さびしきもの   作:ひまんちゅ

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帰らない理由

 その日の夕方、私は石段の上と下を三度行き来した。

 

 一度目は、ただ確認のためだった。昼間と同じように、石段は普通に下りられた。林道も見えた。空気の重さも、昨夜ほどではない。帰れる。事実として、それはもう疑いようがなかった。

 

 二度目は、試すためだった。

 どこまで行けば「ここではない場所」に戻るのか。数十メートルほど林道を進んだところで、振り返る。鳥居は見えない。代わりに、ただの山の斜面があるだけだった。少し心拍数が上がる。もう少し進めば、完全に日常に戻るだろう。私はそこで足を止めた。

 

 三度目は――結局、途中で引き返した。

 

 理由は、自分でもよく分からなかった。

 

 帰ろうと思えば帰れる。

 それなのに、最後の一歩が踏み出せない。

 

 単に山の中で日が暮れるのが不安だから、という理屈も立てられる。だがそれは言い訳に近い。ヘッドライトもあるし、林道を下ればすぐ舗装路に出るはずだ。昨日の自分なら迷わず下りていただろう。

 

 だが、今の私は違った。

 

 石段の途中で立ち止まり、私は上を見上げた。

 木々の隙間に、朱の鳥居の一部が見える。

 その奥に、白いものがちらりと動いた気がした。

 

 ああ、と私は思った。

 

 待っている。

 

 あれは、待っている顔だ。

 

 私は舌打ちしたくなる衝動をこらえ、そのまま踵を返した。

 

 境内に戻ると、彼女は何事もなかったかのように箒を動かしていた。

 落ち葉はほとんどないのに、同じ場所を何度も掃いている。

 

「……戻りました」

「おかえりなさい」

 

 あまりにも自然に言われて、私は一瞬言葉に詰まった。

 

 おかえり、という言葉の重さを、彼女はどこまで理解しているのだろう。

 帰る場所がある人間と、ないものとでは、その意味はずいぶん違うはずだ。

 

「帰らなかったんですね」

「帰れないわけじゃないですけどね」

「はい」

「……そこ、肯定するんだ」

「事実ですから」

 

 彼女は箒を止めて、こちらを見た。

 

「帰ろうと思えば、帰れるんでしょう?」

「たぶん」

「では、帰らなかったんですね」

「そうなるな」

 

 そこで彼女は、ほんの少しだけ目を細めた。

 嬉しそう、とまではいかない。だが確実に、何かが緩んだ表情だった。

 

「理由、聞いてもいいですか」

「聞いてどうする」

「覚えておきます」

 

 私は肩をすくめた。

 

「特に理由はないですよ」

「あります」

「ない」

「あります」

 

 妙なところで食い下がる。

 

「じゃあ、逆に聞きますけど。あなたはどうして私を引き止めるんですか」

「寂しいからです」

「それ以外は?」

「ありません」

 

 即答だった。

 

 私は思わず苦笑した。

 

「それでいいなら、私のほうも“なんとなく”でいいでしょう」

「……ずるいですね」

「どっちがだ」

 

 彼女は少しだけ口を尖らせた。

 その仕草が妙に人間くさくて、私は視線を逸らした。

 

 夕食の準備を手伝うことになったのは、その流れだった。

 

 といっても、やることは多くない。彼女の料理は手間をかけない分、素材に頼る部分が大きい。今日もまた山菜と、どこからか持ってきたらしい小さな魚。それに味噌汁と、白飯。

 

「包丁、貸してください」

「どうぞ」

 

 受け取った包丁は、驚くほどよく研がれていた。

 私は魚の腹を開きながら言う。

 

「これ、自分で研いでるんですか」

「はい」

「料理は下手なのに」

「失礼ですね」

「事実だろ」

「……味は悪くないはずです」

「それは否定しない」

 

 私は内臓を取り出し、水で洗い流した。

 横で彼女がじっと見ている。

 

「やり方、覚えたいですか」

「はい」

「じゃあ見ててください」

 

 説明しながら手を動かす。

 包丁の入れ方、骨の避け方、血合いの処理。

 彼女は真剣な顔でうなずいていた。

 

「そんなに難しくないでしょう」

「難しいです」

「いや、これは簡単なほうです」

「……そうですか」

 

 少し落ち込んだように見えた。

 私は慌てて付け加える。

 

「慣れればですけどね」

「慣れますか」

「やれば」

「やります」

 

 妙に力強かった。

 

 その言い方に、私は少しだけ違和感を覚えた。

 彼女はこれまで「やる」と言い切ることが少なかった気がする。どこか受け身で、来るものを待つ姿勢だった。それが今は、ほんのわずかだが、能動的に見えた。

 

 気のせいかもしれない。

 

 だが、その変化は、なぜか気になった。

 

 夕食のあと、私は縁側に出た。

 

 山の夕暮れは早い。空はすでに群青に沈み、木々の輪郭が黒く浮かび上がっている。虫の声が戻っていた。昨日は聞こえなかった音だ。

 

 彼女も隣に座った。

 

 少し距離を置いて。

 

 その距離感が、かえって妙だった。

 

「今日は、あまり怖くないですね」

「そうですね」

 

 彼女は空を見上げた。

 

「慣れましたか」

「それもあるかもしれない」

「それだけではないと思います」

「じゃあ何です」

「あなたが、怖がり方をやめたからです」

 

 私は眉をひそめた。

 

「怖がり方?」

「型にはめて怖がるのをやめた、という意味です」

 

 彼女は静かに言った。

 

「ここは危険な場所だ。帰れない場所だ。そういうふうに決めつけていたときは、そう見えていた。でも今は違う」

「……そんな単純な話ですか」

「たぶん」

 

 彼女は少し考えるように間を置いた。

 

「わたしも、少しだけ変えました」

「何を」

「怖がらせすぎないように」

 

 私は思わず彼女の顔を見た。

 

「そんなことできるのか」

「少しだけなら」

「具体的には」

「昨日より、静かにしています」

 

 言われてみれば、その通りだった。

 

 昨日は、空気そのものがまとわりつくような圧迫感があった。境内の外が見えないような不自然さもあった。だが今日は、ただの山の一角のように感じられる瞬間が多い。

 

「……つまり、意図的にやってたんですね」

「少しだけ」

「性格悪いな」

「必要だったので」

 

 淡々と答える。

 

「怖がってくれないと、いてくれないと思っていました」

「今は違うと」

「はい」

 

 彼女は横目でこちらを見た。

 

「怖がらなくても、いてくれますか」

 

 私はすぐには答えなかった。

 

 虫の声が、やけに大きく聞こえる。

 風が吹いて、洗濯物がかすかに揺れる。

 どこにでもある、山の夕暮れの音。

 

 ここはもう、完全な異界ではない。

 かといって、完全な現実でもない。

 そのあいだにある場所だ。

 

「……分かりません」

 

 正直に言った。

 

「明日、帰るかもしれない」

「はい」

「帰らないかもしれない」

「はい」

 

「でも少なくとも、今すぐ帰る気はないです」

「……そうですか」

 

 彼女は小さく息を吐いた。

 

 それは、安心にも、諦めにも聞こえた。

 

「ありがとうございます」

「礼を言われることじゃない」

「わたしにとっては、そうなんです」

 

 私は何も言えなかった。

 

 しばらく沈黙が続いた。

 

 やがて彼女が、ぽつりと言う。

 

「あなたは、帰れる人ですね」

「さっきも言いましたよ」

「はい。でも、それはとても大事なことです」

 

 彼女は指先で縁側の板をなぞった。

 

「帰れる人が、帰らないでいるのと、帰れない人が留まっているのは、全然違います」

 

 その言葉は、妙に重かった。

 

 私は、ここに留まることを選び始めている。

 誰に強制されたわけでもなく。

 ただ、そうしている。

 

 それはきっと、彼女にとっては意味のあることなのだろう。

 

 そして同時に、私にとっても。

 

 夜が深まっていく。

 

 社の奥で、湯の音がする。

 誰かと一緒にいる音だ。

 

 私はその音を聞きながら、ぼんやりと思った。

 

 ――ここを、拠点にするのも悪くないかもしれない。

 

 そう考えた自分に、少しだけ驚いた。

 そして、その驚きが、嫌ではなかった。

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