言い切れない。
弱い。
だが。
確実に戻る。
昨日の一点だけが特別だったわけではない。
場所が変わっても成立する。
つまり、これは偶然ではない。
「……循環してるな」
私は小さく呟いた。
歩きながら、その言葉を自分の中で反芻する。
外へ出る。
残す。
戻す。
その流れが、成立している。
一方通行ではない。
持ち出して終わりでもない。
外へ置かれたものが、再び内側へ還流する。
その往復が、ひとつの動きとしてまとまっている。
夕方。
縁側。
木の板に座ると、昼の熱が少しだけ残っている。
風が吹く。
やわらかな風だった。
だが。
その風も、少し重い。
外気そのものが変わったというより、こちらの受け取り方が変わっている。
内側が、濃くなっている。
戻されたものが、中心のまわりに少しずつ集まっている。
そのぶん、感覚全体に厚みが出ていた。
「……あの」
彼女が言う。
小さな声。
けれど、ためらいの気配が少し混じっている。
「何ですか」
「戻すと」
彼女は少し迷う。
言葉を選ぶように、間が空く。
「どうなりますか」
私は少し考えた。
広がることについては昨日言った。
では、戻ることは何なのか。
今感じている変化を、できるだけ余計な言葉を使わずに表すなら。
そして。
「集まります」
そう答えた。
静かな声だった。
「何が」
「関係が」
彼女は静かに聞いている。
逃さずに、受け取ろうとしている。
「外に広がったものが」
「はい」
「ここに戻る」
外へ置かれた断片が、そのまま散るのではなく。
またここへ集まってくる。
中心のほうへ。
内側のほうへ。
彼女は小さくうなずいた。
理解したのか、受け入れたのか、その両方かもしれなかった。
「……では」
少しだけ声が小さくなる。
「ここは」
私は彼女を見る。
彼女の輪郭はいつもどおりわずかに揺れていたが、その問いだけははっきりしていた。
「強くなります」
そう答えた。
今のところ言えることは、それだった。
広がるだけではない。
戻ることで、中心は濃くなる。
関係の核は、繰り返しの中で少しずつ強まっていく。
彼女は何も言わなかった。
否定も、確認も、追加の問いもなかった。
ただ。
ほんのわずかに。
近づいた。
距離にすれば、ほとんど変わらないほどの動き。
だが、そのわずかさがむしろはっきりと分かった。
夜。
布団に入る。
身体を横たえ、静けさの中で目を閉じる。
昼の感覚を順にたどる。
結び目は、はっきりしている。
昨日よりも、少しだけ明瞭に。
核。
中心。
変わらずそこにある、内側の要。
そして。
その周囲に、集まる点。
以前は外へ散っているだけに思えたもの。
いまは違う。
外に残したもの。
それが戻り。
密度が増す。
結び目のまわりに、ごく小さな集積が生まれている。
それぞれは弱い。
けれど、消えない。
集まることで、全体の輪郭が少しずつ強くなる。
「……」
私は小さく息を吐いた。
胸の奥にあるものの重さを、静かに確かめる。
これは。
拡散ではない。
ただ外へ広がって薄まっていくのではない。
循環だ。
外へ出て。
残り。
戻る。
その繰り返し。
一度きりではなく。
たぶん、何度でも。
その中で。
中心が強くなる。
点が増え、戻り、その都度、核のまわりに厚みが出る。
外と内は切り離されず、往復の中でかえって結びつきを深めていく。
私はその構造を、はっきりと理解した。
まだ全容ではない。
だが、少なくとも流れは見えた。
何が起きているか。
どう動いているか。
それはもう曖昧ではなかった。
そして。
それがどこまで続くのか。
何度繰り返せるのか。
どこまで強くなるのか。
まだ、分からないことも。
同時に理解していた。