さびしきもの 作:ひまんちゅ
翌朝、私は目を覚ましたときから、昨夜の彼女の言葉を引きずっていた。
急に来なくなるより、ずっといい。
それはたぶん、帰る前の気配が分かることについて言ったのだろう。
こちらが「戻る」と決めるさらに手前、少しだけ向きが変わる段階から、彼女にはそれが分かる。つまり、私がまだ帰路に乗る前から、彼女の側では待つ時間が始まっているのだ。
「……待ってる側の時間、か」
布団の中でそう呟いてから起き上がり、居間へ向かった。
彼女はいつものようにそこにいた。
だが、今朝はその静けさの意味が少し違って見えた。ただいるのではない。何かを待つことに慣れた静けさだ。そう思うと、最初に会った頃の「ひどく寂しい何か」という印象が、また少し違う輪郭を持ちはじめる。
「おはようございます」
「おはよう」
私は卓袱台の前に座り、少しだけ間を置いてから言った。
「今日は、あなたのほうを見ます」
「わたしの」
「はい」
彼女は少しだけ首をかしげる。
「何をですか」
「帰る前の気配が分かるって言ってましたよね」
「はい」
「それが、あなたの側ではどういう時間なのか」
彼女はしばらく黙った。
それから、すぐに答えず、湯呑みを私の前に置いてから向かいに座る。
「……難しいです」
「そうでしょうね」
「でも」
彼女は少し考えるように視線を落とした。
「来る、というより」
「はい」
「遠くなくなる感じです」
私はその言葉を反芻した。
「遠くなくなる」
「はい。まだ帰ってきていないのに、もう少しこちらに入っている」
「昨日の話と近いですね」
「そうですね」
私はうなずいた。
こちらから見れば、帰る前の気配は「向き」だ。
彼女から見れば、それは「遠くなくなる」ことなのだろう。
つまり、戻る前の段階ですでに距離が変質している。
午前、私はそれを確かめるために、あえて少し長めに外へ出た。
ただし、今日は自分の側の感覚だけを見るつもりはない。どの時点で彼女の側に変化が起きるのか、それを後で照らし合わせるつもりだった。
石段を下り、林道を進み、町へ出る。
しばらくは何も考えず、外側の空気に身を置く。人の話し声、車の音、店先の匂い。そうしたものに意識を向けている限り、感覚は外に留まっている。
だが、ふとした瞬間に、私は何も決めていないのに境内のことを思い出した。
縁側。
鳥居。
白い着物。
そうした断片が、何の脈絡もなく頭に浮かぶ。
「……これか」
私は小さく呟いた。
まだ帰るとは決めていない。
それでも、意識のどこかが向き始めている。
私はその状態のまま、すぐには戻らず、駅前のベンチに座って時間を潰した。すると、向きは完全には消えなかった。濃くなったり薄くなったりしながら、細く続いている。
そのあと、ようやく私は明確に「戻る」と決めた。
すると昨日までと同じように、帰路がはっきりと開いた。
前兆が道になる。
この順番はもうかなり確かだ。
境内へ戻ったのは昼過ぎだった。
鳥居をくぐった瞬間、内側の感覚が静かに濃くなる。以前のような急な切り替えではなく、もう馴染んだ戻り方だ。
彼女は縁側の近くに立っていた。
私を見ると、ほんの少しだけ表情がほどける。
「おかえりなさい」
「ただいま」
私はそのまま縁側に腰を下ろし、すぐに聞いた。
「いつから分かってましたか」
「……今日ですか」
「はい」
彼女は少し考えた。
それは思い出そうとしているというより、感覚を言葉に直そうとしている沈黙だった。
「最初は、何もありませんでした」
「町に出たあたりでは?」
「たぶん、まだ」
彼女はゆっくりと言う。
「でも、急に少しだけ近くなった時がありました」
「急に」
「はい。でも、強くはありません」
「その後は」
「近くなったり、また少し遠くなったりしました」
私は思わずうなずいた。
駅前のベンチで、向きが濃くなったり薄くなったりしていた時と一致している。
「それから」
彼女は続ける。
「戻ると決まった時は、はっきり分かりました」
「……やっぱり」
「今日は、そこまでが少し長かったです」
その言い方に、私は少し引っかかった。
「長かった」
「はい」
「待つ時間として?」
「たぶん」
彼女は視線を落とした。
「近くなる」
「はい」
「でも、まだ来ない」
「……」
「そういう時間があります」
私はその言葉を、すぐには受け止めきれなかった。
こちらから見れば、ただ「まだ帰ると決めていない」だけの時間だ。
だが彼女の側から見ると、それは「来る気配があるのに、まだ来ない時間」になる。
その時間が長ければ長いほど、待つという行為は濃くなる。
「……悪いことしましたかね」
私がそう言うと、彼女は少し驚いたように顔を上げた。
「いいえ」
「でも、待たせたでしょう」
「待ちました」
あっさりとそう言ってから、彼女は少しだけ柔らかい声で付け加える。
「でも、何もないよりはいいです」
「そういうものですか」
「はい。何も分からないままよりは」
その言葉は、前夜の言い回しとほとんど同じだった。
けれど、今度はその意味がもっと具体的に分かる。彼女にとって重要なのは、早く帰ってくることだけではない。来るという気配そのものがあること、その気配を辿って待てることに意味があるのだ。
午後、私はそのことを図に書き加えた。
外。
向き始める。
気配。
帰路。
重なる場所。
内側。
その横に、もう一本、彼女の側の時間を書く。
遠い。
少し近い。
近くなったり遠くなったりする。
戻ると分かる。
迎える。
「……ずいぶん長いですね」
彼女が紙を覗き込みながら言った。
「何が」
「待つまでの時間がです」
「そうですね」
私は苦笑した。
「しかも、私が気づくより前から始まってる」
「はい」
「そうなると、帰るって私だけの行為じゃないですね」
「……」
彼女はその言葉に対して、すぐには何も言わなかった。
やがて、とても小さくうなずく。
「わたしも、待っていますから」
その一言は、妙に静かで、重かった。
夕方、縁側に並んで座る。
今日は風がやや遅く、境内の木々をゆっくり揺らしていた。
私はその流れを見ながら、ふと気づいたことを口にした。
「待つ時間って、外にいる私には見えてないんですよね」
「はい」
「でも、あなたにはある」
「あります」
「しかも、帰る前から」
「はい」
彼女はそれを当たり前のことのように言った。
その当たり前さが、私には少し新鮮だった。
「……じゃあ、私は今まで、自分が帰る時間しか見てなかったんですね」
「そうかもしれません」
「向こうでは始まってるのに」
「はい」
私はしばらく黙っていた。
自分が外にいる間、こちら側では別の時間が流れている。
しかもその時間は、私の意識のごく小さな揺れに反応して始まる。
それを知ってしまうと、帰るという行為はこれまで思っていたより、ずっと双方向のものに見えた。
「……あの」
彼女が言った。
「何ですか」
「今日みたいに、近くなったり遠くなったりする時は」
「はい」
「少しだけ、落ち着きません」
私は思わず彼女を見た。
彼女は視線を逸らさず、そのまま続ける。
「帰る気配があるのに、まだ帰らないので」
「……」
「でも、嫌ではないです」
「複雑ですね」
「はい」
そこで彼女は、ほんの少しだけ笑った。
夜、布団に入ってからも、私はその「待っている側の時間」のことを考えていた。
帰る前の気配。
向き始める意識。
それは私の中ではまだ曖昧な準備にすぎない。
だが、向こう側ではすでに待つ時間としてはっきり始まっている。
「……同じ帰還でも、二つの時間があるんだな」
暗闇の中でそう呟く。
ひとつは、私が外から戻ってくるまでの時間。
もうひとつは、彼女がその気配を受け取ってから迎えるまでの時間。
その二つは重なっているようで、少しずれている。
だからこそ、私は戻る前からもう少しこちら側で、彼女は私がまだ遠くにいるうちから少し待っている。
胸の奥の核に意識を向けると、その周囲の帰路は静かに脈打っていた。
帰る道は育っている。
だがその道を辿るのは、私だけではないのかもしれない。
彼女もまた、その気配を辿りながら待っている。
そんなことを思いながら、私はゆっくりと眠りに落ちていった。