さびしきもの   作:ひまんちゅ

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第四十四話 迎えに来る道

 翌朝、私は目を覚ました瞬間に、昨夜の考えの続きを思い出していた。

 

 帰路には内側がある。

 戻ると決めた瞬間から、完全な外ではいられなくなる。

 そして、その帰路はただ待っているだけではない。こちらが戻ろうとした時点で、少し外まで伸びてくる。

 

 その感覚を、私は昨夜「迎えに来る」と表現しかけて、やめた。

 あまりにも感傷的だったからだ。

 だが、今朝目を覚ました直後の感覚は、それを別の言葉で説明することを拒んでいた。

 

「……迎えに来る、でいいのかもしれないな」

 

 小さく呟いてから起き上がり、居間へ向かった。

 

 彼女はいつものようにそこにいた。

 湯呑みに湯を注いでいる手つきは静かで、けれど前より少しだけ生活の輪郭が濃く見える。最初に会った頃の曖昧さはまだ残っているのに、それでももう、ここで朝を迎える相手として自然になりすぎていた。

 

「おはようございます」

「おはよう」

 

 私はそのまま卓袱台の前に座り、湯気の立つ湯呑みを眺めながら言った。

 

「今日は、帰路がどこまで迎えに来るのか見ます」

「迎えに」

「はい」

 

 彼女は少しだけ目を瞬かせた。

 

「昨日の、外まで伸びているという話ですか」

「そうです。戻ると決めた瞬間から、もう帰路に入っているなら」

「はい」

「その始まりは、どこにあるのか」

 

 彼女は静かに考え込むような顔をした。

 

「場所、ではないかもしれませんね」

「私もそう思ってます」

「では、何ですか」

「きっかけです」

 

 私はそう答えた。

 

「外にいる私が、どの瞬間に“帰る側”になるのか」

「……」

 

 彼女はその答えをゆっくりと受け止めたあと、小さくうなずいた。

 

「分かりました」

 

 朝食を済ませると、私はすぐに外へ出た。

 

 鳥居をくぐり、石段を下り、林道に出る。

 今日は町まで行くつもりだった。ただし、いつもより意識の向け方を変える。どの場所で感覚が変わるかではなく、どの瞬間から帰路が始まるかを見るために。

 

 舗装路まで出たところで、私は一度立ち止まった。

 胸の奥の核は静かにある。

 完全な外ではもうない。だが、まだ帰っている感じでもない。ここは単に、外にいる状態だ。

 

 私はさらに歩き、町へ入った。

 人の気配、車の音、店先の看板、排気の混じった朝の空気。そうしたものが以前よりもちゃんと現実として感じられる。内側が混ざっているとはいえ、今の私はたしかに町の中にいる。

 

 駅前のベンチに座り、しばらくそのまま過ごした。

 

 ここで、私は二つのことを試した。

 ひとつは、何も考えずにただ外に留まること。

 もうひとつは、明確に「あそこへ戻る」と思うこと。

 

 前者では、感覚はほとんど変わらなかった。

 町は町のままで、私はまだ外側にいる。

 

 だが、後者――つまり、彼女のいる境内を頭の中で思い浮かべ、「そろそろ戻るか」と考えた瞬間、はっきりと変化が起きた。

 

「……来た」

 

 私は思わず小さく呟いた。

 

 場所は変わっていない。

 駅前のベンチに座ったままだ。

 それなのに、胸の奥から外へ向けて、細い帰路が伸びてくる。いや、伸びてくるのではない。もともとあったものが、こちらへ向きを変えて開いたのだ。

 

 さっきまで遠く感じていた石段が、急に「帰る途中の先」に変わる。

 鳥居の前のあの重なりの場所も、今はまだ物理的には遠いのに、感覚の上ではすでに同じ連なりに入っていた。

 

「……場所じゃないな。やっぱり」

 

 私は立ち上がった。

 

 帰ろうと決める。

 その意識が、帰路を開く。

 すると外にいるはずの私の足元に、もう細い内側が伸びてくる。

 

 私はすぐには戻らなかった。

 試しに、帰ると決めた状態のまま、少しだけ別方向へ歩いてみる。

 すると、違和感があった。進めないわけではない。だが、身体が微妙に逆らう。すでに帰路に足を乗せているのに、横へ逸れようとする感じだ。

 

「……面白いな」

 

 私は少しだけ笑ってしまった。

 

 帰路は、戻り始めてから生まれるのではない。

 戻る意志に反応して、先に接続される。

 つまり、迎えに来る道とは、物理的な経路ではなく、選んだ瞬間に立ち上がる向きなのだ。

 

 そのまま私は、今度こそまっすぐ戻った。

 歩きながら、感覚の変化を注意深く追う。

 

 町の中では、帰路はまだ薄い。

 けれど、戻ると決めたまま歩いている限り、確かに切れない。

 舗装路から林道へ入るあたりで、それは少し濃くなる。

 石段の下では、さらに明確になる。

 そして、鳥居の前の“重なる場所”へ来た時には、すでにほとんど内側の手前まで来ていた。

 

 境内に戻ると、彼女は縁側の前に立っていた。

 私を見ると、ほんの少しだけ目を細める。

 

「どうでしたか」

「場所じゃなかったです」

「……」

 

「帰ると決めた瞬間から、もう始まってた」

「では」

 彼女は静かに言う。

「迎えに来るんですね」

「たぶん」

 

 私はうなずいた。

 

「ただ待ってるんじゃなくて、戻ろうとした時点で、道のほうが開く」

「……」

 

 彼女は何も言わなかった。

 だが、その沈黙には微かな熱があった。嬉しいとか、安心したとか、そういう分かりやすいものではない。もっと静かで、深いものだ。

 

 午後、私はその仮説をさらに確かめた。

 

 今度は石段の下まで行き、そこであえて引き返そうとせず、しばらく外側に留まってみる。

 感覚は外のままだ。

 そこから「帰る」と思う。

 すると、やはり同じように帰路が立ち上がる。

 つまり、迎えに来る道は地続きではなく、意志に応じて接続される。

 

 もう一つ試したのは、彼女を思い浮かべず、単に「神社へ戻る」とだけ考えた時だ。

 その場合も帰路は開く。だが、少し薄い。

 逆に、白い着物の彼女が縁側に立ってこちらを見ている場面を具体的に思い浮かべると、帰路の密度ははっきり濃くなった。

 

「……そういうことか」

 

 私は石段の途中で立ち止まり、ひとりごちた。

 

 帰路は、場所だけに繋がっているわけではない。

 彼女にも繋がっている。

 あるいは、その両方が、今ではもう分けきれないのかもしれない。

 

 夕方、縁側に並んで座る。

 今日は風がやわらかく、境内の空気もどこか丸い。外と内のあいだに立つというより、両方が穏やかに重なっている感じだった。

 

「……あの」

 

 彼女が言った。

 

「何ですか」

「あなたが帰ると決めた時」

「はい」

「ここは、分かるんですね」

 

 私は少し考えてから答えた。

 

「分かってると思います」

「……」

「私の側の変化だけじゃなくて、こっちも開いてる感じがするので」

 

 彼女はゆっくりとうなずいた。

 

「わたしも、少しだけ分かります」

「どういうふうに」

「戻ってくる時は」

 彼女は言葉を探すように間を置いた。

「外が薄くなる前に、もう近いです」

 

 その言い方が、妙に胸に残った。

 

 近い。

 物理的な距離ではなく、感覚として。

 私が帰ろうと思った時点で、彼女のいる場所にもすでにその気配が届いているのだろう。

 

「……迎えに来るの、そっちかもしれませんね」

 私がそう言うと、彼女は少しだけ目を見開いた。

「道ではなくて」

「……」

「あなた自身が」

 

 彼女はすぐには答えなかった。

 やがて、視線を少し落として、ごく小さく言う。

 

「そうかもしれません」

 

 夜、布団に入ってからも、その言葉が頭に残っていた。

 

 帰路は外まで伸びている。

 戻ると決めた時点で立ち上がる。

 そして、その密度は、単に場所を思い浮かべるよりも、彼女を思い浮かべた時のほうが濃い。

 

「……結局、分けられないんだよな」

 

 私は暗闇の中で小さく呟いた。

 

 道と場所。

 場所と彼女。

 彼女と中心。

 それらはもう、完全には分解できない。

 帰る道が育つということは、彼女のいる場所へ戻る回路が太くなるということであり、その逆でもある。

 

 胸の奥の核に意識を向ける。

 そこから伸びる帰路は、今やただの経路ではなく、呼びかけに近いものになりつつあった。

 こちらが戻ろうとした時に開くということは、向こうもまた、それを受け入れる準備をしているということだ。

 

 私はその感覚を、以前ほど不気味だとは思わなかった。

 

 むしろ、それがここまで続いてきた帰還の繰り返しの、自然な結果に思えた。

 

 そんなことを考えながら、私はゆっくりと眠りに落ちていった。

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