残光   作:P-PEN

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不協和音の観測

 

 

 深夜の境界対策課本部。その最上階すら見下ろす送電鉄塔の頂で、風はただの風ではなかった。都市の熱、電線を流れる力、遠くの海から運ばれてくる湿った空気――それらすべてが混ざり合い、どこか濁った呼吸のように夜を満たしている。

 

 その中に、一つだけ異質な静寂があった。九鬼儚は、世界から切り離された影のように、そこに立っている。

 

 風は彼女の髪を揺らすが、その動きには意味がない。温度も、湿度も、彼女にとっては単なる数値の変動に過ぎない。彼女の感覚は既に、人間のそれから逸脱している。

 

 視界が、ゆっくりと収束する。焦点は一点――地上を歩く青年。

 

 神代柾。

 

 周囲の人間には、ただの「優秀な若手」にしか見えない存在。だが、儚の瞳には、まったく別のものが映っていた。

 

 ――背中。

 

 正確には、背骨のあたり。そこに、何かが「付着している」。

 

 それは繭のようでもあり、内臓のようでもあり、あるいは思考そのものが腐敗して形を得たようなものだった。半透明の膜の内側で、細い糸が脈動している。神経のように伸び、絡みつき、脳へと、心臓へと、静かに侵食している。

 

 鼓動に合わせて、ぬるりと揺れる。まるで――生きている。

 

「……ターゲット確認」

 

 声は小さく、しかし確信に満ちていた。そこに疑いはない。誤認の可能性も、再確認の必要もない。ただ、定義が完了しただけだ。

 

 排除対象。それだけが確定する。

 

 儚は端末を取り出した。古びた機体。幾度も更新されるはずだった規格から取り残され、しかし彼女だけが使い続けている過去の道具。それに指を滑らせる。

 

 『報告。監視対象・神代柾の背後に寄生性の異常を確認。組織の清浄性を著しく損なう恐れあり。これより独断にて排除を開始する。報告者、九鬼儚』

 

 送信。

 

 一拍。

 

 そして、表示される赤い文字。

 

 ――送信失敗。

 

 それはもはや結果ではない。儀式だった。

 

 届かない報告。存在しない受信者。それでも彼女は報告を書く。書かなければならないから書くのではない。書くという行為そのものが、彼女を「九鬼家の祓魔師」でいさせる唯一の手段だからだ。彼女は端末を仕舞う。

 

 次の瞬間、躊躇はなかった。足が、空を踏み外す。

 

 落下――ではない。

 

 空間そのものが、わずかにずれる。彼女の身体は、重力ではなく、境界の隙間に吸い込まれるようにして消えた。夜は、何もなかったかのように続いている。

 

 ただ一つだけ。

 

 鉄塔の上に残ったのは、わずかな「冷たさ」だった。

 

 

 

 

 

 同じ頃、本部ビルの三階廊下。

 褐色の肌に映える真っ白な髪を揺らし、クゥラ・アーミャは「凛としたお姉さん」の仮面を被って歩いていた。

 

 蛍光灯の白い光は均一で、影をほとんど作らない。だからこそ、ここは安全な場所であるはずだった。だが、その前提が、最近少しずつ崩れている。

 

 (……また、減ってる)

 

 クゥラ・アーミャは、掲示板の前を通り過ぎるふりをしながら、視線だけを横に滑らせた。そこには、各班の任務結果が簡潔にまとめられている。数字だけの、冷たい一覧。

 

 第六班――達成率、七三%。

 

 その数字自体は、決して悪くはない。むしろ平均よりは上だ。だが、問題はそこではない。すべての班の数字が、揃って少しずつ落ちている。九〇を超えていた班が八〇台に。安定していた班が、突然六〇台へ。理由欄には、曖昧な言葉ばかり並んでいる。

 

 ――対象の取り逃し

 ――状況の不確定要素

 ――判断遅延

 

 (……おかしい)

 

 喉の奥で、小さく思う。明確な失敗ではない。事故でもない。だが、何かが噛み合っていない。ほんのわずかなズレ。けれど、それが積み重なっている。

 

 まるで――

 

 見えない誰かが、ほんの少しずつ、歯車に指をかけているみたいに。

 

 ため息をひとつ付くと、気持ちを入れ替える。窓から差し込む月光が、磨き上げられたリノリウムの床を白々と照らしていた。窓ガラスに映る自分を見て軽く身なりを整えて歩き出す。

 

 モデルのような長身を揺らし、軍靴の音を規則正しく響かせて歩いていた。褐色の肌に映える真っ白な髪、そして一切の感情を削ぎ落としたような氷の表情。すれ違う下級職員たちが、憧れと畏怖の混じった視線を向けてくるのを肌で感じ、彼女は内心で「よし、今あたし最高にクールだわ」とガッツポーズを作っていた。

 

 その時、前方から一人の青年が歩いてくるのが見えた。

 

 神代 柾(かみしろ まさき)。彼はまるで、その場所だけ陽光が差し込んでいるかのような、眩いばかりの清涼感を纏っていた。整えられた黒髪が歩くたびに軽やかに跳ね、誰からも好かれる柔和な笑みが、その端正な顔立ちを彩っている。

 

(出たわね、境対のプリンス……。相変わらず、爽やかすぎて直視できないわ)

 

 クゥラは、イヤーマフの下に隠した長い耳が緊張でぴくりと動くのを必死に抑えた。彼のような「光」のオーラを放つ人間は、小心者の自分にとって最も苦手な部類だ。だが、ここで目を逸らしては「頼れるお姉さん」の名が廃る。

 

 「お疲れ様です、クゥラ先輩」

 

 向こうから歩いてきた神代柾が、人当たりの良い笑みを浮かべて声をかけてくる。いつも通りの、清潔感のある爽やかな声。しかし、彼がクゥラの横を通り過ぎようとしたその瞬間。

 

 ――ヒュッ、と。

 

 クゥラの背筋を、氷の刃で撫でられたような戦慄が走り抜けた。異界という特殊な場所で生まれ育った彼女の生存本能が、喉の奥を締め上げる。異界という過酷な環境で育った彼女の嗅覚が、神代の放つ甘い石鹸の香りの奥に、あり得ないほどの死の悪臭を嗅ぎ取ったのだ。

 

 (なに……!?今の、なに!?)

 

 心臓が早鐘を打ち、叫び出したい衝動を、彼女は必死の思いで抑え込んだ。真正面から見る彼は、非の打ち所がないほど美しい。しかし、彼が僅かに身を乗り出した瞬間、その背後の空間だけが、まるで音と色彩を失った奈落のように見えた。

 

 神代のうなじから背中にかけて、服の上からは見えないはずの何かが、ボコボコと醜悪に脈動している幻覚が脳裏をよぎる。神経細胞を剥き出しにしたような半透明の糸が、彼の清らかな笑顔を裏側から吊り上げているような、吐き気を催すほどの違和感。

 

「クゥラ先輩? どうかしましたか?」

 

 神代が首を傾げる。その動作一つとっても、計算され尽くしたかのように爽やかだ。だが、クゥラにはそれが、精巧に作られた無機質な記号が動いているようにしか思えなかった。足の震えを止めるために、彼女は奥歯を強く噛み締めた。

 

 「……ええ。お疲れ様、神代くん」

 

 感情を押し殺した、低く落ち着いた声。それだけをどうにか絞り出し、彼女は彼に背を向けて歩き続けた。神代の足音が遠ざかるのを待って、彼女は近くの柱に手をつき、肺にある空気をすべて吐き出すように深く呼吸した。

 

 額から冷や汗が滴り落ちる。心臓の音がうるさすぎて、自分の呼吸さえ聞こえない。

 

 「おいおいお嬢、真っ青だぜ? せっかくの美人台無しだ」

 

 クゥラの腰元に吊るされた、黒い甲殻のような祭具――『堕魅闇(ダミアン)』が、いつになく緊張を含んだ――しかし軽い調子で囁く。

 

 「……分かってるわよ。……ねぇ、今の、見た? 神代くんの背中……」

 

 「今のは笑えねぇぜ。あいつの背中、地獄の入り口みたいになってやがったぞ」

 

 「……分かってるわよ。あたしだって、今死ぬかと思ったんだから。……ねぇ、どう思う?」

 

 「あんな不気味なモンを背負って平気な顔してるたぁ、よっぽど中身を食われてるか、あるいは……。どうする、お嬢。見なかったことにするか?」

 

 クゥラは、イヤーマフの下に隠した長い耳をぴくりと動かした。本当なら今すぐ自室に帰り、布団を被って震えていたい。しかし、彼女の中の「見栄」がそれを許さなかった。ここで逃げたら、あたしは一生、自分を「クール」だなんて思えなくなる。

 

 「……あたし、ちょっと忘れ物。……確かめに、行くわよ」

 

 震える指先で、自分の腕章をきつく握りしめる。あの爽やかな笑顔の裏で蠢いていた「何か」を放置すれば、この組織そのものが内側から喰い破られてしまう。そんな確信があった。彼女は、自分が「クールな先輩」であるという唯一の矜持を盾にして、地獄の入り口へと繋がる廊下へ足を踏み出した。

 

 

 

 

 

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