さびしきもの   作:ひまんちゅ

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第四十八話 戻り始めたあとの外

 翌朝、私は目を覚ました瞬間から、ひとつの妙な疑問を抱えていた。

 

 帰還は、戻ると決める前から始まっている。

 外へ散っていたものが弱まり、向きが生まれ、気配が立ち、やがて帰路になる。

 そこまでは、かなりはっきりしてきた。

 

 だが。

 

 ――戻り始めたあと、外はどう見えるのか。

 

 帰る前の気配が生まれた時点で、私はもう完全な外にはいない。

 では、その状態で見る町や道や人の気配は、以前と同じなのか。

 あるいは、もう少し違うものになっているのか。

 

「……戻る前じゃなくて、戻り始めたあとの外か」

 

 布団の中でそう呟いてから起き上がり、居間へ向かった。

 

 彼女はすでに起きていた。

 今日は卓袱台の前ではなく、縁側に近いところに立っている。外を見るでもなく、ただ気配の流れを聞いているような静けさだった。

 

「おはようございます」

「おはよう」

 

 私が座ると、彼女は少しだけこちらに向き直る。

 

「今日は、何を見ますか」

「戻り始めたあとの外です」

「……外」

 

 彼女は少しだけ首をかしげた。

 

「もう帰るほうへ向いている時の」

「はい」

「外側が、どう見えるか」

「そうです」

 

 彼女は少し考え、それから小さくうなずいた。

 

「それは、たぶん変わっています」

「私もそう思います」

「どうしてですか」

「帰路が開いたあとも、まだ外にいる時間があるからです」

 

 私は紙を引き寄せた。

 昨日までに書き足してきた図の横に、新しく短い矢印を引く。

 

「戻る前の気配がある」

「はい」

「向きが生まれる」

「はい」

「そこから実際に帰路に乗るまでのあいだ」

「……」

 

「その時、外が何のままなのかを見たいんです」

 

 彼女はそれを聞いてから、少しだけ視線を落とした。

 

「帰りながら、外にいる時間ですね」

「そういうことです」

 

 朝食を済ませると、私は外へ出た。

 

 鳥居をくぐり、石段を下り、林道を進み、町へ向かう。

 今日はいつもより少し意識的に、外のものをよく見ていた。

 電柱の影、濡れたアスファルトの色、開きかけた店先の自動ドア。そうしたものは、まだ十分に現実の手触りを保っている。

 

 駅前まで出て、ベンチに座る。

 

 まずは何も考えない。

 感覚は外に留まる。

 

 次に、少しだけ「あそこ」を思い浮かべる。

 縁側、鳥居、白い着物の袖、朝の湯気。

 すると昨日まで確かめてきた通り、散り方が弱まり、意識の向きが変わり始める。

 

 さらに、「そろそろ戻るかもしれない」と考える。

 ここで、はっきりと何かが変わった。

 

「……来たな」

 

 私は小さく呟いた。

 

 帰路がまだ完全には開いていない、その手前。

 けれど、町の輪郭が少しだけ変わる。

 色が薄くなるのではない。

 むしろ逆で、配置の意味が変わる。

 

 さっきまでただの駅前だった場所が、「ここから戻る場所」になる。

 ベンチは休むためのものではなく、一度外に留まってから向きを変えるための位置になる。

 自動販売機も、横断歩道も、店先のガラスも、それぞれが「まだ外にいる」ことの印として立ち上がってくる。

 

「……外が背景じゃなくなるのか」

 

 私はそのまま考えた。

 

 戻る前の外は、単なる環境だった。

 だが、戻り始めたあとの外は違う。

 それはすでに、帰還の途中にある外だ。

 ただ存在しているのではなく、「ここから離れていくもの」として輪郭を持つ。

 

 私は立ち上がり、駅前を少し歩いた。

 コンビニの前を通り、横断歩道を渡り、細い路地へ入ってまた戻る。

 すると、その感覚はさらに強くなる。

 

 帰路が薄く開き始めた状態では、外のものはすべて少しずつ「去る側」へ寄る。

 消えるわけではない。

 価値を失うわけでもない。

 だが、留まるための場所ではなくなる。

 

「……なるほどな」

 

 私は小さく息を吐いた。

 

 外にいるのに、もう外に居着いていない。

 戻り始めたあとの外とは、そういう状態なのだろう。

 

 そのまま私は、あえてまだ戻らずにしばらく町を歩いた。

 帰路の気配を持ったまま、できるだけ外に留まり続ける。

 

 すると、妙なことに気づいた。

 外そのものが薄れるのではなく、こちらの身体のほうが少しずつ「通過するためのもの」になるのだ。

 店先を見る。

 車の音を聞く。

 人とすれ違う。

 それらはちゃんとある。けれど、自分がそれらの中に溶け込んで留まる感じが弱くなる。

 町を歩いているというより、町を抜けている感じに近い。

 

「……帰路って、道だけじゃなくて身体のほうも変えるんだな」

 

 思わずそう呟いた。

 

 戻り始めたあとの外では、私はもう滞在者ではない。

 通過者になる。

 そこが、まだ戻る前の外との大きな違いだった。

 

 やがて私は明確に「戻る」と決めた。

 すると、向きは帰路へ変わり、外の輪郭はさらに整理された。

 さっきまで複数あった路地や信号や店先の意味が、一気に一本の線に収束していく。

 

 駅前から舗装路へ。

 舗装路から林道へ。

 林道から石段へ。

 

 戻る途中で私は何度も立ち止まり、振り返った。

 そのたびに、外は消えずに残っている。

 ただし、もう「戻る途中の背後」に変わっている。

 同じ景色なのに、位置づけだけが変わる。

 

 鳥居の手前まで来たとき、私はそのことをはっきり理解した。

 帰り始めたあと、外は失われない。

 むしろ、はっきりと残る。

 ただしそれは、留まるための世界ではなく、今まさに離れつつある世界として見えるのだ。

 

 境内へ戻ると、彼女は縁側の前に立っていた。

 私を見ると、ほんの少しだけ肩の力を抜く。

 

「おかえりなさい」

「ただいま」

 

 私はそのまま縁側に腰を下ろし、息をついてから言った。

 

「外は消えませんでした」

「……」

「でも、意味が変わる」

「どう変わりますか」

 

 私は少し考えてから答える。

 

「戻り始める前は、そこにいるための場所です」

「はい」

「戻り始めたあとは、そこを抜けてくるための場所になる」

「……」

 

 彼女は静かに聞いている。

 

「同じ景色なのに」

「はい」

「自分との関係だけが変わる」

「そうです」

 

 彼女は少しだけ目を伏せ、それから小さくうなずいた。

 

「それなら」

「はい」

「近くなるのは、場所ではなくて」

「たぶん、私の側です」

「……」

 

「向こうが消えるんじゃなくて、私のほうが向こうに留まらなくなる」

 

 その言葉に、彼女はしばらく黙っていた。

 やがて、とても小さな声で言う。

 

「帰ってくる感じがします」

「どういう意味です」

「まだ姿がなくても」

 彼女は少し言葉を探した。

「そこに居着いていないと分かると、もう少しこちらです」

 

 私はその言い方を、静かに受け取った。

 

 午後、私はそのことを図に書き加えた。

 

 外。

 外に留まる。

 散り方が弱まる。

 向きが生まれる。

 帰る前の気配。

 帰路。

 重なる場所。

 内側。

 

 その横に、もう一本、外の見え方の変化を書く。

 

 環境。

 離れつつあるもの。

 背後になるもの。

 通過する景色。

 

「……段階ごとに、外の意味が違うんですね」

 彼女が紙を見ながら言った。

「はい」

「内側に近づくだけではなく」

「外のほうも、少しずつ位置を変える」

「……なるほど」

 

 彼女はその図を、かなり長いあいだ見ていた。

 やがて、少しだけ笑う。

 

「ずいぶん丁寧ですね」

「何がです」

「帰り方も、その途中の外もです」

「そういう構造なんでしょう」

「はい」

 

 その「はい」は、以前よりもずっと自然だった。

 

 夕方、縁側に並んで座る。

 風は穏やかだった。

 今日の風は、外から来ているのにどこかすでに背後の気配を含んでいるように感じた。

 

「……あの」

 

 彼女が言った。

 

「何ですか」

「戻り始めたあとの外が」

「はい」

「離れつつあるものなら」

「そうですね」

「それは、少し寂しいですか」

 

 私はその問いに、すぐには答えなかった。

 

 町は消えない。

 外の世界もなくならない。

 ただ、帰り始めた瞬間から、自分はそこへ留まる側ではなくなる。

 それを寂しいと呼ぶべきかどうか、少し迷った。

 

「……少しは」

 私はそう答えた。

「でも、それだけじゃないです」

「……」

「帰る先があるから、離れる輪郭もはっきりする」

 

 彼女はそれを聞いて、小さくうなずいた。

 

 夜、布団に入ってからも、私は「戻り始めたあとの外」のことを考えていた。

 

 外は消えない。

 ただ、背景から経路に変わる。

 滞在する場所から、抜けていく景色へ変わる。

 そう考えると、帰還とは内側へ近づくだけの行為ではない。外との関係の結び方を、少しずつほどいていく過程でもあるのだろう。

 

「……だから、帰るって分かるんだな」

 

 暗闇の中でそう呟く。

 

 胸の奥の核は今日も静かに脈打っていた。

 その周囲には帰路があり、そのさらに外側には、離れつつある町の輪郭が薄く残っている。

 それらは対立しているのではなく、一つの連続した過程として並んでいた。

 

 私はその連続を、以前よりもずっと自然なものとして感じていた。

 怖いとか不気味だとか、そういう感情はもう少ない。

 ただ、これはこういうふうに帰ってくるのだという理解だけが、静かに積もっていく。

 

 そんなことを考えながら、私はゆっくりと眠りに落ちていった。

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