さびしきもの 作:ひまんちゅ
その日の朝、私は壁に貼った地図の前に立っていた。
昨日引いた線は、そのまま残っている。
境内の中心。
外へ通じる石段。
歪む領域。
安全圏と不安定圏。
だが、何かが足りない気がした。
「……名前か」
私は小さく呟いた。
線を引いただけでは、まだ曖昧だ。
そこに意味を与えるには、呼び方が必要になる。
私はペンを取り、地図の中央に小さく書いた。
――社
少し考えて、書き直す。
――拠点
その文字を見て、私は苦笑した。
「安直ですね」
「聞こえてますよ」
振り返ると、彼女がいつの間にか後ろに立っていた。
「何をしているんですか」
「名前をつけてます」
「名前」
「ここに」
地図を指さす。
「ただの場所だと扱いにくいんで」
「……そういうものですか」
「人間はそういうものです」
私はペンを持ち直した。
境界線の外側に、小さく書く。
――外
そのさらに外側に、少し迷ってから書いた。
――日常
書いた瞬間、妙な違和感があった。
ここが非日常で、外が日常。
そういう分け方は、分かりやすい。
だが、それでいいのか。
「……どうかしましたか」
「いや」
私はペンを止めた。
「ここも、日常になってきてる気がして」
「……」
彼女は何も言わなかった。
少しだけ、こちらを見ている。
私はその視線から目を逸らし、別の場所に文字を書いた。
――石段(出入口)
「出入口、ですか」
「そうです」
「帰れる場所」
「帰れる場所」
繰り返してから、私は付け加えた。
「帰らない場所でもありますけど」
「……はい」
彼女の声は、少しだけ柔らかかった。
私はペンを置いた。
「これで、だいたい整理できました」
「整理」
「はい」
壁に貼られた紙を見る。
線と、言葉と、記号。
曖昧だったものが、少しだけ形になっている。
彼女はそれを、じっと見ていた。
「……わたしは、どこに書きますか」
その問いに、私は一瞬だけ考えた。
「ここです」
拠点、と書いた場所を指す。
「中心」
「はい」
「……名前は」
「まだ決めてません」
彼女は少しだけ首をかしげた。
「決めないんですか」
「決めたほうがいいですか」
「……」
少し考えてから、彼女は言った。
「決めないほうがいい気がします」
「どうして」
「決めると、固定されるから」
私は少し驚いた。
「そういうこと、分かるんですね」
「なんとなくです」
彼女は小さく笑った。
「今のままのほうが、変わる余地があります」
私はその言葉を、少しだけ考えた。
名前をつけると、確かに固定される。
それは便利だが、同時に柔軟さを失う。
この場所は、まだ変わっている途中なのかもしれない。
「……じゃあ、保留で」
「はい」
彼女はうなずいた。
午前中、私はもう一度外へ出た。
昨日と同じように、林道を下る。
舗装路に出る。
電波が戻る。
今日は、少しだけ長く歩いた。
近くの集落まで下りる。
小さな商店に入り、水と食料を買う。
店の中は静かだった。
ラジオが流れている。
棚には日用品と、少し古い雑誌。
私はそこで、ふと立ち止まった。
――ここが日常だ。
分かっている。
見慣れた光景。
安心できる場所。
だが同時に、少しだけ違和感があった。
ここにいる自分が、どこか仮のもののように感じられる。
買い物を済ませ、外に出る。
空は普通に青い。
風も普通に吹いている。
何もおかしくない。
それなのに。
「……戻るか」
私は迷わず山のほうへ歩き出した。
石段を上る。
鳥居をくぐる。
境内に入る。
彼女は、やはり同じ場所にいた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
自然に言葉が出る。
私は袋を置いた。
「今日は少し遠くまで行ってきました」
「どこまで」
「集落」
「……そうですか」
彼女は少しだけ目を伏せた。
「遠いですか」
「はい」
その答えは、少しだけ寂しそうだった。
私はそれを見て、言った。
「でも、戻ってきたでしょう」
「はい」
「ならいいじゃないですか」
彼女は少し驚いたように顔を上げた。
「……いいんですか」
「いいですよ」
私は肩をすくめた。
「距離がどうとかじゃない」
「では、何が」
「戻るかどうかです」
彼女はその言葉を、ゆっくりと噛みしめるようにしていた。
午後、私は居間で紙を広げていた。
新しいページ。
さっきの地図とは別のもの。
「また書くんですか」
「はい」
「今度は何を」
「記録」
私はペンを走らせる。
――外へ出た。
――問題なく戻れた。
――時間のズレはなし。
――身体的異常なし。
簡単なメモだ。
だが、それを残すことで、ここが「検証できる場所」になる。
「……それも必要ですか」
「必要です」
「どうして」
「分からなくなるから」
私は短く答えた。
「ここにいると、いろいろ曖昧になる」
「……」
「だから、残す」
彼女はそれを、じっと見ていた。
「わたしのことも、書きますか」
「書きますよ」
「何を」
「観察結果」
少しだけ意地悪く言う。
彼女は少しだけ口を尖らせた。
「それは、どういうふうに書かれますか」
「例えば」
私はペンを動かす。
――対象は人型。
――外見は安定しないが、一定の印象を保つ。
――攻撃性は低い。
――執着傾向あり。
「……ひどいですね」
「事実です」
「最後の一行が特に」
「重要な情報です」
彼女はしばらく黙っていた。
やがて、小さく言う。
「……間違ってはいません」
私は思わず笑った。
「自覚あるんですね」
「あります」
少しだけ、視線を逸らす。
「でも、それは」
「はい」
「嫌ですか」
私は手を止めた。
彼女は少しだけ考えてから、首を振った。
「いいえ」
「どうして」
「あなたが、それを書いても」
「はい」
「ここにいることは、変わらないから」
その言葉は、妙に静かだった。
夕方、縁側に座る。
いつもの時間。
いつもの場所。
だが今日は、少しだけ違っていた。
「……名前」
彼女がぽつりと言った。
「決めなくていいと言いましたけど」
「はい」
「ひとつだけ、あってもいいですか」
「何が」
「呼び方」
私は少し考えた。
「いいですよ」
「本当ですか」
「はい」
彼女は少しだけ迷ってから言った。
「あなたのことを、呼んでもいいですか」
「名前で?」
「はい」
私は少しだけ言葉に詰まった。
名前。
怪異譚において、それは軽いものではない。
名を知られる。
呼ばれる。
結びつきが生まれる。
だが、ここはもう、そういう単純な構図ではない。
「……いいですよ」
私はそう言った。
彼女は少しだけ目を見開いた。
「いいんですか」
「はい」
少しだけ間を置いて、付け加える。
「ただし、変なことに使わないでください」
「変なこと」
「例えば、縛るとか」
「そんなこと、できません」
彼女は少しだけ笑った。
「わたしは、弱いので」
その言い方に、私は少しだけ安心した。
「じゃあ、大丈夫です」
「ありがとうございます」
彼女はゆっくりと、私の名前を呼んだ。
静かに。
確かめるように。
その響きは、思ったよりも自然だった。
違和感はなかった。
むしろ。
――ここで呼ばれるほうが、しっくりくる。
そんな感覚が、ほんの一瞬だけあった。
私はそれを、深く考えないことにした。
まだ、名前を置く場所は決めていない。
この場所が何なのかも、完全には分かっていない。
だが。
ひとつだけ、確かなことがある。
私はもう、この場所を「ただの異界」とは思っていない。
そして彼女も、ただの怪異ではなくなっている。
その変化に、私は少しずつ慣れ始めていた。