さびしきもの 作:ひまんちゅ
その日の朝、私は境内の中央に立って、地面を見下ろしていた。
手には小枝。
足元の土に、細い線を引く。
「……何をしているんですか」
背後から声がした。
「測ってるんです」
「測る?」
「あなたの“範囲”」
私は振り返らずに答えた。
昨日、彼女は言った。
ここまでが影響できる場所だと。
ならば、それを可視化する。
曖昧なものを曖昧なままにしておくと、また勝手に恐怖を補強してしまう。
線を引く。
覚えておく。
何が起きるかを見る。
それだけのことだ。
「ここから外は普通の山なんですよね」
「はい」
「でも境界はぼんやりしてる」
「そうですね」
私は数歩歩き、また線を引く。
地面の質感、風の通り、視界の抜け方。
ほんのわずかな違いを意識していく。
彼女は少し離れた場所で、それを見ていた。
「……そんなに、はっきり分かるものですか」
「分かるようにするんです」
「どうやって」
「繰り返しで」
私は短く答えた。
「ここまで来ると空気が変わる、とか」
「はい」
「ここから先は戻される、とか」
「はい」
「そういうのを身体で覚える」
私は境内の端まで歩き、足を止めた。
ほんの一歩先。
そこから先は、昨日と同じように景色が揺れる。
私はそこに線を引いた。
「ここがひとつの境目です」
「……そんなに簡単に決めていいんですか」
「仮ですけどね」
振り返ると、彼女が少しだけ不安そうな顔をしていた。
「何か変わりますか」
「何が」
「その……線を引いたら」
私は少し考えた。
「たぶん、変わらないです」
「……そうですか」
「でも、私の中では変わります」
彼女は首をかしげた。
「どういう意味ですか」
「ここまでが安全、ここから先は不安定」
「はい」
「そうやって区切ると、無駄に怖がらなくて済む」
私は線をなぞった。
「全部が曖昧だと、全部が怖くなるんですよ」
「……」
彼女はしばらく黙っていた。
「では」
やがて、静かに言う。
「わたしも、その線の内側なんですね」
「そうなりますね」
少しだけ間があった。
「それは、安全ですか」
「さあ」
私は肩をすくめた。
「少なくとも、昨日よりは安全だと思ってます」
「昨日より」
「昨日は、何が起きるか分からなかった」
彼女を見る。
「今日は、だいたい分かる」
「……全部ではないのに」
「全部じゃなくてもいいんですよ」
私は軽く言った。
「分かる範囲が増えれば、それでいい」
彼女はその言葉を、少しだけ噛みしめるようにしていた。
午前中いっぱい、私は境内の周囲を歩き回った。
何度も同じ場所を往復し、線を増やしていく。
曖昧だった輪郭が、少しずつ形を持つ。
石段の位置。
境界の歪み。
戻される地点。
視界が抜ける方向。
それらを頭の中に地図として描いていく。
「……だいぶ分かってきましたね」
昼前、私はそう呟いた。
「そうですか」
「はい」
振り返ると、彼女は最初と同じ場所に立っていた。
ほとんど動いていない。
「ずっと見てたんですか」
「はい」
「暇ですね」
「はい」
即答だった。
私は思わず笑った。
「手伝わないんですか」
「邪魔になると思って」
「まあ、それはそうですけど」
彼女は少しだけ考えてから言った。
「……わたし、何かできますか」
「できますよ」
「何を」
「動かないこと」
彼女は目を瞬かせた。
「それは……何かの役に立っているんですか」
「立ってます」
私は境内を指さした。
「基準になる」
「基準」
「あなたが動かないから、他の変化が分かりやすい」
彼女はしばらく黙っていた。
「……それは、少し嬉しいです」
「そうですか」
「はい」
ほんの少しだけ、頬が緩んだ。
昼食のあと、私は地図を紙に書き起こした。
観光雑誌の余白を使う。
適当な縮尺で、境内とその周辺を描く。
「それは何ですか」
「記録」
「記録」
「忘れないように」
私はペンを走らせる。
「人間はすぐ忘れるんですよ」
「そうなんですか」
「はい」
少し考えてから、付け加える。
「特に、こういう曖昧な場所のことは」
「……そうですか」
彼女は紙を覗き込んだ。
そこに描かれた線と記号を、じっと見る。
「これで、分かるんですか」
「ある程度は」
「全部ではないのに」
「全部じゃなくていいんです」
私は同じことを繰り返した。
彼女はそれを、今度は少しだけ理解したようだった。
夕方、私はその紙を居間の壁に貼った。
仮の地図。
境界線。
安全圏。
不安定領域。
出入口。
それを見て、彼女がぽつりと言う。
「……形になりましたね」
「そうですね」
「ここは、こういう場所なんですね」
私は少し考えてから答えた。
「“こういう場所”にした、のかもしれないですけどね」
「……」
彼女は黙った。
「どういう意味ですか」
「最初から決まってたわけじゃないかもしれないってことです」
「決まっていない」
「あなたの力と、私の認識と、その組み合わせで」
私は地図を指さした。
「こういう形に見えるようになった」
彼女はその言葉を、しばらく考えていた。
「では」
やがて言う。
「あなたがいなかったら」
「違う形だったかもしれないですね」
「……」
彼女は少しだけ目を伏せた。
それが不安なのか、納得なのか、私には分からなかった。
夜、縁側に座る。
いつものように、隣に彼女がいる。
だが今日は、少しだけ様子が違った。
「……あの」
彼女が先に口を開いた。
「何ですか」
「その線」
少し迷うようにしてから言う。
「わたしのことも、そこに入っていますか」
「入ってますよ」
私はあっさり答えた。
「どこに」
「ここ」
地図の中の、境内の中心を指す。
「一番内側」
「……そうですか」
彼女はそれを見て、少しだけ安心したようだった。
「外側じゃなくて」
「外に出られないんでしょう」
「はい」
「なら内側です」
当たり前のように言うと、彼女は小さくうなずいた。
「分かりました」
しばらく沈黙が続く。
虫の声。
風の音。
遠くで何かが動く気配。
その中で、彼女がぽつりと言った。
「あなたは、線を引くんですね」
「引きますね」
「どうして」
「楽だからです」
私は空を見上げた。
「全部をそのまま受け取るのは、面倒なんで」
「……」
「分けて、区切って、名前をつける」
「はい」
「そうすると、扱いやすくなる」
彼女は少しだけ考えた。
「わたしも、そうしたほうがいいですか」
「何を」
「あなたとの距離」
私は一瞬、言葉に詰まった。
「……どうでしょうね」
「分かりませんか」
「分かりません」
正直に言う。
「それは、線を引くものじゃないかもしれない」
「……」
彼女は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ、距離を詰めた。
昨日よりも。
確実に。
私はそれを、拒まなかった。
拒む理由が、もうよく分からなかったからだ。
地図は壁に貼られている。
境界は線で引かれている。
だが。
その中で起きていることすべてが、同じように区切れるわけではない。
私はそのことを、少しずつ理解し始めていた。