視界が、急速に色を失っていく。絶望が、冷たい泥水のようにクゥラの喉元までせり上がり、意識が濁りかけたその瞬間だった。
――カラン。
狂ったように荒れ狂う情報の嵐を切り裂いて、異様に乾いた、硬質な音が響いた。それは、夜の静寂そのものを凍らせて形にしたような、極低温の響き。
クゥラの脳内をかき乱し、古傷を抉り続けていたおぞましい雑音が、その音一つで、まるで魔法が解けたかのようにピタリと鳴り止んだ。
恐る恐る顔を上げたクゥラの瞳に映ったのは、舞い散る無数の紙束を無造作に踏みつけ、荒れ狂う闇の奔流の中で揺らがない、一人の少女の姿だった。
(え……? 誰……?)
クゥラは、自分の目を疑った。現れたのは、重厚な鎧を纏った騎士でも、威厳に満ちた熟練の術師でもない。境対正式装備ではないが、幾らかカタログ上では見たことのある装備を付けた小柄な少女。ドイツ系列の技術が織り込まれている民間祓魔師用
だが、その少女からは、生きた人間なら誰もが放つはずの気配が、完全に欠落していた。彼女がそこに立っていることに、クゥラは直前まで気づくことができなかった。
神代の背負う怪物が、何万もの邪悪な瞳で彼女を凝視し、空間全体が彼女を排除しようと軋んでいるにもかかわらず、彼女はまるで風景の染みであるかのように、誰からも認識されていないかのように、あまりにも自然にそこに佇んでいたのだ。
「……Ⅳ号級
少女の声は、平坦で、感情の起伏が一切なかった。彼女は、狂ったようにのたうち回る神代の影を一顧だにせず、ただ懐から一振りの剣を抜き放った。その異形の大剣は、握り手の近くに不思議な翠色の石を宿し、鋭いシアン色の光を放っている。
少女が、静かに一歩を踏み出す。その瞬間、彼女の姿が、陽炎のようにゆらりと揺らいだ。
(消えた……!?)
クゥラの目の前から、少女の姿が忽然と消え失せた。瞬きをする間さえない。次の瞬間、少女はすでに数メートル先の、神代の真横へと移動していた。
それは高速で動いたというよりも、世界の時間が一瞬だけ止まった隙間に、彼女だけが最初からそこにいたかのような、異質の移動だった。
「……ッ、何者だぁァ!!」
神代の口から、地響きのような怪物の絶叫が漏れる。怪物は、神代の肉体を操り人形のように跳ねさせ、無数の、粘つくような透明な触手を少女へと一斉に放った。それは、触れるだけで精神を汚染し、心を内側から腐らせる情報の毒針。
「通りすがりのもの。でも、貴方は殺す」
だが、少女は避けない。彼女は剣を振るうことさえせず、ただ触手の雨の間を、散歩でもするかのように淡々と歩いた。
彼女の体は、触手を透過しているかのように見える。あるいは、触手のほうが彼女を避けて通っているのか。一切の干渉を受けないその歩み。それは、彼女自身がこの場所の「存在」として認識されていないからこそ可能な、空恐ろしいほどの回避術。
「……貫け」
少女の鴉神剣から放たれた、シアン色の光が槍の如く虚空を疾駆。神代のうなじから伸びる、膨れ上がった神経の塊に突き刺さる寸前。強烈な穢装と超反応で展開されたピンポイントバリアを展開。減衰しながらもそれらを貫通し、怪物――囁きの繭に命中。
――チリ、と。
怪物の咆哮が、一瞬だけ、砂嵐のようなノイズとなって途切れた。
「な……この距離で貫通するだと……!?」
神代の瞳に、初めて狼狽の光が宿る。怪物は、目の前の少女を優先して排除すべき敵と定義し、資料室中の紙束を、鋭利な刃の渦へと変えて彼女へと集中させた。
「お、おいお嬢!ぼーっとしてんじゃねぇ!あの赤い姉ちゃん、おめぇの『盾』を壁にする気だぞ!」
堕魅闇の叫びとともに、少女がクゥラの真横へと滑り込んできた。
「うひゃあっ!?あ、その……こんにちは」
「……」
少女は、クゥラの挨拶を黙殺すると肩越しに剣を水平に構える。その瞳に宿る虚無は、怪物が振りまく狂気よりもはるかに深く、そしてどこまでも暗かった――事ここに至り、第六班隊員たるクゥラは把握する。この少女がヒトではない事に。此処まで深い死の薫りをヒトは漂わせることはできない。
神代の背後のものが、さらに広がる。紙片は硬く変わり、壁も床も天井も、すべてが“目”のようになる。あらゆる方向から見られている。クゥラの呼吸が乱れる。周囲のあらゆる面に、自分の顔が映った。どれも少しずつ違う。違う速さで瞬きをする。そのすべてが、自分を見ている。
「来るぞッ!」
堕魅闇の叫びと同時に、それら全てが動いた
「右――いや、左……!?」
境界対策課の第六班の盾を任されるクゥラ判断がブレた。彼女の反応速度や思考速度が足りていないわけではなく――背中に冷たい手が触れた。
「……動かないで」
静かな声。
「そのまま。吸って、止めて、吐いて」
「は、はぁ!?」
混乱しながらも、数多の戦場を駆けた体が従う。息を吸い、止めて、吐く。ほんの一瞬。何も選ばなかった。
――その瞬間、攻撃は外れた。
髪をかすめて光が通り過ぎる。背後で、ようやく衝撃音が鳴る。クゥラは理解する。自分は避けてはいない。当たらなかったのだ。
「な、なんで……!?」
「……動かなかったから」
儚は短く言う。
「動きを読んでくる。なら、動かなければいい」
簡単な理屈。けれど、それをこの状況下で行うのは難しい。恐怖の中で止まることはできない。逃げるか、抗うか。人はほぼ必ずどちらかを選ぶ。ましてや相手は強烈な精神干渉型の界異なのだ。
「簡易ロジックを読まれましたか……面白い」
自動反撃のからくりをひとつ解かれた神代の口元が歪む。
「だが、それだけで変わると思うか」
言い終わる前に、儚は距離を詰めていた。
「……なるほど。認識の隙間を歩く幽霊ですか。面白いデータだ」
動揺から立ち直った神代の口角が、不自然なほど吊り上がった。彼を中心に渦巻いていた紙束が、突如としてその動きを止め、凍りついたように静止する。次の瞬間、それらの一枚一枚が鏡のような鋭い光沢を帯び、資料室の壁、床、天井のすべてが、何万もの瞳を宿した銀色の壁面へと変貌した。
「見えていますよ。あなたがそこに『いない』という事実さえ、確定した情報として書き換えられる」
儚はそ戦場のわずかな影に潜り、機械的な精密さで神代へと肉薄する。既に常世の門を潜った彼女の歩みには「生者としての意志」がない。だからこそ、怪物は儚という亡者の心を読み取ることができない。神代が、指揮者のように優雅に指を弾いた。刹那、儚の足元から、彼女自身の動きを寸分違わずなぞる影が、鋭い鎌となって突き上げられた。
(……心は読めていない。でも、空間の『欠落』を計算して位置を特定している)
儚は、飛来する透明な触手を紙一重でかわしながら鴉神剣を突き出した。即座に刀身から穢れの奔流が放たれ事実上の間合いを伸長。シアン色の閃光が神代の喉元を狙う。しかし、刃が届く直前、銀色の鏡面と化した壁が歪み、そこから「儚自身の刺突」が、寸分違わぬ速度と威力で逆方向に放たれた。
キィィィィィン!
甲高い金属音が響き、儚の剣が自分自身の幻影とぶつかり合う。囁きの繭は、儚の心が読めないという弱点を、圧倒的な演算能力で補っていた。資料室の隅々にまで張り巡らされた超知覚が、空気の揺らぎや温度の変化から儚の居場所を特定し、物理的な反射によって彼女の攻撃を無効化し続けているのだ。
「無駄ですよ。この空間に存在する限り、すべての事象は私の掌の上だ」
神代の口から漏れるのは、何万もの知識を食い荒らした知性体の声。儚の眉が、初めて僅かに動く。彼女は紙一重で身を躱すが、銀色の鏡面すべてが彼女の一挙手一投足を観測し、その回避機動の余裕を奪っていく。逃げ場を潰す、視線の檻。
「お嬢!こっちにもくるぞ、こいつは単純に心を読んでんじゃねぇ!この空間全体を掌握してやがる!」
堕魅闇が叫ぶと同時に、クゥラの前方に目に見えない衝撃が走った。
それは、最悪の反射だった。クゥラが「守らなきゃ」と強く念じた瞬間に展開される盾の光——その「守りの意思」を、怪物は瞬時に吸い取り、正反対の「破壊の衝動」へと変換して突き返してきたのだ。
「あぁっ!? あたしの盾が、あたしを撃ってきたぁ!?」
自分の放った光の破片が、弾丸となってクゥラの肩を掠める。
「痛い痛い痛い! やだ死ぬ! もうやだぁーっ!」
悲鳴を上げながらも、クゥラの体は戦士としての規律を捨てていなかった。彼女は半べそをかきながら、盾の破片をスキー板のように足元に固定し、銀色の迷宮を高速で滑走する。神代の放つ情報の矢を、異界で鍛えられたしなやかな跳躍で回避し、儚の死角をカバーする様に滑り込んだ。
「乱入してきたんだから、打開策くらいあるんでしょ!?早く何とかして~!」
クゥラは震える手で、懐に残ったお札を一気に解き放ち、儚の周囲に幾重もの多層構造の光の檻を張り巡らせる。
「慌てないで。解析が終わり次第反撃に移るわ」
「終わるまで耐えろって事なら……」
その時、儚が音もなくクゥラの背後に滑り込んだ。
「……一〇度左。そのまま、盾を斜めに固定」
「えっ!? 何、いきなり指示……っ、ちょっ、危ないわね!」
儚は、パニック寸前のクゥラの肩に手を置き、その身体を巧みに操りながら、神代から放たれる情報侵蝕ともいうべき攻撃を、をクゥラの強固な結界で受け流させた。
(……反射の速度、零点三秒。対象の感情の起伏に比例して、威力が指数関数的に増大。……ですが、この『盾』そのものを書き換えるには至っていない)
儚はクゥラの陰に身を隠し、彼女を遮蔽物として利用しながら、銀色の壁に映る神代の瞳の動きを冷徹に分析する。クゥラが攻撃を防ぐたびに飛び散る光の粒子。その崩壊の仕方を、儚は見逃さない。
「あんたっ! さっきから、あたしを盾にして何してるのよぉーっ!」
「……観測中です。そのまま、最大出力で耐えなさい」
「鬼! 悪魔! 冷たいわね、この子ーっ!!」
儚は罵声を背にクゥラ影から飛び出し、機械的な精密さで神代へと肉薄する。即座に神代は反応。
(……やはり私の心は読めていない。だが、空間の揺らぎを精密にを再演算して位置を特定している)
儚は、飛来する透明な触手を紙一重でかわしながら、鴉神剣を突き出した。シアン色の閃光が神代の喉元を狙う。しかし、刃が届く直前、銀色の鏡面と化した壁が歪み、そこから「儚自身の刺突」が、寸分違わぬ速度と威力で逆方向に放たれた。
キィィィィィン!
甲高い金属音が響き、儚の剣が自分自身の幻影とぶつかり合う。怪物は、儚の心が読めないという弱点を、上級界異が持つ圧倒的な演算能力で補っていた。資料室の隅々にまで張り巡らされた超知覚が、空気の揺らぎや温度の変化から儚の居場所を特定し、物理的な反射によって彼女の攻撃を無効化し続けているのだ。即座に退避した儚は、クゥラの背後で機械的な冷徹さをもって思考を巡らせていた。この「囁きの繭」は、かつて一族の記録に記された個体とは一線を画している。
「無駄ですよ。この空間に存在する限り、すべての事象は私の掌の上だ」
神代の口から漏れるのは、何万もの知識を食い荒らした知性体の声。怪物は、クゥラの防御を燃料にして火力を高めつつ、儚の不可視の接近を空間そのものを掌握することで把握、完璧な膠着状態を作り出していた。
(……これ以上、クゥラの精神は持ちません。そして、私の機動範囲の演算を繭は終えつつある)
儚の視線の先で、クゥラは追撃してきた神代の触腕を弾きながら、見えざる触手を躱して見せた。しかしながら、繭の恐ろしさは肉体的ダメージより精神汚染の強烈さだと分かっている。対する神代の背後の繭は、対策課の職員たちが積み上げてきた戦術データを喰らい、さらに肥大化を続けていた。二対一という微量の数的有利の概念が通用する相手ではない。
「ひぃぃぃ! お札が、お札がもう半分しかないぃ! 堕魅闇、なんとかしてよ!」
「無茶言うな!俺様の力を食って、あいつどんどんデカくなってやがるぞ!」
神代の背後の塊は、今や資料室の天井を突き破らんばかりの巨木へと成長し、脈打つ神経のような触手が、壁に並ぶ古い記録から過去の惨劇の記録を吸い出し続けていた。神代の顔からは、すでに生きた人間としての色彩が失われている。肌は透き通り、その下を流れるのは血液ではなく、不気味に明滅する情報の澱み。
「無駄ですよ、クゥラ先輩。あなたがどれほど強固な壁を作ろうと、それは私の繭を育てる養分に過ぎない」
神代の声が、部屋中の鏡面から一斉に響き、クゥラの精神を削り取る。
「そして、そこの幽霊さん。無駄な足掻きも、そろそろ限界でしょう……さあ、私にすべてを預けなさい」
塊から放たれた数千の触手が、クゥラの光を全方位から包み込み、ギリギリと締め上げる。光の檻が軋み、クゥラの鼻から一筋の血が流れた。
「……待たせました。敵界異の呪詛、解析完了」
儚が静かに呟き瞳が僅かに揺れる、彼女は自分が隠し持っていた最大の異質を解放することを決意した。常世の門その“向こう側”から帰ってきた時に手にした力を。
「クゥラ、三秒だけ、その盾を最大出力で開いて――後ろは見なくていい」
「えっ? あ、あたしの名前……? っていうか、何する気……!?」
返答は完結だった。
「拉致をあけます」