リュカ家の年代記   作:ひまんちゅ

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チグリスとユーフラテス

エジプトから戻ったとき、私は故郷の空気の匂いを久しぶりに感じた。

 

乾いた土の匂い。

焼いたパンの匂い。

遠くで牛が鳴く声。

 

そして、川の匂い。

 

バビロンの近くを流れるユーフラテス川は、ナイルよりずっと荒々しい。

流れが速く、岸は崩れやすい。

水の色も少し濁っている。

 

私は川辺に立って、その流れを見ていた。

 

「エジプトの川のほうがきれいだったか?」

 

後ろから父が声をかけた。

 

「うん。ナイルはもっとゆっくり流れていた」

 

父は笑った。

 

「だからエジプト人はあの川を神の贈り物だと言う」

 

私は川面を見ながら言った。

 

「でもこの川だって、なかったら困るよね」

 

父はうなずいた。

 

「その通りだ」

 

それから父は川岸の土を指さした。

 

「見てみろ」

 

私はしゃがみこんだ。

川の水が引いたあと、黒っぽい土が残っている。

 

「柔らかいだろう?」

 

私は手で触ってみた。

確かに柔らかい。

 

「これが畑を作る」

 

父は言った。

 

「川が運んでくる土だ」

 

私は思い出した。

エジプトでも似たような話を聞いた。

 

「じゃあ、バビロンも川が作った国?」

 

父は少し考えてから言った。

 

「そうだ。だが、ここはエジプトより難しい」

 

「どうして?」

 

父は川の流れを指さした。

 

「この川は気まぐれだからだ」

 

確かに、ユーフラテスはときどき大きくあふれる。

畑も家も流されることがある。

 

「だから人は水を制御しようとする」

 

父は遠くの畑を指した。

 

そこには細い溝がいくつも掘られていた。

水路だ。

 

「灌漑だ」

 

父は言った。

 

「川の水を畑へ引く」

 

私はその溝を見つめた。

小さな川のように水が流れている。

 

「これを作るのは大変そう」

 

「そうだ。だから町が必要になる」

 

父は言った。

 

「多くの人が協力しないと、水路は作れない」

 

私はふと気づいた。

 

「だから王がいるの?」

 

父は少し驚いた顔をした。

 

「いいところに気づいたな」

 

父は続けた。

 

「都市、王、法律、軍隊。全部つながっている」

 

私は思い出した。

 

石柱。

ハンムラビ王の法。

 

「法律も水のため?」

 

父は首をかしげた。

 

「水だけではないが、関係はある」

 

私は考え込んだ。

 

もし水路を壊す人がいたらどうなるだろう。

畑が干上がる。

収穫がなくなる。

 

争いになる。

 

そう考えると、法律は必要だ。

 

「国って、水の管理のためにあるの?」

 

父は笑った。

 

「それだけではないが、始まりはそれに近いかもしれない」

 

私は川の流れを見た。

 

この川がなければ、バビロンは存在しない。

だが、この川だけでは都市はできない。

 

人が必要だ。

規則が必要だ。

記録が必要だ。

 

そして、その記録を書く人も。

 

私は突然、自分の仕事を思い出した。

 

「だから書記がいるんだ」

 

父はうなずいた。

 

「税を数える。

穀物を数える。

労働を数える」

 

私は少し誇らしくなった。

 

粘土板を書く仕事は、ただの作業ではない。

都市を動かす歯車の一つなのだ。

 

そのとき、向こうの畑から男の叫び声が聞こえた。

 

「水門を閉めろ!」

 

人々が走っている。

 

私は父と一緒に近づいた。

 

水路の一つが壊れかけていた。

水があふれ、畑に広がっている。

 

農民たちが土を運び、板を押さえ、必死で流れを止めようとしていた。

 

私も思わず手伝った。

土を運び、穴を埋める。

 

しばらくして水は落ち着いた。

 

農民の一人が息を切らしながら言った。

 

「もう少しで畑が全部流れるところだった」

 

父は私の肩を叩いた。

 

「これが川の国だ」

 

私は泥だらけの手を見た。

 

エジプトでは、川が国を作ると言った。

だがここでは、人が川と戦っている。

 

その夜、私は新しい粘土板に書いた。

 

ユーフラテスは恵みをくれる。

だが同時に、試練もくれる。

 

だから人は協力する。

都市を作る。

法律を作る。

 

川は文明を生む。

だが文明は、人の努力で続く。

 

私は書き終えると、ふと例の家宝の粘土板を見た。

 

> 世界は道でつながる

 

私はその横に、小さく自分の言葉を書き足した。

 

道は川から始まる。

 

それを書いたとき、私は少しだけ怖くなった。

祖先の言葉に触れるような気がしたからだ。

 

しかし削らなかった。

 

もしかすると、私の子孫がいつかこれを読むかもしれない。

 

そのとき彼らは、何を思うだろう。

 

バビロンの川辺で泥だらけになった少年が、

こんなことを考えていたと知ったら。

 

私は灯りを消し、横になった。

 

外では川の音が聞こえる。

 

遠く、ゆっくりと流れる水の音。

 

チグリスとユーフラテス。

 

この二つの川が、文明のゆりかごだと誰かが言った。

 

だが今の私には、ただの川にしか見えない。

 

しかし何百年、何千年あとに生きる人々は、

この川のほとりから始まった世界を、どう見るのだろうか。

 

私はまだ知らない。

 

だが、私の書いた小さな粘土板が、

遠い未来へ続く道の一つになるかもしれない。

 

そう思うと、少しだけ胸が熱くなった。

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