さびしきもの   作:ひまんちゅ

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第四十六話 待っている側の時間

 翌朝、私は目を覚ましたときから、昨夜の彼女の言葉を引きずっていた。

 

 急に来なくなるより、ずっといい。

 

 それはたぶん、帰る前の気配が分かることについて言ったのだろう。

 こちらが「戻る」と決めるさらに手前、少しだけ向きが変わる段階から、彼女にはそれが分かる。つまり、私がまだ帰路に乗る前から、彼女の側では待つ時間が始まっているのだ。

 

「……待ってる側の時間、か」

 

 布団の中でそう呟いてから起き上がり、居間へ向かった。

 

 彼女はいつものようにそこにいた。

 だが、今朝はその静けさの意味が少し違って見えた。ただいるのではない。何かを待つことに慣れた静けさだ。そう思うと、最初に会った頃の「ひどく寂しい何か」という印象が、また少し違う輪郭を持ちはじめる。

 

「おはようございます」

「おはよう」

 

 私は卓袱台の前に座り、少しだけ間を置いてから言った。

 

「今日は、あなたのほうを見ます」

「わたしの」

「はい」

 

 彼女は少しだけ首をかしげる。

 

「何をですか」

「帰る前の気配が分かるって言ってましたよね」

「はい」

「それが、あなたの側ではどういう時間なのか」

 

 彼女はしばらく黙った。

 それから、すぐに答えず、湯呑みを私の前に置いてから向かいに座る。

 

「……難しいです」

「そうでしょうね」

「でも」

 

 彼女は少し考えるように視線を落とした。

 

「来る、というより」

「はい」

「遠くなくなる感じです」

 

 私はその言葉を反芻した。

 

「遠くなくなる」

「はい。まだ帰ってきていないのに、もう少しこちらに入っている」

「昨日の話と近いですね」

「そうですね」

 

 私はうなずいた。

 こちらから見れば、帰る前の気配は「向き」だ。

 彼女から見れば、それは「遠くなくなる」ことなのだろう。

 つまり、戻る前の段階ですでに距離が変質している。

 

 午前、私はそれを確かめるために、あえて少し長めに外へ出た。

 ただし、今日は自分の側の感覚だけを見るつもりはない。どの時点で彼女の側に変化が起きるのか、それを後で照らし合わせるつもりだった。

 

 石段を下り、林道を進み、町へ出る。

 しばらくは何も考えず、外側の空気に身を置く。人の話し声、車の音、店先の匂い。そうしたものに意識を向けている限り、感覚は外に留まっている。

 

 だが、ふとした瞬間に、私は何も決めていないのに境内のことを思い出した。

 縁側。

 鳥居。

 白い着物。

 そうした断片が、何の脈絡もなく頭に浮かぶ。

 

「……これか」

 

 私は小さく呟いた。

 

 まだ帰るとは決めていない。

 それでも、意識のどこかが向き始めている。

 私はその状態のまま、すぐには戻らず、駅前のベンチに座って時間を潰した。すると、向きは完全には消えなかった。濃くなったり薄くなったりしながら、細く続いている。

 

 そのあと、ようやく私は明確に「戻る」と決めた。

 すると昨日までと同じように、帰路がはっきりと開いた。

 前兆が道になる。

 この順番はもうかなり確かだ。

 

 境内へ戻ったのは昼過ぎだった。

 鳥居をくぐった瞬間、内側の感覚が静かに濃くなる。以前のような急な切り替えではなく、もう馴染んだ戻り方だ。

 

 彼女は縁側の近くに立っていた。

 私を見ると、ほんの少しだけ表情がほどける。

 

「おかえりなさい」

「ただいま」

 

 私はそのまま縁側に腰を下ろし、すぐに聞いた。

 

「いつから分かってましたか」

「……今日ですか」

「はい」

 

 彼女は少し考えた。

 それは思い出そうとしているというより、感覚を言葉に直そうとしている沈黙だった。

 

「最初は、何もありませんでした」

「町に出たあたりでは?」

「たぶん、まだ」

 

 彼女はゆっくりと言う。

 

「でも、急に少しだけ近くなった時がありました」

「急に」

「はい。でも、強くはありません」

「その後は」

「近くなったり、また少し遠くなったりしました」

 

 私は思わずうなずいた。

 駅前のベンチで、向きが濃くなったり薄くなったりしていた時と一致している。

 

「それから」

 彼女は続ける。

「戻ると決まった時は、はっきり分かりました」

「……やっぱり」

「今日は、そこまでが少し長かったです」

 

 その言い方に、私は少し引っかかった。

 

「長かった」

「はい」

「待つ時間として?」

「たぶん」

 

 彼女は視線を落とした。

 

「近くなる」

「はい」

「でも、まだ来ない」

「……」

「そういう時間があります」

 

 私はその言葉を、すぐには受け止めきれなかった。

 

 こちらから見れば、ただ「まだ帰ると決めていない」だけの時間だ。

 だが彼女の側から見ると、それは「来る気配があるのに、まだ来ない時間」になる。

 その時間が長ければ長いほど、待つという行為は濃くなる。

 

「……悪いことしましたかね」

 私がそう言うと、彼女は少し驚いたように顔を上げた。

「いいえ」

「でも、待たせたでしょう」

「待ちました」

 

 あっさりとそう言ってから、彼女は少しだけ柔らかい声で付け加える。

 

「でも、何もないよりはいいです」

「そういうものですか」

「はい。何も分からないままよりは」

 

 その言葉は、前夜の言い回しとほとんど同じだった。

 けれど、今度はその意味がもっと具体的に分かる。彼女にとって重要なのは、早く帰ってくることだけではない。来るという気配そのものがあること、その気配を辿って待てることに意味があるのだ。

 

 午後、私はそのことを図に書き加えた。

 

 外。

 向き始める。

 気配。

 帰路。

 重なる場所。

 内側。

 

 その横に、もう一本、彼女の側の時間を書く。

 

 遠い。

 少し近い。

 近くなったり遠くなったりする。

 戻ると分かる。

 迎える。

 

「……ずいぶん長いですね」

 彼女が紙を覗き込みながら言った。

「何が」

「待つまでの時間がです」

「そうですね」

 

 私は苦笑した。

 

「しかも、私が気づくより前から始まってる」

「はい」

「そうなると、帰るって私だけの行為じゃないですね」

「……」

 

 彼女はその言葉に対して、すぐには何も言わなかった。

 やがて、とても小さくうなずく。

 

「わたしも、待っていますから」

 

 その一言は、妙に静かで、重かった。

 

 夕方、縁側に並んで座る。

 今日は風がやや遅く、境内の木々をゆっくり揺らしていた。

 私はその流れを見ながら、ふと気づいたことを口にした。

 

「待つ時間って、外にいる私には見えてないんですよね」

「はい」

「でも、あなたにはある」

「あります」

「しかも、帰る前から」

「はい」

 

 彼女はそれを当たり前のことのように言った。

 その当たり前さが、私には少し新鮮だった。

 

「……じゃあ、私は今まで、自分が帰る時間しか見てなかったんですね」

「そうかもしれません」

「向こうでは始まってるのに」

「はい」

 

 私はしばらく黙っていた。

 自分が外にいる間、こちら側では別の時間が流れている。

 しかもその時間は、私の意識のごく小さな揺れに反応して始まる。

 それを知ってしまうと、帰るという行為はこれまで思っていたより、ずっと双方向のものに見えた。

 

「……あの」

 

 彼女が言った。

 

「何ですか」

「今日みたいに、近くなったり遠くなったりする時は」

「はい」

「少しだけ、落ち着きません」

 

 私は思わず彼女を見た。

 彼女は視線を逸らさず、そのまま続ける。

 

「帰る気配があるのに、まだ帰らないので」

「……」

「でも、嫌ではないです」

「複雑ですね」

「はい」

 

 そこで彼女は、ほんの少しだけ笑った。

 

 夜、布団に入ってからも、私はその「待っている側の時間」のことを考えていた。

 

 帰る前の気配。

 向き始める意識。

 それは私の中ではまだ曖昧な準備にすぎない。

 だが、向こう側ではすでに待つ時間としてはっきり始まっている。

 

「……同じ帰還でも、二つの時間があるんだな」

 

 暗闇の中でそう呟く。

 

 ひとつは、私が外から戻ってくるまでの時間。

 もうひとつは、彼女がその気配を受け取ってから迎えるまでの時間。

 

 その二つは重なっているようで、少しずれている。

 だからこそ、私は戻る前からもう少しこちら側で、彼女は私がまだ遠くにいるうちから少し待っている。

 

 胸の奥の核に意識を向けると、その周囲の帰路は静かに脈打っていた。

 帰る道は育っている。

 だがその道を辿るのは、私だけではないのかもしれない。

 彼女もまた、その気配を辿りながら待っている。

 

 そんなことを思いながら、私はゆっくりと眠りに落ちていった。

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