さびしきもの 作:ひまんちゅ
朝、私は起き上がるより先に、帰路の感触を確かめていた。
胸の奥にある核。
そこから外へ向かって伸びる、何本もの細い道。
昨夜はそれを、枝分かれした帰路だと考えていた。だが、目を覚ました直後の感覚は、もう少し違っていた。
枝分かれしているだけではない。
それぞれの帰路は、途中で重なっている。
「……別々なのに、別々じゃないんだよな」
布団の中で小さく呟いてから起き上がり、居間へ向かった。
彼女はいつものように、静かにそこにいた。
私を見ると、少しだけ表情を和らげる。
「おはようございます」
「おはよう」
私はそのまま卓袱台の前に座り、すぐに言った。
「今日は、帰路同士の重なりを見ます」
「重なり」
「はい。枝分かれしているなら、どこで別れて、どこでまた一緒になるのか」
彼女は少し考えるように首をかしげた。
「節の場所ですか」
「それもあります。でも、たぶんもっと細かい」
「……」
私は紙を広げ、昨日書いた複数の帰路の線をなぞった。
石段の中ほど、鳥居の外、林道の途中。そこに節があることは分かっている。
だが、今朝感じたのは、節そのものよりも、もっと曖昧な重なりだった。
「別の帰路が、途中で同じ感触になるところがあるんです」
「違う道なのに」
「はい」
「では、それは」
彼女は少し迷うようにしてから言った。
「同じ場所へ戻るための、共通の部分ですか」
「そうかもしれない」
その言い方は、かなり近かった。
午前、私は何度も外へ出ては戻ることを繰り返した。
ただし今日は、節ごとに立ち止まるのではなく、歩き方を変えてみた。
一度目は、何も考えずに自然に。
二度目は、できるだけ早く戻ろうと意識して。
三度目は、あえて戻ることを考えず、外側の感覚に長く留まってから。
すると、はっきりしてきたことがある。
帰路は複数ある。
だが、どの帰り方をしても、鳥居の少し手前で感覚が似てくるのだ。
「……ここだな」
私は鳥居の外側、昨日見つけた節よりもほんの少し下で立ち止まった。
そこは明確な節ではない。
流れが滞るほど濃くもない。
だが、どの帰路もそこで一度、同じ調子に整えられている。
急いで戻ってきた時の焦りも。
外側の感覚を長く引きずった時の薄さも。
そこで一度なだらかになり、同じ密度へ揃えられてから、鳥居の内側へ入っていく。
「継ぎ目の前に、合わせる場所がある……?」
自分で言ってみて、少しだけしっくりきた。
節が流れを止めたり拾い上げたりする場所だとすれば、ここは流れ同士を馴染ませる場所なのかもしれない。
帰り方は違っても、最終的に中心へ戻るには、ある程度同じ密度に揃える必要がある。
だからここで、一度だけ重なる。
私はそのまま境内に戻った。
彼女は鳥居の内側で待っていた。
「見つかりましたか」
「たぶん」
私は縁側に腰を下ろし、紙に新しく細い印をつけた。
「節とは少し違うです」
「違う」
「はい。止まり場所じゃない。もっと……馴染ませる場所です」
彼女は紙を覗き込む。
「馴染ませる」
「どの帰路を通っても、ここで一度、同じ感じになる」
「……では」
彼女は静かに言った。
「戻る前の、準備みたいなものですか」
「そうかもしれない」
私はうなずいた。
「中心に戻る前に、ばらばらだった感覚をそろえる」
「そうしないと、内側に入れないんですか」
「入れないわけじゃないと思います」
少し考えてから、私は言葉を足した。
「でも、そのままだと、戻り方が荒い」
「荒い」
「揺れが大きくなるとか、戻った感じが急すぎるとか」
「……」
「ここで少し均されてから入るほうが、自然なんでしょう」
彼女はしばらく紙を見つめていた。
やがて、ごく小さく息を吐く。
「丁寧ですね」
「何がです」
「帰る道がです」
「……」
私は返事に少し困った。
だが、否定できなかった。
午後、私は今度は逆のことを試した。
その「合わせる場所」を意識せずに、一気に鳥居をくぐる。
すると、確かに戻りはする。だが、内側の感覚が少し急で、胸の奥の核が強く脈打った。
以前のような不安定さではない。
けれど、やはり少し荒い。
次に、わざとその場所で数秒立ち止まり、呼吸を整えてから戻る。
すると、今度は非常になめらかだった。
外の感覚が急に切れるのではなく、静かに薄まりながら内側へ接続される。
「……やっぱり、必要なんだな」
私は鳥居の前でひとりごちた。
帰路はただ存在しているのではない。
育っている。
そして、育つ過程で、帰る者が無理なく戻れるような構造を自分で作っている。
それは少し不気味でもあり、同時に妙に生活的でもあった。
毎日通る家の廊下に、自然と歩きやすい癖がつくのに似ている。
ただしこちらは、床が擦り減るのではなく、流れの形そのものが馴染んでいくのだ。
夕方、縁側に並んで座る。
風は穏やかだった。
その風にも、外からそのまま吹き込む部分と、途中で丸くなって入ってくる部分がある気がした。
「……あの」
彼女が言った。
「何ですか」
「帰るとき」
「はい」
「あなたは、急いで戻っても戻れるんですよね」
「戻れます」
「でも、ゆっくり戻ったほうが自然」
「そうです」
彼女は少しだけ目を伏せた。
「それは、ここがそうしているんですか」
「たぶん」
「それとも」
彼女は少しだけ言い淀む。
「あなたが、そうしたんですか」
私はすぐには答えなかった。
外へ出て、戻る。
何度も繰り返してきた。
そのたびに、節を作り、継ぎ目を増やし、帰路を育ててきたのは、たぶん私だ。
けれど、それだけではない。
それを受け止め、偏らせ、内側へ返す構造そのものは、彼女とこの場所の側にもある。
「両方です」
私はそう答えた。
「私だけじゃなくて、ここもそうしてる」
「……」
「たぶん、帰るたびに、お互いに馴染んできたんです」
「馴染む」
「はい」
彼女はその言葉を繰り返さなかった。
ただ、小さくうなずいた。
その仕草を見て、私はふと気づいた。
この話は道の話であると同時に、私たちの話でもあるのだ。
違う帰り方をしても、結局どこかで調子を合わせて、同じ場所へ戻ってくる。
それは帰路の構造であり、たぶん関係の構造でもある。
夜、布団に入ってからも、私は鳥居の手前にあるあの曖昧な場所のことを考えていた。
節ではない。
止まり木でもない。
継ぎ目とも少し違う。
ばらばらの流れを、一度だけ同じ密度へ揃える場所。
帰る前の、準備の場所。
道が重なる場所。
「……重なりって、そこにもあるんだな」
私は暗闇の中で小さく呟いた。
中心で重なるだけではない。
帰る途中にも、重なりはある。
それはたぶん、複数の帰路がある以上、避けられないことなのだろう。
胸の奥の核に意識を向けると、そこへ向かう何本もの細い道が、最後の少し手前でやわらかく寄り添っているのが分かる気がした。
完全に一本にはならない。
けれど、最後のところで、ちゃんと同じ向きを向く。
私はその感覚を、ひどく静かなものだと思った。
無理やり束ねるのではなく、自然に揃っていく感じ。
それが、この場所の帰り方なのだと。
そんなことを思いながら、私はゆっくりと眠りに落ちていった。