さびしきもの   作:ひまんちゅ

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第三十五話 偏る流れ

 朝、私は流れの向きについて考えていた。

 

 目を覚ましてからもしばらく、すぐには起き上がらなかった。

 

 天井を見たまま、昨日までに確かめたことを順に思い返していた。

 

 外へ出る。

 残す。

 戻す。

 

 その循環は、成立している。

 

 一度だけの偶然ではない。

 感覚の錯覚でもない。

 

 何度か試して、そのたびに同じ動きが確かにあった。

 

 外へ置かれたものは残る。

 そして、呼べば戻る。

 

 そこまでは、もう疑っていなかった。

 

 だが。

 

 それでも、まだ引っかかるものがあった。

 

 単純な往復にしては、内側の感覚が少しずつ濃くなっている。

 

 外へ出したぶんが、そのまま同じだけ戻ってきているのなら。

 

 変化はもっと平らなはずだった。

 

 けれど実際には、そうではない。

 

 わずかに。

 だが、確実に。

 

 内側のほうが強くなっている。

 

 つまり。

 

 ――均衡ではない。

 

 私はそう感じていた。

 

 流れは成立している。

 

 だが、その流れは対称ではない。

 

 どこかに偏りがある。

 

 そのことを、今日ははっきりさせようと思った。

 

 私はゆっくりと身を起こした。

 

 居間に出る。

 

 朝の空気は静かで、まだ一日の輪郭が固まりきっていない。

 

 彼女がいる。

 

 いつものように、そこにいる。

 

 距離は近い。

 

 すぐそばにいるように感じる。

 

 だが、重なりの中で揺れている。

 

 輪郭は定まりきらず、存在だけが静かに近い。

 

 その近さと揺れの両方が、もう自然なものとしてそこにあった。

 

「おはようございます」

「おはよう」

 

 短いやりとり。

 

 朝に必要なぶんだけの言葉。

 

 それ以上でも、それ以下でもない。

 

 そして。

 

 私は考えていたことを、そのまま言った。

 

「流れが偏ってます」

 

 彼女は静かにこちらを見る。

 

 表情は大きく変わらない。

 

 けれど、その言葉の意味を確かめようとしているのが分かった。

 

「どちらに」

「内側です」

 

 私は答えた。

 

 迷いはなかった。

 

 まだ仮説ではある。

 だが、感覚としてはほとんど確信に近かった。

 

 午前。

 

 私はそれを確認した。

 

 社を出る。

 

 石段を下り、林道を抜け、舗装路へ出る。

 

 見慣れた道を歩きながら、今日やることははっきりしていた。

 

 外へ出る。

 

 町へ。

 

 昨日までと同じように、人の流れのある場所へ入っていく。

 

 関係を残す。

 

 意識を一点にとどめ、内側の断片を外へ置く。

 

 完全ではない。

 

 それでも、確かに残るだけの密度を与える。

 

 そして。

 

 呼び戻す。

 

 その場に留めたものへ意識を伸ばし、つながりを保ったまま、こちらへ引く。

 

 静かに。

 無理なく。

 崩さないように。

 

 手順そのものは、もう分かっていた。

 

 必要なのは、その結果を見極めることだった。

 

 すると。

 

 外に残るものよりも。

 

 内側に戻る量のほうが、多い。

 

 はっきりと数えられるわけではない。

 

 だが、感覚として明らかだった。

 

 外へ出したときの薄まり方よりも。

 

 戻したあとの濃くなり方のほうが、大きい。

 

 差はごく小さい。

 

 しかし、繰り返せば無視できない差だった。

 

「……やっぱりな」

 

 私は小さく呟いた。

 

 思っていた通りだった。

 

 完全な対称ではない。

 

 外へ出る量と。

 

 戻る量が。

 

 一致していない。

 

 同じ道を通っているように見えても、結果は同じではない。

 

 戻るほうが、多い。

 

 ほんのわずかに。

 だが、確実に。

 

 つまり。

 

 ――蓄積している。

 

 一回ごとの変化は小さい。

 

 それでも、その小さな差が内側に残っていく。

 

 循環しているだけなら、全体は変わらないはずだ。

 

 けれど変わっている。

 

 ならば、その変化の正体は蓄積しかない。

 

 私はその場でしばらく立ち止まり、その感覚を反復した。

 

 残す。

 戻す。

 また残す。

 また戻す。

 

 外側の密度の変化。

 内側の結び目の変化。

 

 何度か確かめるほどに、偏りはますます明瞭になった。

 

 戻る。

 

 石段。

 鳥居。

 境内。

 

 外の気配が少しずつ遠のき、社の空気が近づく。

 

 その瞬間。

 

 内側の密度が、少しだけ上がる。

 

 境内へ足を踏み入れたとたん、胸の奥の結び目の周囲がわずかに濃くなる。

 

 外で集めたものが、ここへ落ち着くような感覚。

 

 彼女が近づいてくる。

 

 いつもの静かな動きだった。

 

「どうでしたか」

「偏ってます」

「……」

 

 彼女は少しだけ目を伏せた。

 

 驚いたというより、受け止めているように見えた。

 

「戻るほうが」

「はい」

「多い」

 

 彼女は小さくうなずいた。

 

 その反応は静かだったが、言葉は十分に伝わっていた。

 

 午後。

 

 私は紙に書き加えた。

 

 感覚だけではなく、形にして残しておきたかった。

 

 文字にすると、曖昧なものでも輪郭を持つ。

 

 筆先を止め、一度考えてから書く。

 

 ――流量(flow)

 

 言葉として定める。

 

 名前がつけば、扱いやすくなる。

 

 外→内:増加

 内→外:減少

 

 簡単な記述。

 

 だが、それで十分だった。

 

 少なくとも今の段階では、それ以上細かくする必要はない。

 

 そして。

 

 ――偏り(bias)

 

 その語も書き足す。

 

 流れそのものと、その流れに生じる傾き。

 

 循環と偏り。

 

 その二つが揃って、いま起きていることの骨格になる。

 

「これで」

 

 私は言う。

 

 紙を見ながら、言葉を確かめるように。

 

「方向が決まる」

 

 彼女はそれを見ていた。

 

 文字そのものより、そこに込められた意味を見ているようだった。

 

「どこに」

「内側へ」

 

 私は答えた。

 

 流れは動いている。

 

 しかも、その動きには向きがある。

 

 外へも出る。

 だが、最終的には内へ寄る。

 

 それが今の結論だった。

 

 夕方。

 

 縁側。

 

 木の板に座ると、日中の名残の温度がまだ少し残っている。

 

 風が吹く。

 

 外から入ってくる風。

 

 庭を抜け、境内を通ってくる気配。

 

 だが。

 

 その風も、少し重い。

 

 空気が変わったのではなく、こちらの感じ方が変わっている。

 

 外から来ているのに。

 

 内側に留まる。

 

 通り過ぎるだけではなく、ここに引かれているように感じる。

 

 それほどまでに、中心の密度が上がっている。

 

「……あの」

 

 彼女が言う。

 

 小さな声。

 

 けれど、いつもより少し慎重だった。

 

「何ですか」

「偏ると」

 

 少し迷う。

 

 その先の言葉を選んでいるのが分かる。

 

「どうなりますか」

 

 私は少し考えた。

 

 広がることは、もう起きている。

 

 戻ることも、もう確かめた。

 

 では、偏りがあるとき、その全体はどう変わるのか。

 

 ひとつの言葉にするなら。

 

 そして。

 

「集まります」

 

 そう答えた。

 

 無理に飾らず、そのまま言う。

 

「何が」

「全部です」

 

 彼女は静かに聞いている。

 

 視線は落ち着いていて、逃げない。

 

「外のものも」

「はい」

「ここに寄る」

 

 ただ関係の断片だけではない。

 

 外へ触れたもの。

 外へ広がった気配。

 その周辺に生じた変化。

 

 そうしたものすべてが、少しずつ中心へ引かれていく。

 

 彼女は少しだけ目を伏せた。

 

 その言葉を、内側で確かめるように。

 

「……では」

 

 小さく言う。

 

「ここは」

 

 私は彼女を見る。

 

 近くにいて、揺れていて、それでも問いだけは真っ直ぐだった。

 

「中心になります」

 

 そう答えた。

 

 もうなりつつある、と言ってもよかったかもしれない。

 

 だが今は、変化の途中にあるものとしてそのまま言った。

 

 流れが偏り、外のものが寄り、戻る量が増えるなら。

 

 ここは単なる起点ではなくなる。

 

 集まり続ける場所になる。

 

 夜。

 

 布団に入る。

 

 静けさの中で身体を横たえ、目を閉じる。

 

 日中の感覚をひとつずつたどる。

 

 結び目は、強い。

 

 昨日までよりも、今日のほうがはっきりしている。

 

 核。

 

 中心。

 

 そこにあるものは、もはや曖昧ではない。

 

 そして。

 

 その周囲に、集まる関係。

 

 小さな点のように。

 薄い層のように。

 

 外に広がったもの。

 

 それが戻り。

 

 さらに増える。

 

 戻るたびに、同じままでは終わらない。

 

 わずかな差が加わる。

 

 その差が、内側に残る。

 

 だから中心のまわりは、少しずつ厚くなる。

 

「……」

 

 私は小さく息を吐いた。

 

 胸の奥にある重みを、静かに確かめる。

 

 これは。

 

 単なる循環ではない。

 

 出て、戻って、元に戻るだけの動きではない。

 

 ――収束だ。

 

 外から内へ。

 

 流れが偏る。

 

 その結果。

 

 中心が強くなる。

 

 外へ向かったはずのものさえ、最終的にはここへ寄ってくる。

 

 それは循環というより、吸い寄せられる運動に近い。

 

 私はその構造を、はっきりと理解した。

 

 何が起きているのか。

 

 なぜ内側が強くなるのか。

 

 その理由が、ようやく言葉になった。

 

 そして。

 

 それがどこまで進むのか。

 

 偏りはどこまで続くのか。

 中心はどこまで強くなるのか。

 

 まだ、分からないことも。

 

 同時に理解していた。

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