リュカ家の年代記 作:ひまんちゅ
夏の終わり、バビロンの市場には見慣れない船乗りたちが現れた。
彼らの衣服は私たちと少し違う。
色の濃い布をまとい、腰に短い剣をさしている。
肌は日に焼け、目は海を見慣れた人間の目をしていた。
父は彼らを見ると、すぐに店の外へ出た。
「来たな」
父は小さく言った。
「誰?」
私が聞くと、父は答えた。
「フェニキア人だ」
その名前は、私は初めて聞いた。
「どこの人?」
父は西の空を指さした。
「海の向こうの町だ」
私は驚いた。
「海?」
メソポタミアの人間にとって、海は遠い存在だ。
川は知っている。
だが海は知らない。
父はフェニキア人の男と話し始めた。
言葉は完全には同じではないらしく、ゆっくりと確認しながら話している。
私はその横で、彼らの荷物を見ていた。
紫色の布。
見たことのない形のガラス。
小さな象牙の細工。
その中でも特に目を引いたのは、小さな板だった。
木の板。
そこには不思議な印が並んでいた。
楔形文字ではない。
絵文字でもない。
線だけの文字だった。
私は思わず指さした。
「これは何?」
フェニキア人の男は笑った。
それから板を取り、地面に同じ印を書いてみせた。
まっすぐな線。
曲がった線。
簡単な形。
父が私に言った。
「彼らの文字だ」
「こんなに少ない形で?」
私は驚いた。
楔形文字は何百もある。
書くのも覚えるのも大変だ。
しかしこの文字は違う。
フェニキア人は胸を張って言った。
通訳が訳す。
「これは音を書く」
私は首をかしげた。
「音?」
フェニキア人は自分の口を指した。
それから一つの印を指す。
「ア」
次の印。
「バ」
次の印。
「ガ」
私は目を見開いた。
「音を並べて言葉を作るの?」
フェニキア人はうなずいた。
私は急に興奮した。
楔形文字は言葉を覚えなければならない。
だがもし音を書けるなら。
文字はもっと簡単になる。
父は私の顔を見て笑った。
「気に入ったか?」
「すごいよ」
父はフェニキア人に言った。
「この子は書記になる」
フェニキア人は笑った。
それから海の話を始めた。
「海は道だ」
通訳が訳す。
私は思わず家宝の言葉を思い出した。
世界は道でつながる。
フェニキア人は続けた。
「海の道は、陸より速い」
私は想像してみた。
船が波を切る。
港から港へ。
知らない町へ。
それは隊商よりも速いのだろうか。
父は腕を組んだ。
「陸の商人はロバを使う」
フェニキア人は答えた。
「海の商人は風を使う」
私はその言葉が気に入った。
風を使う。
なんて自由な響きだろう。
その日の夜、私は粘土板に書いた。
フェニキア人は海を道にする。
彼らは風を使って世界を渡る。
文字もまた道だ。
音を並べれば、言葉は遠くへ運ばれる。
私は書きながら考えた。
川の道。
陸の道。
海の道。
そして、文字の道。
すべてが世界をつないでいる。
私は家宝の粘土板を取り出した。
> 世界は道でつながる
私はその下に小さく書いた。
道は増えていく。
川。
陸。
海。
そして言葉。
私はふと気づいた。
もし文字が簡単になれば。
もっと多くの人が書けるようになる。
もっと多くの人が読めるようになる。
すると世界はどうなるだろう。
私は想像してみた。
遠い町の人が、手紙を書く。
それを別の町の人が読む。
見たことのない場所の話が、文字で届く。
それはまるで、世界そのものが広がるようなことだ。
そのとき、父が言った。
「いつかお前も海を見るだろう」
私は顔を上げた。
「本当に?」
父はうなずいた。
「商人は道を歩く」
「そして道は、まだまだ続いている」
私は窓の外を見た。
遠くの空は暗く、星が光っている。
その向こうに海がある。
フェニキア人の町がある。
知らない世界がある。
私は思った。
もし祖先の言葉が本当なら。
この世界は、まだまだ広がり続けるのだろう。