さびしきもの 作:ひまんちゅ
名前を呼ばれてから、妙な変化があった。
それは目に見えるものではない。
空気が変わったわけでも、境界が動いたわけでもない。
ただ、距離の感覚が少しだけ変わった。
朝、目を覚まして居間に出る。
彼女がいる。
「おはようございます」と言う。
そのあとに、自然に私の名前が続く。
それだけのことだ。
それだけなのに、何かが一歩だけ近づいた気がする。
私はその感覚を、あえて言葉にしないことにした。
名前はただの呼び方だ。
それ以上の意味を持たせる必要はない。
――そういうことにしておく。
その日の午前、私は再び境界の外へ出た。
石段を下りる。
林道に出る。
舗装路へ。
もう慣れた流れだ。
だが今日は、少し違うことを試した。
――戻らない。
そのまま、町のほうへ歩く。
数十分。
見慣れた風景が増えていく。
人の気配。
車の音。
電柱。
コンビニ。
私はそのまま、店に入った。
冷房の空気。
蛍光灯の白さ。
棚に並ぶ商品。
すべてが普通だ。
何もおかしくない。
私は水と、簡単な食事を手に取り、レジへ向かった。
「いらっしゃいませ」
店員の声。
金額を告げられ、財布から金を出す。
その一連の動作が、妙にぎこちなく感じられた。
――遅れている。
何かが、ほんの少しだけ。
会話のテンポ。
手の動き。
周囲とのズレ。
私は商品を受け取り、店を出た。
外の空気を吸う。
問題はない。
身体は正常。
思考も正常。
だが。
「……違うな」
私は小さく呟いた。
ここは日常だ。
間違いなく。
それなのに、昨日までよりも、少し遠い。
まるで、ガラス一枚隔てた向こう側のように。
私はそのまま、ベンチに座った。
袋からパンを取り出す。
食べる。
味は普通だ。
だが、どこか味気ない。
――戻るか。
自然にそう思った。
それは義務ではない。
強制でもない。
ただの選択だ。
私は立ち上がった。
山へ向かう。
林道を上る。
石段を見つける。
上る。
鳥居をくぐる。
境内に入る。
その瞬間。
空気が、戻った。
重さ。
湿度。
音の密度。
すべてが、少しだけ濃くなる。
私は小さく息を吐いた。
「……やっぱりな」
ここが異常なのではない。
もう、両方が基準になっている。
境内に戻ると、彼女が立っていた。
いつもの場所。
いつもの姿。
「おかえりなさい」
その声に、わずかな安堵が混じっている。
「ただいま」
私は答えた。
自然に。
迷いなく。
「今日は、遅かったですね」
「少し長く外にいました」
「……どうでしたか」
私は少し考えてから答えた。
「普通でした」
「普通」
「はい」
少し間を置く。
「でも、少しだけ遠かった」
「……」
彼女は何も言わなかった。
ただ、じっとこちらを見ている。
「あなたは、どうですか」
私は聞いた。
「ここから外は」
「遠いです」
即答だった。
「近いのに、遠い」
「……」
「行けない場所は、全部そうです」
その言い方は、妙に静かだった。
私はそれ以上、何も言えなかった。
午後、私は地図の前に立っていた。
ペンを取る。
境界線の外側に、新しく書き加える。
――距離(心理)
「……何を書いているんですか」
後ろから声がする。
「新しい項目です」
「項目」
「はい」
私は紙を指した。
「物理的な距離とは別に」
「はい」
「感じる距離がある」
彼女はそれを見て、少しだけ考えた。
「それは、変わりますか」
「変わります」
「どうやって」
「慣れで」
私は短く答えた。
「何度も行き来すれば、縮む」
「……では」
「はい」
「今は」
「まだ遠いですね」
彼女は少しだけ目を伏せた。
「わたしは」
「はい」
「近いですか」
私は少し考えた。
正直に言えば。
「……昨日よりは」
「昨日より」
「はい」
彼女は小さくうなずいた。
それで十分、というように。
夕方、縁側に座る。
いつもの時間。
だが今日は、少しだけ沈黙が長かった。
「……あの」
彼女が口を開いた。
「何ですか」
「戻らないことも、できますか」
私は彼女を見た。
その問いは、予想していたものだった。
「できます」
「……そうですか」
彼女はそれ以上何も言わなかった。
ただ、少しだけ視線を落とした。
私はしばらく黙っていた。
やがて、言う。
「でも、今はしません」
「……どうして」
私は少しだけ考えた。
そして、答えた。
「戻るほうが、楽だからです」
「楽」
「はい」
私は空を見上げた。
「向こうにいると、少し気を使う」
「……」
「ここにいると、あまり使わなくていい」
彼女はその言葉を、ゆっくりと受け止めるようにしていた。
「それは」
「はい」
「いいことですか」
私は少しだけ笑った。
「どうでしょうね」
答えになっていない答え。
だが、それ以上の言葉は出てこなかった。
彼女はそれでも、うなずいた。
「……分かりました」
完全には理解していない。
だが、受け入れた。
そんな顔だった。
風が吹く。
白い布が揺れる。
私はその音を聞きながら、思った。
戻ることはできる。
戻らないこともできる。
そのあいだに、線はない。
だが。
戻るたびに、その線は少しずつ曖昧になる。
どちらが内側で、どちらが外側なのか。
その区別は、ゆっくりと薄れていく。
私はそれを、まだ問題だとは思っていなかった。