「――信じるっ」
クゥラは即決。単独での祓滅は不可能。ならば、この得体の知れない少女に賭けるしかない。彼女の前方に、残るすべての符が円環を描いて浮遊し、一斉に発火する。忌火が『堕魅闇』の甲殻を包み込み、資料室の天井に届くほどの巨大な、多層構造の光の壁を作り出した。
思考の再帰反射《サイキック・リフレクション》
繭は、クゥラの強烈な生存本能を読み取り、それをそのまま、彼女を押しつぶす波へと変換して突き返してきた。光の壁が軋み、クゥラの全身の骨が悲鳴を上げる。鼻だけでなく、耳からも血が流れ出した。しかし、反射能力を使ったという事はその分の演算力を割いて使用したという事。つまり――隙が出来たのだ。
「術式解放」
クゥラの背後で、儚の声が響いた。その声は、もはや一人の少女のものではない。幾百もの、戦場で散っていった祓魔師たちの、掠れた、しかし鋼のように強靭な意志が重なり合った、地響きのような合唱。
――ドクン。
儚の手にあった鴉神剣の機関部、翠玉のエメラルドタブレットが、心音のようなリズムで明滅を始めた。それは記録の胎動。かつて戦場を蹂躙した鉄と硝煙の記憶《オリジン》が、瘴気の蒼魔灯となって虚空に溢れ出す。
「――装填。
静かな呟きとともに、世界が反転した。
クゥラの背後の空間が、ガラスが割れるような音を立てて剥落する。そこから覗くのは、底知れぬ冥府の深淵。地獄の門から溢れ出したのは、無数の黒い羽根と、ミワシ隊の亡霊――かつての部下たちだった。
クゥラの視界の端で、儚の身を包んでいた赤い服が、境界線を失っていくのが見えた。布地は漆黒のノイズへと変わり、微細な羽の粒子となって宙に舞い上がる。露わになった白い肌に、冥府から吹き寄せる冷気が、新たな姿を焼き付けていく。
白い腕章に刻印された、赤き日輪の紋章。
「――全回路、接続完了」
漆黒の外套が、存在しないはずの風に大きく翻った。現れたのは、
「……ミワシ隊十八番隊“夜鴉”攻撃開始」
漆黒の指揮官が指揮棒のように鴉神剣を振り下ろした。彼女の背後から、顔のない、半透明の兵士たちの影が、音もなく溢れ出す。彼らは言葉を発さず、ただ指揮官の意志に合わせて、透明な銃剣や盾を構え、神代の放つ情報の矢を、その身を盾として受け流していく。
「な……何だ、こいつらは……!?思考が……読み取れない……!? こいつらには、心がないのか……!?」
神代の瞳に、初めて恐怖の色が宿る。「囁きの繭」は、目の前に現れた第十八隊の亡霊たちの情報をスキャンすることができなかった。反射すべき思考が存在しない。彼らには、動機も、欲望も、生存本能もない。彼らは世界に残った残響に過ぎない。
――彼らが世界に人生を記していたのは、既に遥か過去の事だから。
「土になり損ねた亡者は何度でも甦る――かかれ」
儚の冷徹な号令が下る。銀色の鏡面となっていた空間が、亡霊たちの軍靴が踏みしめるたびに、ひび割れ、砕けていく。怪物は必死に空間全域の「空白」を埋めようとするが、現れた亡霊の数はそれらを上回る。一カ所の空白を演算している間に、別の場所から無数の銃剣が突き立てられる。
「あ、が……ああああッ! 読み切れない……! 存在しないはずの個体が、多すぎる……ッ!!」
繭の演算能力が限界を迎え、神代の肉体が激しく痙攣する。鏡の壁は次々と剥がれ落ち、資料室は本来の暗がりを取り戻していく。怪物が必死に積み上げた観測による鉄壁は、観測不可能な死者たちの物量作戦の前に、無惨にも瓦解していった。
神代の肉体を借りた怪物の絶叫が、ひび割れた資料室に響き渡る。無数の亡霊たちが放つ「過去の足音」が、怪物の精緻な演算回路を物理的な質量で蹂躙していた。鏡の壁は粉々に砕け散り、剥き出しになったコンクリートの壁が、冷たい現実を突きつける。
漆黒の外套を翻し、儚は瓦礫の山を静かに踏み越えた。彼女の周囲では、顔のない亡霊たちが、神代の背後からのたうち回る「繭」の触手を、一糸乱れぬ動きで地面へと釘付けにしていた。
「……演算の飽和を確認。対象を、物理的実体に固定する事に成功」
儚の瞳は、もはや神代を見ていない。その背後で、苦悶に歪み、どろどろとした泥のように溢れ出す怪物の核だけを見据えている。
「まって、黒い子……ッ!神代くんを、殺さないで……!」
背後でクゥラが、震える声で叫んだ。彼女はボロボロになった身体を引きずりながら、それでも
「……“祓魔師”を殺す鴉はいない」
儚は鴉神剣を逆手に持ち替え、柄に埋め込まれた翠色の石を、自身の胸元に引き寄せた。石が放つシアン色の光が、彼女の腕を通り、剣の切っ先へと凝縮されていく。
「切除開始」
儚が踏み込む。怪物は、神代の意識の奥底に残った「恐怖」を餌に、最期の抵抗として、彼の肉体そのものを盾にしようとした。だが、亡霊たちの冷たい手が神代の四肢を優しく、しかし絶対的な力で固定。儚の剣が、神代の項へと突き立てられた――肉を裂く音はしない。ただ、冷たい水に熱い鉄を沈めたような、激しい蒸発音。
「――剥離」
シアン色の光が、神代の神経に食い込んでいた繭の根を、一本残らず焼き切っていく。神代の目が見開かれ、その瞳の奥から、何万もの言葉を継ぎ接ぎしたようなおぞましい影が、光に追い出されるように吐き出された。
「ギ、ギギ……ガ、ァァァァァッ!!」
神代の背中から、巨大な、半透明の蛹のような塊が剥がれ落ちる。それは空中に投げ出された瞬間、待ち構えていた亡霊たちの銃剣によって、全方位から貫かれた。
「――昇華」
儚が静かに呟くと、剣の光が爆発的に膨れ上がった。資料室を埋め尽くしていた闇が、純白の輝きによって一気に塗りつぶされる。おぞましい神経の束も、汚泥のような情報の澱みも、すべてが光の奔流の中で分解され、黄金の砂へと姿を変えていく。
耳を劈くようなノイズが消え、後に残ったのは、耳が痛くなるほどの静寂だった。
黄金の雪が、音もなく降っていた。それは、怪物に喰らわれた記憶や想いが、浄化されて天に還っていく姿。
光が、静かに消えていく。空間に満ちていた圧迫感が、ゆっくりとほどけていく。クゥラはその場に膝をついたまま、しばらく動けなかった。呼吸は荒く、指先はまだ震えている。体の奥で、遅れてきた恐怖が波のように押し寄せていた。
(……終わった、のよね)
自分に言い聞かせるように、心の中で繰り返す。視線をゆっくりと持ち上げると、床に倒れている神代の姿が見えた。彼は静かに眠っていた。さっきまでの異様な気配はどこにもない。顔色も戻り、呼吸も安定している。まるで、ただ疲れて眠っているだけのようだった。クゥラは、ようやく胸の奥に溜め込んでいた空気を吐き出した。
「……よかった……」
その一言に、力が抜ける。だが、その安堵は長くは続かなかった。視線の端に、まだ“残っているもの”があったからだ。
黒い少女。
あの、得体の知れない存在。彼女はまだそこに立っていた。さっきまで無数にいた影のようなものは消えている。空気を震わせていた圧力もない。けれど、その少女だけは、何事もなかったかのようにそこにいる。
まるで最初から、そして最後まで、ずっと同じ位置に立っていたかのように。
クゥラは、ゆっくりと立ち上がろうとした。足がうまく言うことを聞かない。それでも壁に手をつきながら、なんとか体を起こす。
声をかけようとして、言葉が詰まる。何を言えばいいのかわからなかった。助けてくれてありがとう、と言うべきなのか。それとも、あなたは何者なのか、と問いただすべきなのか。
どちらも違う気がした。
少女は、ゆっくりと視線だけをこちらに向けた。その瞳には何もなかった。冷たい、というのとも違う。感情がないような、という言葉では足りない。そこには言い知れない深淵の欠落ががあった。クゥラは思わず息を呑む。
(……この子、やっぱり人じゃない)
さっき戦っていたものよりも、よほど静かで、よほど恐ろしいと感じた。少女は一歩、クゥラの方へ歩み寄った。反射的に身構えようとして、クゥラは自分の体がほとんど動かないことに気づく。もう戦える状態ではない。それでも、逃げるという選択肢は浮かばなかった。
少女は、クゥラのすぐ目の前で止まった。その近さでようやく、彼女の顔がはっきりと見える。年齢は若い。見た目だけなら、学生と変わらない。だが、その艶やかな肌には生きている人間特有の温度が感じられなかった。
「……あなた」
クゥラは、ようやく言葉を絞り出した。
「何者、なの」
問いは、ほとんど祈りに近かった。少女は少しだけ首を傾けた。考えている、というよりは、その質問が「意味を持つかどうか」を確認しているような仕草だった。そして、ほんのわずかな間を置いてから、答えた。
「……通りすがり」
それだけだった。あまりにも簡素で、何も説明していない答え。けれど、それ以上のことを聞き出せる気はしなかった。クゥラは苦笑のようなものを浮かべる。
「……便利な言葉ね、それ」
「私が来なくとも、貴方は界異を祓滅出来た――その場合、此処に生存者はいなかったでしょうけれど」
いや、それはちょっとどうかな。とクゥラは思う。戦闘が終わった今なら、冷静に「繭」の出力を超える力であたりを吹き飛ばしながら戦えば、一応は対処できたかもしれない。と考える事は出来る、しかしながら、あの時は強烈な精神汚染の影響で判断力を保てたか怪しい状態であったし、そもそも事実上の人質となっている境対職員たちの命を諦める事になる――いずれにせよ、今以上の結果は得られなかったのではないか。
考えこんだクゥラを前にして少女は何も言わない。その静けさの中で、遠くから微かな音が聞こえてきた。
人の気配。
おそらく異変に気づいた誰かが、こちらへ向かっているのだろう。クゥラはハっとして振り返る。この状況をどう説明するか。いや、その前に、この少女の存在をどう扱うか。そう考えた瞬間気が付いた。
「……あ」
振り返った視線を戻した時、少女の姿はすでに消えていた。音もなく、気配もなく。まるで最初からそこにいなかったかのように。クゥラはしばらく、その場に立ち尽くした。
何もない空間を見つめながら、自分が今見たものが現実だったのかどうかさえ、確信が持てなくなる。だが、床に倒れている神代の存在が、それを否定していた。
あれは夢ではない。確かに何かが起きて、そして終わったのだ。クゥラは、誰もいなくなった資料室の中央を見つめた。つい先ほどまで、そこには彼女が立っていた。彼女が歩いた場所だけ、埃一つ落ちていないほど清浄に保たれている。
「……礼くらい言わせてくれても良かったんじゃねぇか?」
「いいのよ。あの子……たぶん、誰かに見つかることなんて望んでないもの」
クゥラは、自分の肩に残った、あの冷たくて柔らかな手の感触を思い出していた。自分を盾として利用し、冷徹に勝利を掴み取ったあの少女。けれど、その指先からは、ほんの僅かだけ、自分たちの命を愛おしむような、不器用な優しさが伝わってきた気がした。
やがて、廊下の向こうから複数の足音が近づいてきた。慌ただしい声。状況確認の指示。扉が開かれる音。日常が、強引にこの場所へ戻ってくる。
クゥラは深く息を吸い、そして吐いた。いつもの「頼れる先輩」の顔を作る。さっきまで泣きそうだったことも、震えていたことも、全部押し込める。
「……大丈夫。あたしが説明するわ」
そう言って、一歩前に出る。その背中は、わずかに震えていたが、それでも確かに前を向いていた。
資料室の窓から、嘘のように穏やかな、本物の朝日が差し込み始めていた。