鍋。問答
街路樹の葉は色づき、冷たくなった風に揺れている。
冬のはじめの空気を吸い込むと、年末に向かう、どことなく忙しないにおいがする。
空調と加湿器で適度に調整された大学の研究室は快適だ。
眠気覚ましに伸びをしたドゥラカの口から出た言葉から、全ては始まった。
「鍋といえば?」
科学論文に目を通していたラファウが顔をあげる。
彼の背丈では椅子は高く、足が床についていない。
「と、いうと?」
「具でも味付けでも、なんでも」
「はいっ」
「はいヨレンタさん、速かった」
ラファウの隣で課題をこなしていたヨレンタが、元気よく手を挙げた。
「豆乳鍋の後の、締めのチーズリゾットと白ワインは奇跡です」
ヨレンタは満面の笑みで言った。
「あ〜リゾットいいですね。僕は味噌鍋が好きです」
ラファウはゆっくりと足を揺らしながら応えた。
「渋いね、ラファウ君」
「ドゥラカさんは?」
「この前食べたレモン鍋。なかなかいけましたよね」
「確かに!食べる前はどんなだろうって……」
ゴホン。
わざとらしい空咳が響いた。
いささか盛り上がりすぎたかもしれない。
三人の顔が、恐る恐るこの部屋の主に向く。
「……すみません、バデーニ先生」
ゼミ生であるヨレンタがそう言いかけた時。
「私は水炊き一択だ」
バデーニは眼鏡の奥の瞳を光らせた。
「……シンプルっすね」
「この歳になると、脂っこいものは翌日の胃に来るからな」
二十代とは思えない言葉に、三人が押し黙る。
「というか、ドゥラカ君が何故ここにいる」
ドゥラカはバデーニのゼミ生では無い。
そもそも学部すら違う。
「ヨレンタさんと帰ろうと思って」
「私の部屋を待ち合わせ場所にするんじゃ無い。指導の邪魔だ」
バデーニが今、目を通しているのは、ヨレンタの論文である。
「ラファウ君だってここのゼミ生じゃないですよね」
「彼は今日うちで預かっているんだ。フベルト教授が出張の間、見ていてくれと」
十二歳にして大学生という神童ラファウだが、大学は保護者の送迎付きである。
「あの人心配性ですからね。僕、今日は完全に鍋の口になってきました」
ラファウの言葉に、全員の脳内がだし汁の匂いに満たされた。
それを聞いて、バデーニがポツリと漏らす。
「……そういえば。オクジー君が今日は鍋だと言っていたな」
「あら、いいですね」
「じゃあそれぞれ好きな具材を持って集合にしましょう」
「おい待て。別に誘ったわけじゃない」
「今の流れは完全にそのフリだったじゃないですか」
「オクジーさんに連絡しました!」
ヨレンタは満面の笑みでスマホの連絡画面を掲げる。ヨレンタからの頼みを、オクジーは決して断らない。
言葉を失うバデーニを横目に、和気藹々と話が進んでいく。
「じゃ、後ほど!」
大学からひと駅。
そこから歩いて三分ほどのところに、オクジーとバデーニの住むマンションがある。
二人はルームシェアをしていて、部屋には十分な広さがあった。
大人数で鍋を囲むのに、とてもちょうど良い。
「おっ邪魔しまーす」
「邪魔するなら帰ってくれ」
「あいよーっ」
軽口を叩いて、慣れた様子でドゥラカとヨレンタが上がり込む。
二人とも妙に大荷物だ。
「いらっしゃい」
「突然すみません、オクジーさん」
「いえいえ、みんなで食べる方が美味しいですから」
「まるで私と二人で食べるとまずいみたいな言い方だな?」
「いえいえ。バデーニさん、味付けが俺と違いますから」
ネチっとしたバデーニの言葉をさらりとかわし、オクジーは二人の荷物を預かる。
「うち、そんなに大きい鍋無いんですよ」
「そんなこともあろうかと」
ラグビー部のマネージャーをしているドゥラカが、荷物の中から一抱えもある鍋を取り出す。
「炊き出しか?」
「部では一瞬で無くなりますよ。オクジーさんみたいなガタイの男たちがわらわらいるんですから」
「うちのオクジー君は省エネだ……うおっヨレンタさん、これ、何入ってるんです?」
ヨレンタの荷物を受け取ったバデーニがあまりの重さに声を上げる。
頑丈な袋の中には、大量の缶やビン。互いに擦れて、がしゃりと高い音を鳴らした。
「……酒ばっかですね」
「利き酒してみたくて……」
えへへと頬を染め、可憐に笑った。
ピンポーン
玄関から、軽やかな電子音が響いた。
「遅くなりました」
ラファウがニコニコしながら立っていた。
「これ、庭で採れた白菜とネギです。養父が持たせてくれました」
背後には大きな壁、もとい、フベルトが無表情で立ちはだかっていた。
「フベルト教授……」
呼んでないんだが。とは言えず、バデーニが戸惑っていると、ズイと立派な箱が差し出された。
「……世話になる」
蓋がずれ、中が覗く。
赤い脚。
蟹だ。
「……どうぞ」
キッチンでは、女性陣が準備を始めているらしかった。
オクジーの叫び声が響く。
「ちょ、ドゥラカさん、白菜大きすぎじゃないですか?」
「断面が広い方が味が染みます。時短にもなって効率的では?」
ザックザックと手際よく切っていく。
オクジーが作る時は、いつも繊維に沿って細く丁寧に切られている。
バデーニもその食感が好みなので、援護に入る。
「おいおいおい。食感の均質性が失われる。白菜は層構造だぞ」
「ちょっと何言ってるか分かんないですね……」
切った具材は次々に鍋に放り込まれる。
白菜、蟹、椎茸、鶏肉、トマト、ネギ。
白菜の白にトマトの赤。蟹の脚が斜めに突き出る。
鍋の中で色彩が喧嘩している。
「う、うぁあ……」
「出汁はどうしましょう?」
ヨレンタが、買ってきた出汁をいくつか取り出し、並べている。
「トマトチーズ鍋がいい」
「おっフベルト教授、おしゃれですね」
フベルトが出汁を選んだ。
バデーニはそれを聞いて、慌てて駆けつける。
「蟹を持ってきた奴が何故その選択なんだ!?」
「合わないのか?」
「味の殺し合いが始まるぞ! 多分!」
「キムチ入れたいなぁ」
ラファウがキムチのパッケージを開けている。
「ラファウ君、辛いの平気なんだ?」
「はいわりと。発酵食品同士は相乗効果が期待できます」
「ちょっと待て。相乗効果って、すでに何か入れたのか」
「はい。ここで問題です。代表的な発酵食品と言えば?」
一瞬、全員の視線が鍋から天井へ泳ぐ。
はいっとヨレンタが手を挙げる。
「チーズ」
「ブー」
「……味噌!」
「あっ近い」
「……納豆?」
「冷蔵庫の納豆がない!」
「すでに不可逆反応ですよ」
ドゥラカは落ち着き払って鍋の中をかき混ぜた。
「鍋なんて、煮ちゃえば一緒です」
「待ってください」
オクジーのストップがかかる。普段聞かない、腹の底から響く低い声に、全員の目がオクジーに注がれた。
「……その肉は?」
「ん?鶏肉です」
鍋に火が入れられ、くつくつと音を立て始めていた。
「……モモ肉?」
「いえ」
ドゥラカがさらにお玉で鍋をかき混ぜた。
「ムネ肉。安かったんで」
冷たい沈黙が流れた。
オクジーが気絶しそうなほど絶句している。
「……い」
「声ちっさ」
「……赦されません! 鍋には、モモ肉……!」
オクジーの大声が部屋に響く。
「……ムネは繊維が締まりすぎてて火を通しすぎると食感が悪い。ていうか、脂です。我々に必要な栄養素は脂。脂こそ正義だ脂質最高脂質最高脂質最高」
「長々しいな……高コスパ。高タンパク。さらにヘルシー。これ以上ないじゃないですか」
「違う……鍋にはモモ肉なんです。モモでなければ、それは――鍋ではない」
ドゥラカとオクジーの間には、決して埋まることのない深い溝があるようだ。
さながら龍虎図のような様相が鍋を挟んで繰り広げられる。
「……火、通しすぎじゃないか」
沈黙を破ったのはフベルトだった。
バデーニとラファウが鍋を覗き込む。
「煮込みすぎたな。食感は残っている方が好みだ」
「でも、くたくたの白菜ってそれだけで愛とも呼べそうです」
鍋の中に、すでに秩序はなく。
ヨレンタが缶ビールの蓋をプシュッと開け、豪快に飲み干した。
「腹に収まれば、皆同じ。……そう思いませんか?」
全員が着席し、鍋を囲んだ。
立ち昇ってゆく白い湯気。
全員がその動きをただ目で追う。
トマトチーズ鍋と蟹の赤い主張。そして、姿なき納豆の圧。
「これ、美味しくなかったらどうするんですか」
「その悪夢みたいな状況を受け入れるしかない」
お互い、誰かが箸を伸ばす瞬間を待っていた。
「いただきます」
ぱち、と箸が割られた。
ラファウが鍋に手を伸ばす。
全員が固唾を飲んで見守る。
「……うん」
噛み潰し。
飲む。
「局所的には混沌だが、全体としては調和している」
「えっと。つまり?」
ドゥラカが首を傾げる。
「ご自分の舌で確かめてみては?」
そう言ってラファウは具材を次々に器によそう。
「私は美味しくない鍋は食べたくない」
「理論は空腹を満たしませんからね」
ラファウは目を細めて、フベルトに箸を手渡した。
ヨレンタ、ドゥラカも箸を手に持ち、手を合わせた。
オクジーが汁に口をつけ、バデーニは匂いを嗅ぐ。
「……これは」
フベルトがしばらく黙り込む。
咀嚼。
再咀嚼。
「……クセはあるけど、食べられない味じゃない。
いや、むしろ」
ごくん。
「……不正解は無意味を意味しない」
誰も、意味を理解できない。
「つまり?」
「……美味い」
「おい、誰だ。唐揚げを入れた奴は」
「せめてモモ肉をと思って」
「君か!」
「僕、さっきビスケットらしきもの食べましたよ」
「闇鍋じゃないか」
はじめ失敗かと思われた鍋だったが、思いの外箸が進み、気づけばあとは旨みの凝縮したスープが鍋の底に残るのみ。
「締めはどうします?」
「ラーメン」
「パスタなんてどうです?」
ダン!
酒瓶が机上に置かれた。
ヨレンタが微笑む。
「リゾットです」
「……多数決を取りましょうか」
キュポンと軽快な音を立て、コルク栓が開けられる。
「必要ありません。私が白ワインを開けました」
「……」
無用な締め争いは勃発することなく、平和的な解決を見せたのだった。
「ちょっと、誰です? フベルトさんにお酒飲ましたの」
巨体が通路を塞いでいる。
「……う、動いてない」
「呼吸は?」
「してます」
ドゥラカは静かに缶チューハイを開けた。
「塩辛いものが続くと、甘いものが食べたくなりませんか?」
「分かります。あ、今川焼きがありますよ。冷凍のものですけど」
オクジーが立ち上がる。
「……回転焼きでは?」
ドゥラカが目を光らせる。
「大判焼き?」
ラファウが首を傾げる。
「御座候だろう」
バデーニが鼻で笑う。
「名前なんて、ただのラベルだろうに」
「でも、そのラベルで喧嘩する人がいるんですよね」
「よくないです。育った場所が出ます」
「あれ? 地雷踏んだ?」
場の空気が変わる。
「……これは宗教戦争ですよ」
しん、とする。
「べいくどもちょちょ」
寝言のようなフベルトの声が響いた。
鍋。問答。
どっとはらい。