さびしきもの 作:ひまんちゅ
拠点、という言葉を口にしてから、時間の流れ方が少し変わった。
正確には、私の感じ方が変わっただけなのだろう。
ここはもともと、時計に従う場所ではない。日が昇り、日が沈み、虫が鳴き、風が通る。それだけだ。だが「拠点」として扱うと決めた瞬間から、私はこの場所に時間の区切りを持ち込むようになった。
朝は何をするか。
昼はどこまで動くか。
夕方には戻るか。
そんな当たり前のことを、わざわざ考えるようになった。
その日の午前、私は境内の外を歩いていた。
社の裏手、と彼女が言っていた方向だ。
実際に足を踏み入れてみると、そこには細い獣道のようなものがあった。だが、数歩進むと景色が曖昧になる。木々の配置が微妙にずれ、さっき通ったはずの場所に戻る。あるいは逆に、見覚えのない場所に出る。
「……やっぱりか」
私は小さく呟いた。
この場所は、完全に開かれているわけではない。
外とつながっている部分もあれば、そうでない部分もある。
境界が曖昧なのだ。
私は一度引き返し、別の方向へ進んだ。
今度は少しだけ進める。
だがやはり、一定の距離を超えると、同じように景色が歪む。
その感覚は、不快ではあるが、昨日ほどの恐怖はなかった。
――構造が分かっているからだ。
ここは「出られない場所」ではない。
ただ、「出られる方向」と「出られない方向」があるだけだ。
そして、それはたぶん――
「わたしの範囲です」
背後から声がした。
振り返ると、彼女が立っていた。
「範囲?」
「ここまでが、わたしが影響できるところです」
彼女は足元の土を軽く踏んだ。
「それより外は、普通の山です」
「……なるほど」
私は周囲を見回した。
確かに、少し手前までは普通に歩ける。
だがこのあたりから先は、景色が不安定になる。
「じゃあ、あなたはここから出られない?」
「はい」
あっさりと答える。
「出ようとすると、戻ってしまいます」
「意図的に?」
「いえ」
彼女は首を振った。
「そういうものなんです」
私は少し考えた。
「じゃあ、あの石段のところは」
「外とつながっている場所です」
「出入口か」
「そうです」
なるほど、と私はうなずいた。
つまりこの場所は、完全な異界ではない。
一種の「領域」だ。
彼女を中心に広がる、限定的な影響圏。
その中では、空気が歪み、認識が揺らぎ、恐怖が増幅される。
だが外へ出れば、ただの山に戻る。
「……思ってたより、スケールが小さいですね」
「すみません」
素直に謝られて、私は思わず苦笑した。
「いや、謝ることじゃないですけど」
「大きいほうがよかったですか」
「いや別に」
私は木の幹に寄りかかった。
「ただ、こう……もっと圧倒的な何かかと思ってました」
「期待外れでしたか」
「まあ、少しは」
そう言うと、彼女は少しだけ考えるような顔をした。
「……それは、どうすれば改善されますか」
「改善って」
「もっと怪異らしくなるには」
私は一瞬、言葉に詰まった。
「いや、それは」
「怖がらせるのは、多少できます」
「知ってます」
「でも、それ以上はあまり」
「知ってます」
彼女は少しだけ肩を落とした。
その様子が、妙に人間くさい。
「……別に、無理に強くならなくていいんじゃないですか」
「そうでしょうか」
「むしろそのままのほうが扱いやすい」
「扱いやすい」
繰り返してから、彼女は少しだけ笑った。
「やっぱり、利用するんですね」
「そのつもりです」
私は即答した。
「ここを拠点にするなら、この範囲は重要ですから」
「どう使いますか」
「例えば、外から人が来たときのフィルター」
「フィルター」
「知識のある人間は足が止まる。ない人間は通り抜ける」
「……確かに」
彼女は少し考え込んだ。
「では、あなたは」
「私は引っかかる側ですね」
「はい」
少しだけ、嬉しそうだった。
「じゃあ、逆に言えば」
私は続ける。
「あなたの力は、“怖がり方を知っている人間”にしか効きにくい」
「そうかもしれません」
「それって、かなり限定的ですよ」
「はい」
彼女は迷いなくうなずいた。
「でも、その人たちは、ちゃんと止まってくれます」
「……そうですね」
私は小さく息を吐いた。
なるほど、と思う。
彼女のやっていることは、力で縛ることではない。
認識を揺らし、恐怖の型を刺激し、相手自身に足を止めさせることだ。
だから、知らない人間には効きにくい。
逆に、知っている人間には強く効く。
――厄介だ。
私はそう思った。
そして同時に、自分がその「効く側」であることも、改めて自覚した。
「戻りましょう」
彼女が言った。
私はうなずき、社のほうへ戻る。
境内に入ると、空気が少し変わる。
さっきまでの外の山とは違う、ほんのわずかな重み。
だが、それはもう不快ではなかった。
午後、私は持ってきた食料を整理していた。
棚の一角にスペースを作り、缶詰やパンを並べる。
彼女はその様子を興味深そうに見ていた。
「こういうもの、あまり見ないですか」
「はい」
「使い方、分かります?」
「たぶん」
怪しい返事だった。
「……一応、説明しておきますか」
「お願いします」
私は缶詰を手に取った。
「これはこうやって開けて」
「はい」
「そのまま食べられます」
「便利ですね」
「便利です」
彼女は真剣な顔でうなずいた。
その様子が妙におかしくて、私は少し笑った。
「何ですか」
「いや、神様に缶詰の説明してるの、変だなと思って」
「神様ではないかもしれません」
「そうでしたね」
私は手を止めた。
「……あなた、自分のことどう思ってるんですか」
「どう、とは」
「神様なのか、そうじゃないのか」
「分かりません」
彼女は少し考えるようにしてから言った。
「昔は、そう呼ばれていた気がします」
「気がする」
「はい」
「記憶は」
「曖昧です」
私は黙った。
「でも、今は」
彼女は自分の手を見た。
「今は、ここにいるものです」
「……それでいいんですか」
「よく分かりません」
少しだけ、困ったように笑う。
「でも、あなたが来てからは」
「はい」
「少しだけ、分かりやすくなりました」
私は首をかしげた。
「何が」
「ここが、何なのか」
彼女はゆっくりと境内を見渡した。
「誰かが来て、誰かが帰る場所」
「……」
「そして、誰かが戻ってくる場所」
私は何も言えなかった。
夕方、また縁側に座る。
空は赤く染まり、木々の影が長く伸びる。
彼女は隣に座る。
昨日よりも、さらに少し近い。
「今日は、外に出ましたね」
「出ましたね」
「帰れましたね」
「帰れましたね」
「それでも、戻ってきましたね」
「戻ってきましたね」
彼女は少しだけ笑った。
「理由、まだ分かりませんか」
「分かってますよ」
「何ですか」
私は空を見上げたまま答えた。
「ここにいるほうが、少しだけ面白いからです」
「面白い」
彼女はその言葉を反芻した。
「それは、いいことですか」
「たぶん」
私は肩をすくめた。
「少なくとも、退屈ではない」
「そうですか」
彼女は静かにうなずいた。
風が吹く。
白い布が揺れる。
私はその音を聞きながら、ぼんやりと思った。
――弱い神さまだな。
だが、その弱さが、この場所を形作っている。
圧倒的な怪異なら、私はここにいない。
逃げるか、壊れるか、どちらかだっただろう。
だがこれは違う。
留まるか、帰るかを、自分で選ばされる場所だ。
その選択が、少しだけ面白いと思ってしまった時点で。
私はもう、完全に外の人間ではなくなっていたのかもしれない。