「うぐっ……ひぐっ……」
「あの、何があったんですか……?」
試合終了後、ぐずる黒羽カカを引き連れて戻ってきた自分にいろPが引き気味でそう聞いてきた。
説明するのも面倒なので、“わからせてやっただけ”と言うと、いろPは戦慄したように「これがあの理解らせ……」とギャン泣きするカカを神妙に見つめていた。
“わからせ”とやらの意味はわからなかったが、おおよそなにかのスラングだろう。2030年の仮想空間は異国語じみたスラングが飛び交うので、いちいち引っかかって聞いていられない。俺たちは雰囲気でツクヨミをやっている。
「ぜっだい……まだ……リベンジじでやるがらなぁ……!」
話せる程度には落ち着いたらしいカカに恨みがましい目で睨まれながら、自分は手をひらひらと振って彼女に応じた。
いろPがそんな自分のことを、何か言いたげに見つめていたので顔を向けると、彼女は少し動揺しながら「あの」と切り出した。
「あの人もそうですけど……もう落武者さんに挑んでる人って、すでにほぼかぐや目的じゃないですよね? 落武者さんに勝ちたいって人が大半になってると思います。それなのに、その、どうしてまだ私たちを護衛してくれるのかなって……」
顎に手を当てて考える。
いろPの言いたいことはこうだ。かぐやに付きまとう野次馬を蹴散らしていた当初の目的から逸れて、今の自分はかぐやへの求婚を建前に、挑戦を断れない自分を負かせたいプレイヤーたちと戦い続けているという状況。
それならば、かぐやと関わるのをやめれば挑戦を受ける義理もない。ただ面倒を背負ってるだけの格好になっている自分が何を考えているのか……それがいろPは不思議なのだろう。
「そりゃあ、落武者さんに比べたら全然ですけど……私だって、そこそこは戦えますから。今みたいに上位プレイヤーばかりじゃなければ……」
「いっろっは〜♪ 何話してんの〜?」
「かぐや!?」
言葉には出さずとも「いろPは細かいことを気にするタチなのだな」と思っていると、反対に細かいことを一切気にしなさそうな金髪のかぐや姫がいろPにダイブした。かぐやがいろPに頬を擦り寄せて、いろPは困っているが満更でもなさそうだ。
脳内で「キマシタワー」「あら^〜」などのコメントが飛び交う光景が展開されるが、2030年でもこれは通じるのだろうか。それとも、やはり異世界日本なので百合文化も自分の知るそれとは少し異なっているのだろうか。
いろPにその辺のことを質問してみる。
「何の話してるの!?」
「オッチン〜、オッチンは悪い人じゃないけどいろははあげないからね! かぐやのいろはだから!」
「かぐやも何の話!? ってか本名……!」
「──こういうのは“てぇてぇ”って言うんだよ。今風に言うとね」
空から落ちてくる鈴の音のような声。
視線を上に上げると、例の如く月見ヤチヨが星空を背に光子の傘を開いて舞い降りてきていた。
「ヤチヨ!? なんでここに……って、もしかして落武者さんと知り合い?」
「そんな感じかな? 二人とも、今すごい勢いでランキング伸ばしてるね! イベントを開いた甲斐があったよ〜。ツクヨミをこんなに楽しんでもらえて、ヤッチョは果報者だねぇ」
「そ、そりゃヤチヨとコラボ出来るなら……」
「あ〜っ!? いろは!? オッチンだけじゃなくてヤチヨにも浮気するなんて〜!!」
ヤチヨが会話に入ってきたことで、にわかにその場が騒がしくなる。管理人だというのにこのフットワークの軽さがヤチヨの特徴だ。
開幕と同時にデスゲームの宣告をしてそれ以降運営を放棄したカスのようなゲームマスターを知っている身としては、ヤチヨの
眩しさには目を焼かれるばかり。
しかし、この状況は少し困った事態だ。なにせ、仮想空間とはいえかぐや、ヤチヨ、そしてアバターは見せずとも恐らくは女子のいろPという今やツクヨミでアイドル的人気を抱える三人と自分が一緒にいるとなると、色々とおかしな噂が立ちかねない。
それこそ、この3人と一緒にいても炎上しないのはトップライバー集団のブラックオニキスくらいだろう。間違っても「ハーレム状態だぜ、うへへ」などと浮かれることはできない。
SAOでは9:1という圧倒的な男女比格差が存在した。無論、多いのが男性側だ。
未開拓ジャンルであるVRMMOの、初回限定生産版のリリース日に潜れるプレイヤーという条件付きならそれも当然の話。
そんな世界で2年間にも及ぶ極限状態に置かれたプレイヤー達は一つの暗黙の共通認識を取り付けた。それは“女性プレイヤーに接触しない”ということだ。
それだけ、女性プレイヤーというのはあの世界で見えている地雷として扱われていたのだ。
特に“倫理コード”の解除方法が周知されてからのタガの外れ方は凄まじかった。はじまりの街にこもる戦わない女性プレイヤーに、貴重なアイテムを“奉納”する代わりに見返りとしてそういった行為を求める男性プレイヤー。
そんな男性に恐怖を抱いた女性たちの声を聞いた自称“騎士”達が女性プレイヤーに関わろうとするプレイヤーを殺し始め、極度のストレスで女性も自殺を……思い出したくもない。
「落武者くん?」
かつての惨劇に思いを馳せる自分の顔を、ヤチヨが首を傾げて見上げてくる。
仮想空間とわかっていても、こういった仕草の一瞬、彼女の美しさに見惚れてしまう。少し前までの自分では考えもしなかったことだ。
SAOにいた頃の自分なら彼女の言葉も仕草も、全てが罠だと信じこんで「やられる前にやれ」と彼女を殺していたに違いない。我ながら、あまりにもあのデスゲームに毒されすぎだ。
そう思うと、わずか数ヶ月で自分はすっかりツクヨミに順応してしまったようだ。美しい世界に浮世離れした人々の姿。ゲームらしく、楽しく競い合う戦いの舞台。
SAOが始まったその瞬間まで、自分が夢見ていた世界がまさにこのツクヨミのような世界だった。
“少し考え事をしていただけ“とヤチヨに言うと、彼女は「そっか」と言って姿勢を戻した。
なんだか、彼女と会った時にも似たようなやり取りを交わしていた気がする。あの時はツクヨミに順応するので精一杯だった。
そんな風に油断していたからだろうか。
「君、本当はこの時代の人じゃないよね?」
耳元で囁かれる、腰が抜けるかと錯覚するほどの甘い声。しかし、その声が実際に自分にもたらしたのは身の毛もよだつほどの悪寒だった。
「さっ、行こ! 落武者くん! 行きたいとこがあるの!」
言葉の意味を理解する間も与えられず、腕をヤチヨに引っ張られ姿勢を崩しながら彼女に引きずられる。
かぐやといろPの驚く声を背後に聴きながら。努めて、動揺が顔に出ないようにしながら……自分はこちらを振り向いたヤチヨの顔を見た。
表情が読めない。
配信上でもツクヨミでも様々な顔を見せる、表情豊かな彼女にそんな感想を抱くのは不可解に感じる。
しかし、思えば自分は彼女と出会った当初から彼女を警戒していたし今でも彼女の心の奥底を見通せたとは感じていない。
自分はSAOで底の知れない強者達と出会ってきた。例えばそれはラフコフの首領『PoH』や、血盟騎士団の団長『ヒースクリフ』。そして、記憶に鮮烈に残る黒衣。
彼女からは、そうした傑物達と同種の隔絶した雰囲気を感じずにはいられない。それが単なるAIなどであるはずはない。
自分は……ずっとずっと考えていた、しかし、そんなはずはないと否定していたその可能性を、今この瞬間まで捨てずにいられなかったから。
“ヤチヨ”、と彼女に問いかけ……振り向いた不思議そうな彼女にこう問いかけたのだった。
“君は、茅場なのか”と。
「え、誰……?」
そして心の底から困惑した声と表情で返され、トリプルアクセルのような横転を決めたのだった。