さびしきもの   作:ひまんちゅ

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第四十五話 帰る前の気配

 翌朝、私は目を覚ましたときから、まだ帰っていないはずの感覚を知っていた。

 

 布団の中で目を開けたまま、昨夜のことを思い返す。

 帰路は、戻ると決めた瞬間に立ち上がる。

 それは単なる道ではなく、向こう側――彼女のいる場所――もまた、こちらの変化を受け取っているらしい。

 戻る前から、もう近い。

 彼女はそう言った。

 

「……なら」

 

 私は小さく呟いた。

 

「帰る前にも、気配があるのか」

 

 胸の奥の核に意識を向ける。

 そこにあるものは、もうずいぶん静かで、はっきりしていた。昔のような揺れや不安定さは少ない。そのかわり、何かが始まる前の、ごく薄い前触れのようなものが分かるようになっている。

 

 私は起き上がって居間へ向かった。

 彼女はすでに起きていたが、今日はいつもより少しだけ不思議な立ち方をしていた。座っているでもなく、動いているでもなく、耳を澄ませるように静かにそこにいる。

 

「おはようございます」

「おはよう」

 

 挨拶のあと、彼女のほうが先に言った。

 

「今日は、少し早いですね」

「時間ですか」

「いえ」

 

 彼女は小さく首を振る。

 

「起きる前から、近かったです」

 

 私は思わず黙った。

 そう言われると、自分でも少し分かる。目が覚める前から、すでにこちらの感覚のどこかが内側へ向いていた。まだ布団の中にいて、どこにも移動していないのに。

 

「……帰る前どころか、起きる前からですか」

「たぶん」

「どうして」

「分かりません」

 

 彼女はそう言ってから、少しだけ言い直すように続けた。

 

「でも、今は“戻る時”が近づくと分かります」

「時間で?」

「時間もあるかもしれません。でも、それだけじゃないです」

 

 私は卓袱台の前に座り、湯呑みに手を添えた。

 まだ熱い。

 その熱を感じながら、私はひとつの仮説を思いついていた。

 

「……帰るって、決断だけじゃないのかもしれない」

「決断」

「はい。昨日は、外にいる私が“戻る”と決めた瞬間に帰路が開いた」

 

 彼女は静かに聞いている。

 

「でも今日は違う。まだどこにも行ってないし、戻るとも思ってない」

「はい」

「それでも、もう少し近い」

「……」

 

「だとすると、帰る前にもっと手前の段階がある」

「どういう」

「向きです」

 

 私は自分でも言いながら、その言葉がしっくりくるのを感じた。

 

「まだ決めてない。でも、意識が向き始めている」

「こちらに」

「たぶん」

 

 彼女は少しだけ目を伏せた。

 その表情には、理解しようとする静かな熱があった。

 

 朝食のあと、私はその仮説を確かめるために外へ出た。

 

 今日は町まで行くつもりだったが、昨日までとは違うやり方を試す。

 戻ると決める前。

 そのさらに手前の、「向き始める」感覚を見たい。

 

 石段を下り、林道を歩き、舗装路へ出る。

 町の空気はいつもどおりだった。

 車の音、人の話し声、店のシャッターが上がる音。どれも以前より馴染み深くなっている。外はもう、完全な異物ではない。

 

 駅前まで歩き、私は少し長めにベンチへ座った。

 

 ここで、意識を細かく分ける。

 

 何も考えない状態。

 今日はまだ帰らない、と思う状態。

 そろそろ帰るかもしれない、と思う状態。

 戻る、と決める状態。

 

 最初の二つでは、変化はほとんどなかった。

 外は外のままだ。

 

 だが、三つ目――「そろそろ帰るかもしれない」と考えた瞬間、はっきりした変化があった。

 

「……来た」

 

 私は小さく呟いた。

 

 昨日ほど強くはない。

 まだ帰路そのものではない。

 だが、向きが変わる。

 足元に薄い傾きが生まれ、意識が外へ散るのをやめ、少しずつあの場所のほうへ揃い始める。

 帰路が開く前の、前兆。

 帰る前の気配。

 

 そして四つ目――明確に「戻る」と決めると、その薄い傾きが一気に道になる。

 

「……順番があるんだな」

 

 私は立ち上がった。

 

 いきなり帰るわけではない。

 まず向きが生まれる。

 それから帰路が開く。

 そして、重なる場所を通り、内側へ戻る。

 

 私はそのまま、あえてすぐには戻らず、町の中を少し歩いた。

 帰る前の気配を持ったまま、別の店先を眺め、横道へ入り、また駅前へ戻る。

 すると面白いことに、その気配は完全には消えなかった。

 薄くはなるが、向いている限り残る。

 

 つまり、帰る前の気配とは瞬間的なものではない。

 向きが保たれているあいだ、じわじわと続く状態なのだ。

 

 やがて私は実際に戻り始めた。

 舗装路から林道へ、林道から石段へ。

 すると、その気配は石段の下でさらに濃くなり、昨日見つけた「迎えに来る道」と自然につながった。

 帰路は、突然始まるのではない。

 前触れがあり、その前触れを土台にして開くのだ。

 

 境内へ戻ると、彼女は鳥居の内側に立っていた。

 私を見ると、ほんの少しだけ息をつく。

 

「分かりましたか」

「帰る前にも段階があります」

「……」

 

「いきなり戻るんじゃない」

 私は縁側に座って続けた。

「まず、向きが変わる」

「向き」

「はい。まだ帰ると決めてない。でも、そっちを考え始める」

「その時点で、少し近い」

「たぶん、それです」

 

 彼女はしばらく黙っていた。

 やがて静かに言う。

 

「だから、朝も分かったんですね」

「朝?」

「起きる前から、少しこちらに向いていたから」

 

 私はその言葉に、妙に納得した。

 夜眠る前、私はすでにここにいた。眠りの中で一度外へ離れるわけではない。ならば、目覚めに向かうときの意識の向きが、そのまま朝の距離感に影響していてもおかしくない。

 

「……外にいても同じでした」

 私は言った。

「帰る前に、まず少し向く」

「はい」

「その状態は、決断より手前です」

「……」

「でも、たしかに始まってる」

 

 彼女はそれを聞いて、小さくうなずいた。

 その仕草には、少しだけ安心した色があった。

 

 午後、私はその状態を図に描いた。

 外。

 帰る前の気配。

 帰路。

 重なる場所。

 内側。

 

 これまで一本だった線は、さらに細かい段階に分かれていく。

 だが不思議なことに、複雑になればなるほど構造は分かりやすくなってきた。曖昧だった現象に、きちんと手順があると分かるからだ。

 

「……段階が増えましたね」

 彼女が紙を見ながら言った。

「増えました」

「帰るまでに、ずいぶん色々あるんですね」

「そうですね」

 

 私は少し笑った。

 

「最初は、出られないか帰れないかの二択だと思ってましたけど」

「はい」

「今は、そのあいだがほとんど全部です」

 

 彼女も、ごく小さく笑った。

 

 夕方、縁側に並んで座る。

 風は穏やかで、今日はどこか早めに帰ってくる気配を含んでいた。

 

「……あの」

 

 彼女が言う。

 

「何ですか」

「あなたが、帰る前に少し向くのは」

「はい」

「分かると、うれしいです」

 

 私はすぐには返事ができなかった。

 

 戻ると決めた瞬間だけではなく、その前から分かる。

 それはつまり、彼女にとっては「まだ来ていないのに、来る気配が分かる」ということだ。

 待つ側として、それがどういう意味を持つのか、私は少しだけ想像してしまった。

 

「……早めに分かるぶん、待つ時間も増えそうですね」

 私がそう言うと、彼女は少しだけ目を細めた。

「それでもです」

「そうですか」

「はい。急に来なくなるより、ずっといいです」

 

 その言い方が、妙に胸に残った。

 

 夜、布団に入ってからも、私は帰る前の気配のことを考えていた。

 

 帰る前にも、すでに始まりがある。

 向きが変わり、気配が生まれ、それが帰路へつながる。

 そう考えると、帰るという行為は、私が思っていたよりずっと早く、そしてずっと静かに始まっている。

 

「……戻るって、もう少し前から始まってたんだな」

 

 暗闇の中でそう呟く。

 

 胸の奥の核は、今日も静かに脈打っていた。

 その周囲には、昨日よりもさらに細かい層がある。

 帰路の前の気配。

 道になる手前の向き。

 そうしたものまで含めて、ここへ戻るための構造になっている。

 

 私はその複雑さを、もう怖いとは思わなかった。

 

 むしろ、その細かさのひとつひとつが、ここまで自分が戻ってきた回数の積み重ねなのだと思うと、不思議なくらい自然だった。

 

 そんなことを考えながら、私はゆっくりと眠りに落ちていった。

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