さびしきもの 作:ひまんちゅ
翌朝、私は目を覚ましたときから、まだ帰っていないはずの感覚を知っていた。
布団の中で目を開けたまま、昨夜のことを思い返す。
帰路は、戻ると決めた瞬間に立ち上がる。
それは単なる道ではなく、向こう側――彼女のいる場所――もまた、こちらの変化を受け取っているらしい。
戻る前から、もう近い。
彼女はそう言った。
「……なら」
私は小さく呟いた。
「帰る前にも、気配があるのか」
胸の奥の核に意識を向ける。
そこにあるものは、もうずいぶん静かで、はっきりしていた。昔のような揺れや不安定さは少ない。そのかわり、何かが始まる前の、ごく薄い前触れのようなものが分かるようになっている。
私は起き上がって居間へ向かった。
彼女はすでに起きていたが、今日はいつもより少しだけ不思議な立ち方をしていた。座っているでもなく、動いているでもなく、耳を澄ませるように静かにそこにいる。
「おはようございます」
「おはよう」
挨拶のあと、彼女のほうが先に言った。
「今日は、少し早いですね」
「時間ですか」
「いえ」
彼女は小さく首を振る。
「起きる前から、近かったです」
私は思わず黙った。
そう言われると、自分でも少し分かる。目が覚める前から、すでにこちらの感覚のどこかが内側へ向いていた。まだ布団の中にいて、どこにも移動していないのに。
「……帰る前どころか、起きる前からですか」
「たぶん」
「どうして」
「分かりません」
彼女はそう言ってから、少しだけ言い直すように続けた。
「でも、今は“戻る時”が近づくと分かります」
「時間で?」
「時間もあるかもしれません。でも、それだけじゃないです」
私は卓袱台の前に座り、湯呑みに手を添えた。
まだ熱い。
その熱を感じながら、私はひとつの仮説を思いついていた。
「……帰るって、決断だけじゃないのかもしれない」
「決断」
「はい。昨日は、外にいる私が“戻る”と決めた瞬間に帰路が開いた」
彼女は静かに聞いている。
「でも今日は違う。まだどこにも行ってないし、戻るとも思ってない」
「はい」
「それでも、もう少し近い」
「……」
「だとすると、帰る前にもっと手前の段階がある」
「どういう」
「向きです」
私は自分でも言いながら、その言葉がしっくりくるのを感じた。
「まだ決めてない。でも、意識が向き始めている」
「こちらに」
「たぶん」
彼女は少しだけ目を伏せた。
その表情には、理解しようとする静かな熱があった。
朝食のあと、私はその仮説を確かめるために外へ出た。
今日は町まで行くつもりだったが、昨日までとは違うやり方を試す。
戻ると決める前。
そのさらに手前の、「向き始める」感覚を見たい。
石段を下り、林道を歩き、舗装路へ出る。
町の空気はいつもどおりだった。
車の音、人の話し声、店のシャッターが上がる音。どれも以前より馴染み深くなっている。外はもう、完全な異物ではない。
駅前まで歩き、私は少し長めにベンチへ座った。
ここで、意識を細かく分ける。
何も考えない状態。
今日はまだ帰らない、と思う状態。
そろそろ帰るかもしれない、と思う状態。
戻る、と決める状態。
最初の二つでは、変化はほとんどなかった。
外は外のままだ。
だが、三つ目――「そろそろ帰るかもしれない」と考えた瞬間、はっきりした変化があった。
「……来た」
私は小さく呟いた。
昨日ほど強くはない。
まだ帰路そのものではない。
だが、向きが変わる。
足元に薄い傾きが生まれ、意識が外へ散るのをやめ、少しずつあの場所のほうへ揃い始める。
帰路が開く前の、前兆。
帰る前の気配。
そして四つ目――明確に「戻る」と決めると、その薄い傾きが一気に道になる。
「……順番があるんだな」
私は立ち上がった。
いきなり帰るわけではない。
まず向きが生まれる。
それから帰路が開く。
そして、重なる場所を通り、内側へ戻る。
私はそのまま、あえてすぐには戻らず、町の中を少し歩いた。
帰る前の気配を持ったまま、別の店先を眺め、横道へ入り、また駅前へ戻る。
すると面白いことに、その気配は完全には消えなかった。
薄くはなるが、向いている限り残る。
つまり、帰る前の気配とは瞬間的なものではない。
向きが保たれているあいだ、じわじわと続く状態なのだ。
やがて私は実際に戻り始めた。
舗装路から林道へ、林道から石段へ。
すると、その気配は石段の下でさらに濃くなり、昨日見つけた「迎えに来る道」と自然につながった。
帰路は、突然始まるのではない。
前触れがあり、その前触れを土台にして開くのだ。
境内へ戻ると、彼女は鳥居の内側に立っていた。
私を見ると、ほんの少しだけ息をつく。
「分かりましたか」
「帰る前にも段階があります」
「……」
「いきなり戻るんじゃない」
私は縁側に座って続けた。
「まず、向きが変わる」
「向き」
「はい。まだ帰ると決めてない。でも、そっちを考え始める」
「その時点で、少し近い」
「たぶん、それです」
彼女はしばらく黙っていた。
やがて静かに言う。
「だから、朝も分かったんですね」
「朝?」
「起きる前から、少しこちらに向いていたから」
私はその言葉に、妙に納得した。
夜眠る前、私はすでにここにいた。眠りの中で一度外へ離れるわけではない。ならば、目覚めに向かうときの意識の向きが、そのまま朝の距離感に影響していてもおかしくない。
「……外にいても同じでした」
私は言った。
「帰る前に、まず少し向く」
「はい」
「その状態は、決断より手前です」
「……」
「でも、たしかに始まってる」
彼女はそれを聞いて、小さくうなずいた。
その仕草には、少しだけ安心した色があった。
午後、私はその状態を図に描いた。
外。
帰る前の気配。
帰路。
重なる場所。
内側。
これまで一本だった線は、さらに細かい段階に分かれていく。
だが不思議なことに、複雑になればなるほど構造は分かりやすくなってきた。曖昧だった現象に、きちんと手順があると分かるからだ。
「……段階が増えましたね」
彼女が紙を見ながら言った。
「増えました」
「帰るまでに、ずいぶん色々あるんですね」
「そうですね」
私は少し笑った。
「最初は、出られないか帰れないかの二択だと思ってましたけど」
「はい」
「今は、そのあいだがほとんど全部です」
彼女も、ごく小さく笑った。
夕方、縁側に並んで座る。
風は穏やかで、今日はどこか早めに帰ってくる気配を含んでいた。
「……あの」
彼女が言う。
「何ですか」
「あなたが、帰る前に少し向くのは」
「はい」
「分かると、うれしいです」
私はすぐには返事ができなかった。
戻ると決めた瞬間だけではなく、その前から分かる。
それはつまり、彼女にとっては「まだ来ていないのに、来る気配が分かる」ということだ。
待つ側として、それがどういう意味を持つのか、私は少しだけ想像してしまった。
「……早めに分かるぶん、待つ時間も増えそうですね」
私がそう言うと、彼女は少しだけ目を細めた。
「それでもです」
「そうですか」
「はい。急に来なくなるより、ずっといいです」
その言い方が、妙に胸に残った。
夜、布団に入ってからも、私は帰る前の気配のことを考えていた。
帰る前にも、すでに始まりがある。
向きが変わり、気配が生まれ、それが帰路へつながる。
そう考えると、帰るという行為は、私が思っていたよりずっと早く、そしてずっと静かに始まっている。
「……戻るって、もう少し前から始まってたんだな」
暗闇の中でそう呟く。
胸の奥の核は、今日も静かに脈打っていた。
その周囲には、昨日よりもさらに細かい層がある。
帰路の前の気配。
道になる手前の向き。
そうしたものまで含めて、ここへ戻るための構造になっている。
私はその複雑さを、もう怖いとは思わなかった。
むしろ、その細かさのひとつひとつが、ここまで自分が戻ってきた回数の積み重ねなのだと思うと、不思議なくらい自然だった。
そんなことを考えながら、私はゆっくりと眠りに落ちていった。