さびしきもの   作:ひまんちゅ

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第六話 弱い神さまの境界

 拠点、という言葉を口にしてから、時間の流れ方が少し変わった。

 

 正確には、私の感じ方が変わっただけなのだろう。

 ここはもともと、時計に従う場所ではない。日が昇り、日が沈み、虫が鳴き、風が通る。それだけだ。だが「拠点」として扱うと決めた瞬間から、私はこの場所に時間の区切りを持ち込むようになった。

 

 朝は何をするか。

 昼はどこまで動くか。

 夕方には戻るか。

 

 そんな当たり前のことを、わざわざ考えるようになった。

 

 その日の午前、私は境内の外を歩いていた。

 

 社の裏手、と彼女が言っていた方向だ。

 実際に足を踏み入れてみると、そこには細い獣道のようなものがあった。だが、数歩進むと景色が曖昧になる。木々の配置が微妙にずれ、さっき通ったはずの場所に戻る。あるいは逆に、見覚えのない場所に出る。

 

「……やっぱりか」

 

 私は小さく呟いた。

 

 この場所は、完全に開かれているわけではない。

 外とつながっている部分もあれば、そうでない部分もある。

 境界が曖昧なのだ。

 

 私は一度引き返し、別の方向へ進んだ。

 今度は少しだけ進める。

 だがやはり、一定の距離を超えると、同じように景色が歪む。

 

 その感覚は、不快ではあるが、昨日ほどの恐怖はなかった。

 

 ――構造が分かっているからだ。

 

 ここは「出られない場所」ではない。

 ただ、「出られる方向」と「出られない方向」があるだけだ。

 

 そして、それはたぶん――

 

「わたしの範囲です」

 

 背後から声がした。

 

 振り返ると、彼女が立っていた。

 

「範囲?」

「ここまでが、わたしが影響できるところです」

 

 彼女は足元の土を軽く踏んだ。

 

「それより外は、普通の山です」

「……なるほど」

 

 私は周囲を見回した。

 

 確かに、少し手前までは普通に歩ける。

 だがこのあたりから先は、景色が不安定になる。

 

「じゃあ、あなたはここから出られない?」

「はい」

 

 あっさりと答える。

 

「出ようとすると、戻ってしまいます」

「意図的に?」

「いえ」

 

 彼女は首を振った。

 

「そういうものなんです」

 

 私は少し考えた。

 

「じゃあ、あの石段のところは」

「外とつながっている場所です」

「出入口か」

「そうです」

 

 なるほど、と私はうなずいた。

 

 つまりこの場所は、完全な異界ではない。

 一種の「領域」だ。

 彼女を中心に広がる、限定的な影響圏。

 

 その中では、空気が歪み、認識が揺らぎ、恐怖が増幅される。

 だが外へ出れば、ただの山に戻る。

 

「……思ってたより、スケールが小さいですね」

「すみません」

 

 素直に謝られて、私は思わず苦笑した。

 

「いや、謝ることじゃないですけど」

「大きいほうがよかったですか」

「いや別に」

 

 私は木の幹に寄りかかった。

 

「ただ、こう……もっと圧倒的な何かかと思ってました」

「期待外れでしたか」

「まあ、少しは」

 

 そう言うと、彼女は少しだけ考えるような顔をした。

 

「……それは、どうすれば改善されますか」

「改善って」

「もっと怪異らしくなるには」

 

 私は一瞬、言葉に詰まった。

 

「いや、それは」

「怖がらせるのは、多少できます」

「知ってます」

「でも、それ以上はあまり」

「知ってます」

 

 彼女は少しだけ肩を落とした。

 

 その様子が、妙に人間くさい。

 

「……別に、無理に強くならなくていいんじゃないですか」

「そうでしょうか」

「むしろそのままのほうが扱いやすい」

「扱いやすい」

 

 繰り返してから、彼女は少しだけ笑った。

 

「やっぱり、利用するんですね」

「そのつもりです」

 

 私は即答した。

 

「ここを拠点にするなら、この範囲は重要ですから」

「どう使いますか」

「例えば、外から人が来たときのフィルター」

「フィルター」

「知識のある人間は足が止まる。ない人間は通り抜ける」

「……確かに」

 

 彼女は少し考え込んだ。

 

「では、あなたは」

「私は引っかかる側ですね」

「はい」

 

 少しだけ、嬉しそうだった。

 

「じゃあ、逆に言えば」

 私は続ける。

「あなたの力は、“怖がり方を知っている人間”にしか効きにくい」

「そうかもしれません」

「それって、かなり限定的ですよ」

「はい」

 

 彼女は迷いなくうなずいた。

 

「でも、その人たちは、ちゃんと止まってくれます」

「……そうですね」

 

 私は小さく息を吐いた。

 

 なるほど、と思う。

 

 彼女のやっていることは、力で縛ることではない。

 認識を揺らし、恐怖の型を刺激し、相手自身に足を止めさせることだ。

 

 だから、知らない人間には効きにくい。

 逆に、知っている人間には強く効く。

 

 ――厄介だ。

 

 私はそう思った。

 

 そして同時に、自分がその「効く側」であることも、改めて自覚した。

 

「戻りましょう」

 

 彼女が言った。

 

 私はうなずき、社のほうへ戻る。

 

 境内に入ると、空気が少し変わる。

 さっきまでの外の山とは違う、ほんのわずかな重み。

 

 だが、それはもう不快ではなかった。

 

 午後、私は持ってきた食料を整理していた。

 

 棚の一角にスペースを作り、缶詰やパンを並べる。

 彼女はその様子を興味深そうに見ていた。

 

「こういうもの、あまり見ないですか」

「はい」

「使い方、分かります?」

「たぶん」

 

 怪しい返事だった。

 

「……一応、説明しておきますか」

「お願いします」

 

 私は缶詰を手に取った。

 

「これはこうやって開けて」

「はい」

「そのまま食べられます」

「便利ですね」

「便利です」

 

 彼女は真剣な顔でうなずいた。

 

 その様子が妙におかしくて、私は少し笑った。

 

「何ですか」

「いや、神様に缶詰の説明してるの、変だなと思って」

「神様ではないかもしれません」

「そうでしたね」

 

 私は手を止めた。

 

「……あなた、自分のことどう思ってるんですか」

「どう、とは」

「神様なのか、そうじゃないのか」

「分かりません」

 

 彼女は少し考えるようにしてから言った。

 

「昔は、そう呼ばれていた気がします」

「気がする」

「はい」

「記憶は」

「曖昧です」

 

 私は黙った。

 

「でも、今は」

 

 彼女は自分の手を見た。

 

「今は、ここにいるものです」

「……それでいいんですか」

「よく分かりません」

 

 少しだけ、困ったように笑う。

 

「でも、あなたが来てからは」

「はい」

「少しだけ、分かりやすくなりました」

 

 私は首をかしげた。

 

「何が」

「ここが、何なのか」

 

 彼女はゆっくりと境内を見渡した。

 

「誰かが来て、誰かが帰る場所」

「……」

「そして、誰かが戻ってくる場所」

 

 私は何も言えなかった。

 

 夕方、また縁側に座る。

 

 空は赤く染まり、木々の影が長く伸びる。

 

 彼女は隣に座る。

 

 昨日よりも、さらに少し近い。

 

「今日は、外に出ましたね」

「出ましたね」

「帰れましたね」

「帰れましたね」

「それでも、戻ってきましたね」

「戻ってきましたね」

 

 彼女は少しだけ笑った。

 

「理由、まだ分かりませんか」

「分かってますよ」

「何ですか」

 

 私は空を見上げたまま答えた。

 

「ここにいるほうが、少しだけ面白いからです」

「面白い」

 

 彼女はその言葉を反芻した。

 

「それは、いいことですか」

「たぶん」

 

 私は肩をすくめた。

 

「少なくとも、退屈ではない」

「そうですか」

 

 彼女は静かにうなずいた。

 

 風が吹く。

 

 白い布が揺れる。

 

 私はその音を聞きながら、ぼんやりと思った。

 

 ――弱い神さまだな。

 

 だが、その弱さが、この場所を形作っている。

 

 圧倒的な怪異なら、私はここにいない。

 逃げるか、壊れるか、どちらかだっただろう。

 

 だがこれは違う。

 

 留まるか、帰るかを、自分で選ばされる場所だ。

 

 その選択が、少しだけ面白いと思ってしまった時点で。

 

 私はもう、完全に外の人間ではなくなっていたのかもしれない。

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