さびしきもの   作:ひまんちゅ

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第四十七話 先に始まる帰還

 翌朝、私は目を覚ましたときから、まだ起き上がっていないはずの自分の一部が、もうどこかへ向かい始めているのを感じていた。

 

 昨夜考えていたことが、眠りの底でゆっくり沈殿したのだろう。

 帰るという行為には、少なくとも二つの時間がある。

 外にいる私が、向きを変え、気配を持ち、帰路に乗って、ここへ戻るまでの時間。

 そして、その変化を彼女が受け取り、まだ姿も見えないうちから待ち始める時間。

 

 その二つは重なっている。

 だが、ぴったり同じではない。

 むしろ少しずれているからこそ、帰還は一つの出来事ではなく、過程として長く引き伸ばされる。

 

「……先に始まってるのは、どっちだろうな」

 

 私は布団の中でそう呟いた。

 

 こちらが向きを変えるのが先か。

 向こうが待ち始めるのが先か。

 論理的には、こちらの変化が先にあって、それを向こうが受け取るのだろう。けれど、感覚の上ではもう少し曖昧だった。こちらがまだはっきり自覚していない揺れを、向こうが先に拾っている可能性もある。

 

 起き上がって居間へ向かうと、彼女はすでにそこにいた。

 今日は座っているのではなく、障子のそばに立って外を見ている。私が入ってきた気配に振り返ると、ほんの少しだけ目を和らげた。

 

「おはようございます」

「おはよう」

 

 私はそのまま卓袱台の前に座り、少しの沈黙のあとで言った。

 

「今日は、どっちが先か見たいです」

「どっちが」

「帰還が始まるのが、です」

 

 彼女はゆっくりと首をかしげた。

 

「あなたが帰るほうへ向くのが先か」

「はい」

「わたしが待ち始めるのが先か」

「そうです」

 

 彼女は少し考え込み、それからとても静かな声で言った。

 

「たぶん、同じではないです」

「私もそう思ってます」

「でも」

 彼女は少し視線を落とした。

「どちらが先かは、分かりません」

 

 私はうなずいた。

 そうだろうと思う。だから今日それを確かめる。

 

 朝食のあと、私は外へ出た。

 今日は町まで行くが、なるべく自分の側の変化を細かく追うつもりだった。帰ると決めるより前の、ごく薄い揺れ。それがどの時点で生まれるのか。そして、それを彼女はどのくらい早く受け取るのか。

 

 石段を下り、林道を歩き、舗装路へ出る。

 朝の町は平板で、整っていて、少し乾いていた。

 人の動き、通学の自転車、開店準備の店先。私はそうしたものを意識的に眺めながら、できるだけこちらの内側を静めた。あの場所を考えない。縁側も、鳥居も、白い着物も、思い出さない。

 

 しばらくのあいだ、感覚はほとんど外に留まっていた。

 

 だが、駅前の横断歩道で信号待ちをしていたとき、不意にひどく微細な揺れがあった。

 何かを考えたわけではない。

 まだ帰るつもりはない。

 それでも、胸の奥の核の周囲に、薄いきしみのようなものが生まれる。

 

「……今のか」

 

 私は青信号になってもすぐには渡らず、その場でほんの少し意識を凝らした。

 すると揺れはもう消えかけていた。だが完全には消えない。意識を向けると、ほんのわずかな偏りが残っている。

 

 たぶん、きっかけは些細なものだった。

 信号待ちの間の手持ち無沙汰な沈黙。

 立ち止まる時間。

 その一瞬に、意識が外だけで閉じず、内側へ触れたのだろう。

 

 私はすぐには戻らず、そのまま別の通りへ歩いた。

 コンビニに入り、水を一本買う。

 公園のベンチに座ってしばらく空を見上げる。

 すると、さっきの揺れは強くも弱くもならず、ただ細く残り続けた。

 

 ここで、私はふと考えた。

 もし彼女が待ち始めるのがこの段階だとしたら、こちらがまだ何も決めていないうちから、向こうでは時間が動き始めていることになる。

 

「……それは、ずるいな」

 

 思わずそう呟いて、小さく苦笑した。

 誰が、とは自分でもよく分からない。こちらの無自覚がずるいのか、向こうの早さがずるいのか、その両方か。

 

 正午を少し過ぎたころ、私はようやく明確に「戻る」と決めた。

 すると、いつものように揺れは帰路へ変わる。

 細い偏りが、はっきりした向きになる。

 ここまではもう何度も確かめてきたことだった。

 

 境内へ戻ると、彼女は鳥居の内側に立っていた。

 今日はいつもより少しだけ前に出ているように見えた。

 私が石段を上りきる前から、すでにこちらを見ている。

 

「おかえりなさい」

「ただいま」

 

 私は鳥居の内側へ入ってから、すぐに聞いた。

 

「いつから分かってましたか」

「今日は」

 彼女は少し考えた。

「かなり早かったです」

「戻ると決める前から?」

「はい」

 

 私は息を吐いた。

 やはりそうか、と思った一方で、まだ腑に落ちない部分もある。

 

「どのくらい前です」

「はっきりとは言えません」

「でも、向きが変わる前でしたか」

「……」

 

 彼女はすぐには答えなかった。

 それから、慎重に言葉を選ぶように口を開く。

 

「あなたが、自分で分かるより少し前です」

「少し前」

 

 私はその言葉を繰り返した。

 自分で分かるより前。

 つまり、こちらの自覚よりも、向こうの感知のほうが早い。

 

「どうして分かるんでしょう」

「分かりません」

 

 彼女は静かに首を振る。

 

「でも、向く前に、ほどけ方が変わります」

「ほどけ方」

「外のほうへ広がっていた感じが、少しだけ弱くなるんです」

「……」

 

 私はその説明を頭の中で追った。

 こちらから見れば、まだ“帰る前の気配”にもなっていない段階。

 向こうから見れば、外へ向かって広がっていたものが、少しだけ止まり始める段階。

 つまり、帰還の始まりは、向くことではなく、拡散が弱まることなのかもしれない。

 

「……先に始まるのは、戻ることじゃないんだな」

 私は小さく言った。

「戻る準備です」

「はい」

「もっと言えば、外に散るのをやめること」

「たぶん」

 

 彼女はごく静かにうなずいた。

 

 午後、私はそれを図に直した。

 

 外へ広がる。

 広がりが弱まる。

 向きが生まれる。

 帰る前の気配。

 帰路。

 重なる場所。

 内側。

 

 これまでよりもさらに一段階、手前が増えたことになる。

 だが不思議と、構造はますます自然になった。

 いきなり戻るのではない。まず散るのをやめる。そこから向きが生まれ、気配が立ち、帰路へ移る。

 人の気持ちとしても、そのほうが分かりやすい。

 

「……帰るというより」

 私は図を見ながら言った。

「外に留まり続けるのをやめる、が先か」

「そうかもしれません」

 

 彼女は紙の上の一番外側を指でなぞる。

 

「ここにいる時」

「はい」

「ずっと外に向いているわけではないですよね」

「たぶん」

「向いたり、散ったり、弱まったりして」

「それで、戻ってくる」

「……そうですね」

 

 夕方、縁側に並んで座る。

 今日の風は、朝よりも少ししっとりしていた。

 外から吹き込んでくるのに、どこか内側で丸くなった気配がある。

 

「……あの」

 

 彼女が言った。

 

「何ですか」

「先に始まるのが、待つことではなくて」

「はい」

「散るのが弱まることなら」

「そうですね」

「それは、少し安心します」

 

 私は彼女を見た。

 

「待つより?」

「待つのは、まだ来るか分からない感じがあります」

「……」

「でも、散るのが弱くなるなら」

 彼女は少し言い淀んでから続ける。

「戻る前の、もっと確かな手前です」

 

 その言い方は、妙に正確だった。

 待つ時間は受け身だ。来るかもしれないし、まだ来ないかもしれない。

 だが拡散が弱まることは、すでに変化そのものが始まっているということだ。

 

「……じゃあ、あなたは待つより先に、気づいてるんですね」

 私がそう言うと、彼女は少し考えてからうなずいた。

「そうかもしれません」

「戻るより先に」

「はい」

「待つより先に」

「はい」

 

 私はしばらく黙っていた。

 こちらがまだ何も決めていないと思っている段階で、向こうではもう外への広がりが弱まるのを感じ取っている。

 それはほとんど、こちらの無意識に近い。

 

「……本当に、私より先なんですね」

「少しだけです」

「それでも先は先でしょう」

「はい」

 

 彼女はそこで、ほんの少しだけ笑った。

 その笑い方には、勝ち誇るようなものは何もない。ただ、言いにくい事実をそのまま認めるような静かな気配だけがあった。

 

 夜、布団に入ってからも、私はそのことを考えていた。

 

 帰還は先に始まる。

 戻ると決める前から。

 向きが生まれる前から。

 外に散っていたものが、少しだけ留まり、弱まり、戻る準備を始める。

 

「……だから、帰るっていうより、戻り始める、なのか」

 

 暗闇の中でそう呟く。

 

 胸の奥の核に意識を向けると、その周囲にはもう複雑な層がいくつもある。

 帰路だけではない。

 気配。

 向き。

 その前の、ごく薄い減衰。

 そうしたものまで含めて、ここへ戻るという構造になっている。

 

 私はその細かさを、もう煩わしいとは思わなかった。

 それだけ、自分がここへ戻るという行為を繰り返してきたのだろうし、彼女もまた、それを受け取る側の時間を育ててきたのだろう。

 

 そんなことを思いながら、私はゆっくりと眠りに落ちていった。

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