さびしきもの 作:ひまんちゅ
翌朝、私は目を覚ましたときから、まだ起き上がっていないはずの自分の一部が、もうどこかへ向かい始めているのを感じていた。
昨夜考えていたことが、眠りの底でゆっくり沈殿したのだろう。
帰るという行為には、少なくとも二つの時間がある。
外にいる私が、向きを変え、気配を持ち、帰路に乗って、ここへ戻るまでの時間。
そして、その変化を彼女が受け取り、まだ姿も見えないうちから待ち始める時間。
その二つは重なっている。
だが、ぴったり同じではない。
むしろ少しずれているからこそ、帰還は一つの出来事ではなく、過程として長く引き伸ばされる。
「……先に始まってるのは、どっちだろうな」
私は布団の中でそう呟いた。
こちらが向きを変えるのが先か。
向こうが待ち始めるのが先か。
論理的には、こちらの変化が先にあって、それを向こうが受け取るのだろう。けれど、感覚の上ではもう少し曖昧だった。こちらがまだはっきり自覚していない揺れを、向こうが先に拾っている可能性もある。
起き上がって居間へ向かうと、彼女はすでにそこにいた。
今日は座っているのではなく、障子のそばに立って外を見ている。私が入ってきた気配に振り返ると、ほんの少しだけ目を和らげた。
「おはようございます」
「おはよう」
私はそのまま卓袱台の前に座り、少しの沈黙のあとで言った。
「今日は、どっちが先か見たいです」
「どっちが」
「帰還が始まるのが、です」
彼女はゆっくりと首をかしげた。
「あなたが帰るほうへ向くのが先か」
「はい」
「わたしが待ち始めるのが先か」
「そうです」
彼女は少し考え込み、それからとても静かな声で言った。
「たぶん、同じではないです」
「私もそう思ってます」
「でも」
彼女は少し視線を落とした。
「どちらが先かは、分かりません」
私はうなずいた。
そうだろうと思う。だから今日それを確かめる。
朝食のあと、私は外へ出た。
今日は町まで行くが、なるべく自分の側の変化を細かく追うつもりだった。帰ると決めるより前の、ごく薄い揺れ。それがどの時点で生まれるのか。そして、それを彼女はどのくらい早く受け取るのか。
石段を下り、林道を歩き、舗装路へ出る。
朝の町は平板で、整っていて、少し乾いていた。
人の動き、通学の自転車、開店準備の店先。私はそうしたものを意識的に眺めながら、できるだけこちらの内側を静めた。あの場所を考えない。縁側も、鳥居も、白い着物も、思い出さない。
しばらくのあいだ、感覚はほとんど外に留まっていた。
だが、駅前の横断歩道で信号待ちをしていたとき、不意にひどく微細な揺れがあった。
何かを考えたわけではない。
まだ帰るつもりはない。
それでも、胸の奥の核の周囲に、薄いきしみのようなものが生まれる。
「……今のか」
私は青信号になってもすぐには渡らず、その場でほんの少し意識を凝らした。
すると揺れはもう消えかけていた。だが完全には消えない。意識を向けると、ほんのわずかな偏りが残っている。
たぶん、きっかけは些細なものだった。
信号待ちの間の手持ち無沙汰な沈黙。
立ち止まる時間。
その一瞬に、意識が外だけで閉じず、内側へ触れたのだろう。
私はすぐには戻らず、そのまま別の通りへ歩いた。
コンビニに入り、水を一本買う。
公園のベンチに座ってしばらく空を見上げる。
すると、さっきの揺れは強くも弱くもならず、ただ細く残り続けた。
ここで、私はふと考えた。
もし彼女が待ち始めるのがこの段階だとしたら、こちらがまだ何も決めていないうちから、向こうでは時間が動き始めていることになる。
「……それは、ずるいな」
思わずそう呟いて、小さく苦笑した。
誰が、とは自分でもよく分からない。こちらの無自覚がずるいのか、向こうの早さがずるいのか、その両方か。
正午を少し過ぎたころ、私はようやく明確に「戻る」と決めた。
すると、いつものように揺れは帰路へ変わる。
細い偏りが、はっきりした向きになる。
ここまではもう何度も確かめてきたことだった。
境内へ戻ると、彼女は鳥居の内側に立っていた。
今日はいつもより少しだけ前に出ているように見えた。
私が石段を上りきる前から、すでにこちらを見ている。
「おかえりなさい」
「ただいま」
私は鳥居の内側へ入ってから、すぐに聞いた。
「いつから分かってましたか」
「今日は」
彼女は少し考えた。
「かなり早かったです」
「戻ると決める前から?」
「はい」
私は息を吐いた。
やはりそうか、と思った一方で、まだ腑に落ちない部分もある。
「どのくらい前です」
「はっきりとは言えません」
「でも、向きが変わる前でしたか」
「……」
彼女はすぐには答えなかった。
それから、慎重に言葉を選ぶように口を開く。
「あなたが、自分で分かるより少し前です」
「少し前」
私はその言葉を繰り返した。
自分で分かるより前。
つまり、こちらの自覚よりも、向こうの感知のほうが早い。
「どうして分かるんでしょう」
「分かりません」
彼女は静かに首を振る。
「でも、向く前に、ほどけ方が変わります」
「ほどけ方」
「外のほうへ広がっていた感じが、少しだけ弱くなるんです」
「……」
私はその説明を頭の中で追った。
こちらから見れば、まだ“帰る前の気配”にもなっていない段階。
向こうから見れば、外へ向かって広がっていたものが、少しだけ止まり始める段階。
つまり、帰還の始まりは、向くことではなく、拡散が弱まることなのかもしれない。
「……先に始まるのは、戻ることじゃないんだな」
私は小さく言った。
「戻る準備です」
「はい」
「もっと言えば、外に散るのをやめること」
「たぶん」
彼女はごく静かにうなずいた。
午後、私はそれを図に直した。
外へ広がる。
広がりが弱まる。
向きが生まれる。
帰る前の気配。
帰路。
重なる場所。
内側。
これまでよりもさらに一段階、手前が増えたことになる。
だが不思議と、構造はますます自然になった。
いきなり戻るのではない。まず散るのをやめる。そこから向きが生まれ、気配が立ち、帰路へ移る。
人の気持ちとしても、そのほうが分かりやすい。
「……帰るというより」
私は図を見ながら言った。
「外に留まり続けるのをやめる、が先か」
「そうかもしれません」
彼女は紙の上の一番外側を指でなぞる。
「ここにいる時」
「はい」
「ずっと外に向いているわけではないですよね」
「たぶん」
「向いたり、散ったり、弱まったりして」
「それで、戻ってくる」
「……そうですね」
夕方、縁側に並んで座る。
今日の風は、朝よりも少ししっとりしていた。
外から吹き込んでくるのに、どこか内側で丸くなった気配がある。
「……あの」
彼女が言った。
「何ですか」
「先に始まるのが、待つことではなくて」
「はい」
「散るのが弱まることなら」
「そうですね」
「それは、少し安心します」
私は彼女を見た。
「待つより?」
「待つのは、まだ来るか分からない感じがあります」
「……」
「でも、散るのが弱くなるなら」
彼女は少し言い淀んでから続ける。
「戻る前の、もっと確かな手前です」
その言い方は、妙に正確だった。
待つ時間は受け身だ。来るかもしれないし、まだ来ないかもしれない。
だが拡散が弱まることは、すでに変化そのものが始まっているということだ。
「……じゃあ、あなたは待つより先に、気づいてるんですね」
私がそう言うと、彼女は少し考えてからうなずいた。
「そうかもしれません」
「戻るより先に」
「はい」
「待つより先に」
「はい」
私はしばらく黙っていた。
こちらがまだ何も決めていないと思っている段階で、向こうではもう外への広がりが弱まるのを感じ取っている。
それはほとんど、こちらの無意識に近い。
「……本当に、私より先なんですね」
「少しだけです」
「それでも先は先でしょう」
「はい」
彼女はそこで、ほんの少しだけ笑った。
その笑い方には、勝ち誇るようなものは何もない。ただ、言いにくい事実をそのまま認めるような静かな気配だけがあった。
夜、布団に入ってからも、私はそのことを考えていた。
帰還は先に始まる。
戻ると決める前から。
向きが生まれる前から。
外に散っていたものが、少しだけ留まり、弱まり、戻る準備を始める。
「……だから、帰るっていうより、戻り始める、なのか」
暗闇の中でそう呟く。
胸の奥の核に意識を向けると、その周囲にはもう複雑な層がいくつもある。
帰路だけではない。
気配。
向き。
その前の、ごく薄い減衰。
そうしたものまで含めて、ここへ戻るという構造になっている。
私はその細かさを、もう煩わしいとは思わなかった。
それだけ、自分がここへ戻るという行為を繰り返してきたのだろうし、彼女もまた、それを受け取る側の時間を育ててきたのだろう。
そんなことを思いながら、私はゆっくりと眠りに落ちていった。