リュカ家の年代記   作:ひまんちゅ

2 / 5
ナイルの国

私が初めて大きな川を見たのは、故郷の近くを流れるユーフラテス川ではなく、エジプトのナイル川だった。

 

そのことを、私は少し不思議に思っている。

 

故郷の川は、私にとってあまりにも当たり前だった。

水は流れ、舟は行き、畑は潤う。

それだけのものだった。

 

だがナイルは違った。

 

それは、ひとつの国そのものに見えた。

 

父に連れられてバビロンを発ったのは、春の終わりだった。

隊商に加わり、何日も歩き、途中の町で品を売り買いしながら西へ進んだ。

ロバの背には羊毛、銅の器、乾燥させた果物。

父は道中ずっと、誰と話すときも相手の顔をよく見ていた。

 

「商人は耳で稼ぐ」

 

ある夜、焚き火のそばで父は言った。

 

「口で売るが、耳で稼ぐ。何が足りないのか、どこで争いが起きているのか、どの町が豊かなのか。先に知った者が勝つ」

 

私はその言葉を覚えようとして、荷の隙間から例の粘土板を取り出した。

家宝の粘土板。

そこには、あの短い言葉がある。

 

 世界は道でつながる

 

焚き火の赤い光の中で見ると、その文字は昼間よりも深く刻まれて見えた。

 

「それ、また見ているのか」

 

父が笑った。

 

「気になるんだ」

 

「気にするのは悪くない。だが、答えを急ぐな」

 

父は薪を一本、火の中に押し込んだ。

 

「長い道を歩かないと分からないこともある」

 

いくつもの町を越え、乾いた土地を進み、ようやく私たちはエジプトへ入った。

 

そこでは、景色そのものが違った。

 

空の青さは同じなのに、地面の色が違う。

砂と土の境目がくっきりしている。

そして何より、川が広かった。

 

ナイルは、ゆったりと、しかし確かな力をもって流れていた。

その両岸には緑が広がっている。

畑、ヤシの木、家畜、人の群れ。

まるで川が大地を生み出しているようだった。

 

「すごい……」

 

思わず声が漏れた。

 

父はうなずいた。

 

「この国は川でできている」

 

私は舟着き場に立ち、行き交う船を見た。

細長い船が葦や穀物を積み、別の船には石材が載っている。

荷運びの男たちが汗を流し、役人らしき男が板に何かを書きつけていた。

 

「ここでも記録をするんだね」

 

私が言うと、父は笑った。

 

「どこの国でも同じだ。大きな国ほど、数えることをやめられない」

 

私はその言葉を、少し難しく感じた。

だが、役人たちの動きを見ていると分かる気もした。

人が多く、物が多く、土地が広い。

そのすべてを治めるには、覚えているだけでは足りないのだろう。

 

私たちは市場へ向かった。

 

バビロンの市場と同じく、人であふれている。

だが並ぶ品は少し違った。

白い亜麻布、色鮮やかな首飾り、香油、小さな護符、見たことのない形のパン。

そして壁や柱に描かれた絵。

 

人の横顔。

鳥。

目の形をした印。

座る王。

神々。

 

「文字なの?」

 

私は壁の絵を見ながら聞いた。

 

父は通訳の男にたずね、それから答えた。

 

「そうだ。エジプトの文字だ。絵のように見えるが、言葉を表している」

 

私は近づいて見た。

楔形文字とはまるで違う。

私たちの文字は土に押し込む形をしているが、これは描かれた線の文字だ。

同じ“書く”でも、こんなに違うのかと思った。

 

「面白いだろう」

 

父が言った。

 

「同じ世界でも、国が違えば、神も、王も、文字も違う」

 

「じゃあ、何が同じなの?」

 

父は少し考えたあと、荷車の上の羊毛を軽くたたいた。

 

「人が欲しがるものだ」

 

私は吹き出した。

 

「それだけ?」

 

「それだけだ。そして、それが一番変わらない」

 

その日の午後、私たちは取引相手の倉庫に案内された。

そこには穀物の袋が積み上がり、奥では書記が記録をつけていた。

 

若い書記だった。

私とそれほど年が違わないように見える。

彼は細い筆のようなもので、白い薄いものに文字を書いていた。

 

「それは粘土じゃない」

 

私が言うと、通訳を通して彼は少し得意そうに笑った。

 

「パピルスだ。葦から作る」

 

彼はそれを見せてくれた。

軽い。

驚くほど軽くて、薄い。

 

「そんなものに書いて、壊れないの?」

 

私が聞くと、彼は肩をすくめた。

 

「粘土だって割れるだろう?」

 

たしかにそうだ。

私は返す言葉を失った。

 

彼は自分の胸を指して名を名乗ったが、私にはうまく聞き取れなかった。

そこで私は自分の名を伝えた。

 

「ルカ」

 

若い書記は私の名前をまねしたあと、机の上に簡単な絵を描いてみせた。

川、畑、太陽、そしてその上に王冠をかぶった人物。

 

通訳が笑いながら言う。

 

「この国では、王は神に近い存在だ、と言っている」

 

「神に近い?」

 

私は思わず聞き返した。

 

バビロンでも王は偉大だ。

だが神そのものではない。

少なくとも、私にとっては遠い支配者であって、空の上の神ではなかった。

 

若い書記はうなずき、胸を張った。

それから、空と地面を指し、その真ん中に王の絵を置いた。

 

私は少しぞくりとした。

 

同じ大河の文明でも、世界の見え方はこんなに違うのだ。

 

夕方、私たちは川べりに腰を下ろして休んだ。

空は赤く、ナイルは金色に光っていた。

舟が静かに進み、水鳥が低く飛ぶ。

 

父は珍しく、すぐには口を開かなかった。

私はその横で、昼間見た若い書記のことを思い出していた。

 

「父さん」

 

「何だ」

 

「バビロンとエジプト、どっちがすごい国なんだろう」

 

父は笑った。

 

「子どもはすぐ勝ち負けを考える」

 

「だって気になるよ」

 

父は川の流れを見ながら言った。

 

「どちらも大国だ。どちらも自分たちが世界の中心だと思っている」

 

「じゃあ、本当の中心は?」

 

その問いに、父は少しだけ真面目な顔をした。

 

「そんなものはないのかもしれないな」

 

私は黙った。

父は続けた。

 

「だが、人はたいてい、自分のいる場所を世界の真ん中だと思いたがる」

 

私はバビロンを思い出した。

高い城壁、市場の喧騒、法の石柱。

たしかに私は、あそこが世界の真ん中のような気がしていた。

 

だが今、エジプトの川辺に座っていると、ここが中心でもおかしくないように思えた。

 

すると父が、荷の中から小さな袋を出した。

袋の中には、あの家宝の粘土板が入っている。

 

「見てみろ」

 

私は受け取った。

夕日の中で文字を読む。

 

 世界は道でつながる

 

父はナイルを指さした。

 

「道というのは、土の上だけじゃない」

 

「川も?」

 

「そうだ。海もだ。人が行き来し、物が運ばれ、言葉が渡っていくところは、みな道だ」

 

私は粘土板を握りしめた。

 

「じゃあ、この川も世界につながっている?」

 

「つながっている」

 

父の声は静かだった。

 

「だからお前は今、故郷にいながら、故郷の外を知っている」

 

その夜、宿で眠ろうとしても、なかなか寝つけなかった。

 

壁の向こうからは、異国の言葉が聞こえる。

リズムが違う。

発音が違う。

だが、笑い声や怒った声は、どこの国でも少し似ている気がした。

 

私は荷のそばに置いた粘土板を見た。

ふと思い立って、持ってきた新しい粘土板に自分でも何か書いてみた。

 

 バビロンの川は国を通る

 ナイルの川は国を作る

 

書いてから、少し生意気だったかもしれないと思った。

だが削らなかった。

旅をして初めて、自分の目で見たことを書いたのだ。

 

しばらくして、父が寝返りを打ちながら言った。

 

「起きているのか」

 

「うん」

 

「何を書いている」

 

「旅の日記みたいなもの」

 

父は闇の中で、少し間を置いてから言った。

 

「それはいい」

 

「どうして?」

 

「家の記録は、商売の記録だけじゃ足りない」

 

私は身を起こした。

 

「じゃあ、何が要るの?」

 

父の声は眠たげだったが、言葉ははっきりしていた。

 

「見たものだ。何を恐れ、何に驚き、何を不思議に思ったのか。そういうものが残ると、遠い時代の人間も生き返る」

 

私はその言葉を聞いて、胸が少し熱くなった。

 

「じゃあ、僕が書いたものも残していい?」

 

「いいとも」

 

父はそこで本当に眠ってしまったらしく、返事はなかった。

 

だが私は、はっきり決めた。

商売の記録とは別に、自分の見た世界を書き残そうと。

 

そのときは、ただ旅の思い出になると思っていた。

何世代もあとに、それが家の古い箱に入れられ、子孫たちに読まれることになるとは、想像もしていなかった。

 

翌朝、私たちは神殿の近くを通った。

 

高い石の門。

巨大な柱。

白い衣を着た神官。

供物を運ぶ人々。

 

そこにいた老婆が、私たちの前で立ち止まり、私をじっと見た。

異国の少年が珍しかったのだろうと思った。

だが、彼女は私の腰の袋――粘土板の入った袋――を指さし、通訳にも分からない速さで何か言った。

 

「何て?」

 

私が聞くと、通訳は困った顔をした。

 

「はっきりしないが……“古い土は長く語る”のようなことを言っている」

 

私は思わず袋を押さえた。

 

老婆はもう一度だけ私を見て、それから神殿のほうへ去っていった。

 

「変な人だね」

 

私が言うと、父はそうだな、とだけ答えた。

だがその横顔は、少し考え込んでいるようにも見えた。

 

古い土は長く語る。

 

その言葉は、家宝の粘土板と結びついて、妙に心に残った。

 

その日の取引はうまくいった。

父は満足そうだったし、私は新しい世界を見た興奮で胸がいっぱいだった。

 

けれど、帰りの舟の上で私はふと考えた。

 

王が神である国。

川が国を作る土地。

絵のような文字を書く人々。

軽くて薄い紙のようなもの。

バビロンとは違う法律。違う祈り。違う顔。

 

それでも、人は数え、書き、運び、売り、食べ、眠る。

 

世界はばらばらではなく、ゆるやかにつながっている。

そのつながりを、王ではなく、兵士でもなく、商人や書記や舟乗りたちが保っているのかもしれない。

 

私は川面を見る。

朝の光が揺れている。

 

そして初めて、家宝の言葉の意味が、ほんの少しだけ分かった気がした。

 

 世界は道でつながる

 

その道は、目に見える道だけではない。

物の道、言葉の道、記録の道。

もしかすると、人が他の世界を想像する心そのものも、ひとつの道なのかもしれなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。