本部の深部。重要資料保管庫の分厚い鉄扉が、重低音を響かせて閉ざされいた。そこは、数十年分の報告書や古い羊皮紙、電子記録媒体が壁際まで整然と並ぶ、静謐な知の墓場だ。神代柾は、まるで自分の部屋に戻ってきたかのような、あまりに自然な足取りで奥へと歩んでいく。
その後ろ姿を、数メートルの距離を保ちながらクゥラは追っていた。通路の曲がり角に身を潜めるたびに、彼女の長い耳が周囲の音を拾い上げる。だが、聞こえてくるのは神代の規則正しい軍靴の音だけだった。本来なら聞こえるはずの、空調の唸りも、遠くの職員たちの話し声も、外を走る車の音さえも、いつの間にか消え失せている。
(……なに、この静けさ。耳が痛くなるくらい、なにも聞こえない)
クゥラは背後を振り返った。そこにあるはずの重厚な鉄扉が、煤けた霧に包まれたように輪郭を失っている。手を伸ばせば、指先は冷たい金属を通り抜け、粘り気のある淀んだ空気を掴むだけだった。
「笑えねぇ冗談だぜ、こいつぁ」
腰元の『堕魅闇』が、かつてないほど低く、地を這うような声で警告する。
「この空間、まるごと現世(いま)から切り取られてやがる。扉の向こうはもう本部じゃねぇ。どこにも繋がっちゃいねぇ、袋小路の迷宮だ」
クゥラの指先が、冷え切った腕を強く掴む。その時、前方を歩いていた神代が、何の前触れもなく足を止めた。彼はゆっくりと、まるで錆びついた機械が油を得たかのような滑らかさで、首を真後ろに回転させる。
「……見つかっちゃいましたね、クゥラ先輩」
神代の顔は、相変わらず非の打ち所がないほどに整っていた。月光を反射する瞳は明るく、唇は柔らかな曲線を描いている。だが、その瞳には感情の光がなく、ただ目の前のクゥラという存在を「処理すべき情報」として記録しているだけのように見えた。
「神代、くん……。あんた、何をしているの。その背中……何をつけているの」
クゥラは声を震わせながらも、凛とした先輩としての仮面を必死に繋ぎ止める。神代は答えなかった。代わりに、彼のうなじから噴き出した数百もの透明な糸が、周囲の書棚を蜘蛛の巣のように覆い尽くしていく。
バサバサと、不吉な音を立てて書棚から古い紙束が舞い上がった。それは意志を持った紙の吹雪となり、神代とクゥラの間を分断する。舞い踊る紙の一枚一枚に、神代の爽やかな笑顔が万華鏡のように映し出され、異なる声色で一斉に囁き始めた。
「怖いですか、先輩」
「なぜ逃げないのですか、先輩」
「あなたのような臆病な異分子が、なぜここにいるのですか」
「な、なにをいって……!?」
クゥラは咄嗟に腕を突き出した。瞬時に展開された『堕魅闇』の防御結界が、押し寄せる紙の奔流を弾き飛ばす。火花が散り、視界がシアン色の閃光に染まるが、紙の吹雪は止まない。それどころか、剥がれ落ちた壁の塗装や空気中の埃さえもが、界異の意志によって神代の笑い声を増幅させるスピーカーへと変質していく。
「神代くん、やめて……っ!」
クゥラの悲痛な叫びを嘲笑うかのように、情報の渦の中から、数人の人影がふらふらと這い出してきた。
それは化け物ではなかった。昼間、本部の購買部でクゥラに笑顔でパンを売ってくれた年配の女性。受付でいつも丁寧に郵便物を受け取ってくれる若い事務員の男性。見知った顔ぶれが、まるで糸の切れた操り人形のように手足をガクガクと震わせ、神代の背後から現れる。
彼らのうなじには、神代の背中から伸びる透明な糸が深く食い込んでいた。白目を剥き、よだれを垂らしながら、事務職員たちは手に持った裁断機や重いファイルケースを凶器に変えて、クゥラへと襲いかかる。
「第六班隊員ともあろう人にとっては、驚くような技術じゃないでしょう?クゥラ先輩。思考を奪い、脊髄を直接叩けば、ただの人間も立派な消耗品になる。既知の技術だ」
神代の涼やかな声が、残酷な事実を淡々と告げる。
「さあ、見せてください。あなたがどうやって彼らを『処理』するのか。あなたのデータ、もっと深く刻ませてほしい」
「ひ、ひぃっ……! 来ないで、みんな! あたし、戦いたくないんだからぁっ!」
クゥラは半べそをかきながらも、その動きは驚異的な速度に達していた。彼女は異界人としての特異な脚力を爆発させ、リノリウムの床を滑走する。足元に装着した『堕魅闇』の断片が、物理法則を無視した摩擦係数を生み出し、彼女の巨体を羽毛のように軽く加速させた。
襲いかかる事務員の振り下ろした裁断機が、クゥラの残像を切り裂く。次の瞬間、クゥラは相手の懐に潜り込んでいた。
(殺しちゃダメ……傷つけてもダメ! 最小限の衝撃で、糸だけを……!)
彼女は攻撃を受け流すと同時に、空中に浮遊する『堕魅闇』の断片を、精密な外科手術のように操る。鋼鉄よりも硬い結界の破片を、打撃としてではなく、鋭利な「楔」として用いた。
一閃。
クゥラの指先が、空中で複雑な軌道を描く。彼女が通り過ぎた後、襲いかかっていた事務員たちは、まるで魔法が解けたようにその場に崩れ落ちた。彼らの項に絡みついていた透明な糸だけが、クゥラの放った結界の圧力によって根元から弾き飛ばされている。
皮膚を傷つけず、神経を繋ぐ糸だけを「認識の差」で叩き切る。それは、小心者ゆえに相手を傷つけることを極度に恐れる彼女が、数多の修羅場で身につけてしまった、あまりに皮肉で高潔な技術だった。
「へへっ、お嬢! 冴えてるじゃねぇか! 糸だけを正確に弾きやがった!」
堕魅闇が愉快そうに叫ぶが、クゥラの顔は脂汗で濡れている。
「……はぁ、はぁっ……。もう、やめてよ……神代くん。こんなの、あたしの知ってるあんたじゃない……!」
崩れ落ちた同僚たちを守るように立ちはだかるクゥラ。その背筋は恐怖で凍りついているが、彼女の手にする盾は、一ミリの揺らぎもなく彼女自身の正義を象徴するように輝いていた。
それを見つめる神代の瞳が、いっそう愉悦を感じるかのように細められる。
「……なるほど。自己犠牲と、過剰なまでの精密制御。それがあなたの『限界』ですか。期待以上のデータです。おかげで、ようやく『繭』の食欲が満たされそうだ」
神代の声が、不自然なほど澄み渡った。その直後、彼の背中が――正確には、彼の背負った空間そのものが、内側から引き裂かれるような音を立てた。
ドクン、と。資料室全体が、一つの巨大な心臓になったかのように脈動した。
神代の項から伸びる透明な糸が、猛烈な勢いで膨れ上がる。それはもはや糸ではなく、粘液に濡れた神経束の塊だった。脈打つたびに、周囲の書棚に並ぶ数万枚の紙束が、まるで吸い寄せられるように神代の背後へと集まっていく。
「な、なによこれ……空気が、吸い取られてる……!?」
クゥラは、自分の肺から空気が強制的に引きずり出されるような感覚に、喉をかきむしった。単なる風ではない。この場所に満ちていた「意味」そのものが、神代の背負う闇へと収束していくのだ。
バサバサと狂ったように舞い踊る紙束が、神代の周囲で巨大な渦を作る。その一枚一枚に、これまでこの組織が記録してきた、おぞましい事件の残像や、犠牲者たちの断末魔の表情が浮かび上がる。それらは神代の爽やかな笑顔と幾重にも重なり合い、万華鏡のように歪んだ悪夢を形成していく。
そして、それは咆哮を上げた。
物理的な音ではない。脳を直接、針で突き刺すような高周波の思考の波。
『――ミツケタ。ミツケタ。ミツケタ』
何万もの人間の声を継ぎ接ぎしたような、おぞましい合唱。クゥラの脳内に、彼女自身が心の奥底に封印していた異界の暗闇で一人震えていた子供の頃の記憶が、暴力的な鮮明さで再生される。
「やめて……見ないでっ! あたしの中に、勝手に入ってこないでぇーっ!!」
クゥラは耳を塞ぎ、その場にうずくまった。『堕魅闇』の防御結界が、外側からの物理的な圧力ではなく、内側からの精神の浸食によって、ガラスが砕けるような不吉な音を立てる。
神代の影が、ヘドロのようにドロリと広がり、クゥラの足元を侵食していく。影の中に浮かび上がる無数の瞳が、彼女の恐怖を、見栄を、小心な本心を、一滴残らず啜り取ろうと凝視していた。