さびしきもの 作:ひまんちゅ
翌朝、私は境内の掃除をしていた。
理由は特にない。
強いて言えば、手持ち無沙汰だったからだ。
社の周囲はもともとよく手入れされている。落ち葉も少なく、土は均され、石の配置も整っている。掃除をする意味はあまりない。だが箒を動かしていると、何かしている気になれる。ここにいる理由を、無理やり作れる。
彼女は少し離れた場所で、同じように箒を動かしていた。
ただし、動きは私よりずっと不器用だ。
落ち葉を集めるというより、ばらまいているに近い。
「それ、意味あります?」
「あります」
彼女は真顔で答えた。
「掃いています」
「いや、見れば分かるけど」
「一緒に掃いているのが大事です」
「……そういうことですか」
私はそれ以上突っ込むのをやめた。
彼女なりの理由なのだろう。
あるいは、理由などなくてもいいのかもしれない。
しばらくして、私は箒を立てかけた。
「今日、少し下まで行ってきます」
「……帰るんですか」
声の調子は平坦だったが、わずかに間があった。
「いえ、確認です」
「確認」
「どこまで普通に行けるのか。どこまで戻れるのか。あと、食料も少し」
彼女は黙ってこちらを見た。
昨日、男を見送ったときに気づいたことがある。
ここは完全に閉じた場所ではない。
人の出入りはある。
そして、外の世界とつながっている。
ならば、ここをただの「閉じ込められた場所」として扱う必要はない。
――拠点にする。
その言葉が、頭の中で形を持ち始めていた。
「すぐ戻ります」
「……戻ってきますか」
「たぶん」
「たぶん、ですか」
少しだけ、彼女の声に棘が混じった。
「帰れると分かった以上、戻らない選択もできるでしょう」
「できますね」
「では、どうして戻るんですか」
私は一瞬考えて、肩をすくめた。
「まだ調べることがあるから」
「何を」
「あなたのことを」
彼女は目を瞬かせた。
「調べて、どうするんですか」
「さあ」
正直に言う。
「危険なら対処するし、安全なら……」
「安全なら?」
「利用するかもしれない」
言ったあとで、少し言い過ぎたかと思った。
だが彼女は怒らなかった。
むしろ、少しだけ楽しそうに目を細めた。
「利用、ですか」
「嫌ですか」
「いいえ」
彼女はゆっくりと首を振った。
「使ってもらえるなら、そのほうがいいです」
「……ずいぶんあっさりしてますね」
「だって、何の役にも立たないよりは」
その言い方が、妙に胸に引っかかった。
役に立たない。
自分でそう言い切ることに、躊躇がない。
昨日も感じたが、彼女は自分の「弱さ」を正確に把握している。
そして、それを受け入れている。
だからこそ、こういう言い方ができる。
私は少しだけ視線を逸らした。
「……戻りますよ」
「はい」
彼女はそれ以上何も言わなかった。
私は石段を下りた。
今日は足取りが軽い。
昨日までのような、見えない圧力はほとんど感じない。
林道に出る。
空気が変わる。
――外だ。
その感覚は、はっきりと分かった。
私は深く息を吸った。
湿った山の匂いが、少し薄くなる。
代わりに、どこか乾いた、日常の匂いが混じる。
数分歩くと、舗装された道に出た。
完全に、戻った。
私は立ち止まった。
ここから先は、いつもの世界だ。
コンビニがあって、人がいて、電波が通じて、時間が普通に流れている場所。
ポケットからスマートフォンを取り出す。
圏外の表示が消え、アンテナが立つ。
通知が一斉に流れ込んできた。
未読メッセージ。
サークルのグループチャット。
家族からの連絡。
大学の事務からのメール。
すべて、いつものものだ。
私はしばらく画面を見ていた。
――戻るか。
そのまま、日常に。
何もなかったことにして。
あるいは「変な神社があった」と笑い話にして。
それが一番合理的だ。
危険もない。
不確定要素もない。
怪異に関わる必要もない。
だが。
画面を閉じたとき、私はもう決めていた。
踵を返す。
山のほうへ。
林道を戻る。
数分で、あの石段が見えた。
上る。
鳥居をくぐる。
境内に入る。
彼女は、さっきと同じ場所に立っていた。
まるで、動いていなかったかのように。
だが、私の姿を見た瞬間、ほんのわずかに表情が変わった。
「……おかえりなさい」
今度のそれは、少しだけ本物に近かった。
「ただいま」
私は自然にそう返していた。
その言葉に、自分で少し驚く。
だが彼女は、何も言わなかった。
ただ、小さくうなずいた。
私は持ってきた袋を掲げる。
「食料、少し買ってきました」
「……買ってきたんですか」
「はい」
「外で」
「外で」
彼女はそれを見て、少し戸惑ったような顔をした。
「ここに、持ち込めるんですね」
「普通に」
「そうですか」
その反応は、どこか新鮮だった。
彼女にとっても、この場所の外とのつながりは、完全には把握しきれていないのかもしれない。
「これ、置いていいですか」
「はい」
私は袋を居間に置いた。
中にはパンや缶詰、簡単な調味料などが入っている。
どれも特別なものではない。
だが、この場所に持ち込まれると、妙に異質に見えた。
「……これで、しばらくは困らないでしょう」
「困っていましたか」
「たぶん」
彼女は少し考えるようにしてから、言った。
「でも、困っていると分からない状態でした」
「それは困ってるんですよ」
私は思わず笑った。
彼女も、少しだけ笑った。
その笑い方は、昨日よりも自然だった。
私は縁側に座った。
彼女も隣に座る。
距離は、昨日より少しだけ近い。
「戻ってきた理由、ありますか」
彼女が聞いた。
私は少しだけ考えて、答えた。
「拠点にできそうだと思ったからです」
「拠点」
「山の怪異を調べるなら、ここはちょうどいい」
「……そうですか」
彼女は少しだけ目を伏せた。
「それだけですか」
「それだけです」
嘘ではない。
ただ、それだけでもない。
彼女は何も言わなかった。
風が吹く。
白い布が揺れる。
私はぼんやりと空を見上げながら、思った。
――言い訳としては、悪くない。
拠点。
調査。
利用。
どれも、それらしい理由だ。
だが本当は、もっと単純だ。
あのまま帰ると、たぶん少しだけ後悔すると思った。
それだけだ。
彼女は隣で、静かに座っている。
何も言わない。
何も求めない。
ただ、そこにいる。
その距離が、昨日よりも少しだけ近く感じられた。