さびしきもの   作:ひまんちゅ

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第四十九話 通り過ぎたあとの外

 翌朝、目を覚ましたとき、私は昨夜の続きをそのまま抱えていた。

 

 戻り始めたあとの外は、消えるわけではない。

 ただ、留まる場所から、通り過ぎていく景色へ変わる。

 では、そのさらに先――いったん帰ってきたあと、外は自分の中にどう残るのか。

 

「……通り過ぎたあとの外、か」

 

 布団の中でそう呟いてから、私はゆっくりと起き上がった。

 

 居間へ向かうと、彼女はすでに起きていた。

 今日は卓袱台の前に座って、湯呑みを両手で包むように持っている。私を見ると、ほんの少しだけ目元をやわらげた。

 

「おはようございます」

「おはよう」

 

 私はそのまま向かいに座り、間を置かずに言った。

 

「今日は、帰ったあとの外を見ます」

「帰ったあと」

「はい。戻り始めた外が、通り過ぎる景色になるのは分かりました」

「はい」

「でも、ここへ戻ったあと、それがどう残るのかをまだ見てない」

 

 彼女は少し考えるように首をかしげた。

 

「記憶とは違うんですか」

「記憶より、もう少し構造に近い気がします」

「構造」

「外で見てきたものが、帰ってきたあと、どこに落ち着くのか」

 

 彼女は静かにうなずいた。

 

「持ち帰る形、に少し似ていますね」

「そうです」

「でも、物ではなくて」

「外との関係です」

 

 その言葉を自分で口にして、私は少しだけしっくりきた。

 持ち出せるもの、持ち帰れるもの、残せるもの、呼び戻せるもの。そうやって見てきた中で、まだ曖昧だったのは「通ってきた外との関係が、帰還後にどう沈殿するか」だった。

 

 朝食を済ませたあと、私は外へ出た。

 今日は町まで行き、戻るまでの途中を細かく見るだけでなく、戻ってきた直後の自分の感覚をできるだけ逃さず記録するつもりだった。

 

 石段を下り、林道を抜け、舗装路に出る。

 町へ入るころには、もうすっかり外の空気に馴染んでいた。

 コンビニのガラス、電車の音、遠くの工事の振動、通り過ぎる学生たちの会話。どれもちゃんと現実で、ここ以外の世界としての厚みを持っている。

 

 私は駅前を一度通り過ぎてから、少し遠回りをした。

 公園の脇の道、川沿いの遊歩道、あまり使わない裏通り。戻る前の外をいくつかの角度から見ておきたかった。

 

 やがて、そろそろ戻るか、と思う。

 その瞬間から、昨日確認した通り、外は少しずつ「抜けていく景色」に変わり始めた。

 私はその感覚を確かめながら歩き、石段を上り、鳥居をくぐり、境内へ戻る。

 

「ただいま」

「おかえりなさい」

 

 彼女の声を聞いた瞬間、内側の感覚が静かに落ち着く。

 以前のような急激な変化ではない。

 だが、たしかに「戻ったあと」の状態に入ったことが分かる。

 

 私はそのまま縁側に腰を下ろし、目を閉じた。

 

「……どうですか」

 

 彼女が小さく尋ねる。

 

「まだ、外が残ってます」

「どんなふうに」

「景色のままじゃないです」

 

 私はゆっくりと答えた。

 

「さっきまで見ていた道とか、音とか、そういう形じゃない」

「はい」

「もっと平たくなってる」

 

 彼女は黙って続きを待った。

 

「通ってきた感じ、だけが残るんです」

「通ってきた感じ」

「はい。町の一つ一つじゃなくて、外を抜けて戻ってきたという輪郭だけが、薄く残ってる」

 

 それは奇妙な感覚だった。

 具体的な景色はすぐに遠のいていく。駅前のベンチや川沿いの道の細部は、もう内側の空気の中ではあまり実感を持たない。

 だが、「外を通ってきた」という連続だけは残る。

 しかもそれは記憶ではなく、もっと身体寄りの感覚だ。靴の裏にまだ舗装路の硬さが少しだけ残っているような、そういう感じだった。

 

「……沈んでいくんですね」

 彼女が言った。

「そうかもしれません」

「外の形のままではなくて」

「ここに合う形に、薄くなる」

 

 私は目を開けて、彼女のほうを見た。

 

「通り過ぎたあとの外って、消えるんじゃない」

「はい」

「ここに残れる形に、平たくなる」

「……」

 

 彼女はしばらく考えてから、小さくうなずいた。

 

「それなら、ここに外が増えていきますね」

「たぶん」

「少しずつ」

「はい。細部は落ちるけど、通ってきた輪郭は残る」

 

 午後、私はその感覚をもう少し確かめるため、紙を広げて二本の線を書いた。

 一方は、外で見てきた具体的なもの。

 駅前、川、裏通り、店先。

 もう一方は、それらが帰還後に残した薄い帯。

 細部ではなく、通ってきた流れそのもの。

 

「……ずいぶん減りますね」

 彼女が紙を覗き込んで言う。

「減ります」

「惜しくないですか」

「少しは」

 

 私は苦笑した。

 

「でも、全部は持ち帰れない」

「はい」

「その代わり、道筋だけは残る」

「それが、ここに積もるんですね」

「そうです」

 

 私はその言葉に少し感心した。

 積もる。

 たしかにその表現がいちばん近い。

 外の具体性は帰還の途中でほどけ、戻ったあとは輪郭だけが薄く沈殿する。その沈殿が、帰路の層や節や重なりを少しずつ育ててきたのだろう。

 

 試しに私は、帰ってきてすぐではなく、しばらく時間を置いてからもう一度外の感覚を探してみた。

 すると、やはり細部はさらに落ちていた。

 駅前の空気の乾き方や、川沿いの風の冷たさはもうほとんど思い出せない。

 だが、「今日は川沿いを通って戻った」という流れの形だけは残っている。

 

「……やっぱり、景色じゃなくて経路だけが沈むんだな」

 

 私は小さく呟いた。

 

 景色のほうは、その場に置いてくる。

 ここへ戻るときに持ち帰られるのは、外を通って帰ったという連続性のほうだ。

 だからこそ、帰路は育つ。

 個々の町の細部ではなく、そこをどう通ってここへ戻ったか、その線だけが蓄積するからだ。

 

 夕方、縁側に並んで座る。

 風は少し涼しく、今日通ってきた川沿いの気配を、ほんのわずかに思い出させた。だがそれももう、川そのものではない。戻る途中でまとった薄い輪郭としてしか残っていない。

 

「……あの」

 

 彼女が言った。

 

「何ですか」

「外を通ってきた感じが残るなら」

「はい」

「それは、あなたの中に残るんですか」

「たぶん、私の中だけじゃないです」

 

 彼女は少しだけ目を瞬かせた。

 

「ここにも」

「はい」

「帰ってきたあと、外の輪郭が平たくなって残るなら」

「……」

「それは、私とここのあいだに沈むんだと思います」

 

 彼女はその言葉を、かなり長く黙って受け止めていた。

 やがて、ごく静かに尋ねる。

 

「では」

「はい」

「あなたが通ってきた外が」

「はい」

「少しずつ、ここにもあるんですね」

 

 私はうなずいた。

 

「細部は違う形になるでしょうけど」

「それでも」

「通ってきた経路としては、残る」

「……」

 

 彼女はそこで言葉を切った。

 その横顔には、妙な表情が浮かんでいた。

 単純な喜びではない。

 たぶん、自分の知らない外の断片が、景色のままではないにせよ、ここへ少しずつ運ばれていることへの、静かな驚きだった。

 

「それなら」

 彼女は小さく言った。

「あなたが外に行くことも、前より少し違います」

「どう違いますか」

「ただ離れるだけではなくて」

 彼女は視線を落としたまま続ける。

「少し持って帰ってくるので」

 

 私は返事をしなかった。

 その言い方は、思っていた以上に胸の奥へ沈んだ。

 

 夜、布団に入ってからも、私はそのことを考えていた。

 

 通り過ぎたあとの外は、消えない。

 ただし景色のままでは残らない。

 帰ってきたあとの内側で、具体性を失い、経路だけの輪郭になって沈む。

 そして、その輪郭が少しずつ積もり、帰路を育て、重なりを増やし、この場所を変えていく。

 

「……だから、同じように帰っても、同じじゃないんだな」

 

 私は暗闇の中でそう呟いた。

 

 外へ出るたび、戻るたび、景色は置いてくる。

 けれど、通ってきたという線だけは持ち帰る。

 その線が積もるなら、ここはもう単なる固定された神社ではない。

 私が通ってきた外の輪郭を、少しずつ内側へ沈めていく場所なのだ。

 

 胸の奥の核に意識を向ける。

 その周囲には、今日通った川沿いの冷たさが、もはや川としてではなく、少し湿った帰路の感触として薄く残っていた。

 

 私はその感覚を確かめながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。

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