ゴブリンを甘く見るな!――元最強ギルドマスターの俺がゲーム序盤に転生、未来知識を武器に見習い傭兵から成り上がって王になるまで 作:窮北の風
湖というものは、近くに見えても、実際にたどり着くまでは妙に遠い。
俺ががカエル湖の近くまで着いた頃には、もう日が傾きかけていた。
視界の先には、ところどころ炊事の煙が立ちのぼっているのが見える。中世風の煉瓦造りの家々が、山腹のあたりにぼんやりと浮かび上がっていた。
湖畔には、人の出入りがあった痕跡も少しだけ残っていた。
数は多くない。
だが、それでもここが完全に人目から隔絶された場所じゃないことだけは分かる。
領主という隠し職業の発生地点がこのあたりだということは知っている。
それでも、いざ近づいてみると、さすがに心は落ち着かなかった。
――誰かに先を越されていたらどうする?
そんな考えが頭の片隅に引っかかる。
俺は湖岸を慎重にたどりながら、目を凝らして周囲を探した。
だが、幸運はまだ俺を見放していなかった。
三十分もしないうちに、湖の西側にある目立たない小さな丘の裏手で、今回の目標を見つけ出したんだ。
それは、低木の中に半ば埋もれるように捨てられていた一台の馬車だった。
車体は、暗い赤色を帯びた木材で作られている。
おそらくはカムウッドだろう。
熱い地方の原産で、非常に硬く、色艶も柔らかい。表面には天然の油蝋膜ができるから、この木で作った物はもともと防腐・防湿に優れている。
屋根は教会の天井みたいな丸いアーチ状で、その頂点には繊細な女神の半身像が据えられていた。だが、その顔立ちは何か外力で叩き壊されたらしく、もはや判別できなかった。
車体の両側には丸い透かし窓があり、今はどちらも外へ向かって開け放たれている。
手にした松明の明かりを差し込むと、中には何本もの矢が突き立っているのが見えた。乾いた血の跡もいくつか残っているが、それ以外はもう空っぽだ。
本来なら前につながれているはずの馬は、当然ながらどこにもいない。
周囲の地面には荒らされた荷物がいくつも転がっていて、その近くには、服を剥ぎ取られた人間の死体までいくつか転がっていた。
「……ここで間違いないな」
俺はしばらく黙ったまま、その場に立ち尽くした。
まるで盗賊に洗いざらい持っていかれたあとの現場みたいで、気分が重くなる。
街道での略奪自体は、アラレン大陸じゃ珍しい話じゃない。
だが、それが町の近くで起きるとなると話は別だ。
盗賊がいちばん嫌うのは、軍や警備隊を呼び寄せることだからだ。
それなのに、ここまで露骨に、しかも平然とやってのけている。
つまりそれだけ、チカ町周辺の治安維持能力が落ちているということでもある。
もっとも、今そこを気にしている場合じゃない。
俺はゲーム掲示板で見た攻略情報を思い出しながら、一人の若い男の死体の下を探った。
すると、墨を塗ったように黒い鉄牌が見つかる。
さらに、倒れた荷箱の隙間から、すでに開封された手紙が二通出てきた。
俺はまず、上質な紙に書かれたほうの手紙を開いた。
————
親愛なるタワーナイト(Tower Knight)様へ
ごきげんよう。
長く文を交わしてまいりましたが、私はすでに、あなた様を深くお慕いしております。
このたび無礼を承知でお手紙を差し上げたのは、父の病が重く、私に一刻も早く婚姻し、家の財産を継がねばならなくなったためです。
その中には、酒場が二軒、七十九ヘクタールの良田、そして小さな銀鉱山が含まれております。
私はまだ成人したばかりの娘で、身寄りもなく、家の資産をどう治めればよいかも分かりません。
ですが、あなた様だけは違います。
あなた様こそ、高潔な騎士の血を引くお方であると、私は信じております。だからこそ、この気持ちを託したいのです。
もしも私を憐れみ、結婚をお許しいただけるのでしたら、どうか急ぎ、ロニクス王国南部のトゥー・リバーズ・シティまでお越しくださいませ。
実は私、城主の娘――キャサリンと申します。
それと、もう一つだけ、どうしても隠せない願いがございます。
私は昔からチューリップが好きなのです。もし道すがらお時間がございましたら、チカ町近くのがカエル湖で二輪ほど摘んで来てはいただけませんか。
もちろん、すべてはあなた様のご都合が許す範囲で結構です。私は、あなた様に物知らずな女と思われたくありません。
一日も早くお目にかかれますように。
日々、想い焦がれるあなた様へ。
――あなたに忠実なるキャサリンより
————
まだかすかに香りの残るその便箋を指先でつまみながら、俺は泥水にうつ伏せで倒れている裸の死体へ目をやった。
思わず、ため息が漏れる。
――またか。
これは、どう見ても丁寧に仕組まれた詐欺だ。
手口自体はそう複雑じゃない。
まず盗賊団が狙いを定める。
対象はたいてい、権力はないが、親からいくらかの遺産を継いだ“落ちぶれた貴族の若者”だ。
次に、少し見栄えのする女を近づける。
偶然を装って知り合い、文を交わし、時間をかけて関係を深める。場合によっては体まで使って相手を夢中にさせる。
そして男がすっかり甘い幻想の中に落ちたところで、女は「家の事情」を理由に姿を消す。
しばらくしてから今度は、「家督を継ぐ」とか「貴族令嬢が婿を求めている」とか、もっともらしい理由で相手を呼び寄せる。
若い貴族の坊ちゃんが、こんな誘惑に抗えるはずがない。
たいていは持てる物を全部抱え、未来の栄華を夢見て、一目散に愛しい相手の元へ向かう。
これから先は貴族としての暮らしだ、酒も女も贅沢もし放題だ――そう信じて。
だが現実には、その道中ずっと盗賊たちが尾行している。
そして最後に待っているのは、甘い新生活じゃなく、路傍で斬り殺される運命だ。
この馬車の主も、そうやって騙された一人にすぎない。
俺はあらためて思う。
このゲームを作った連中、本当に妙なところで才能がある。
現実世界にあるような詐欺の手口を、ここまで自然にゲームへ持ち込んで、しかもまるで浮いていない。
結局、人の性根なんて、どこの世界でも似たようなものなんだろう。
そう思いながら、俺はもう一通の手紙へ目を移した。
こちらはずっと質素だった。
紙の中央には油染みまでついていて、どう見ても元の持ち主が大事にしていた様子はない。
内容も実に簡素だ————
高貴なる騎士殿へ
あなた様が掲示された従者募集の告知につきましては、すでに受理されております。
もし希望者が現れた場合は、この書状を持参のうえ、各地の冒険者ギルドにて応募者情報をご確認ください。
「へえ……。こいつ、専属の従者まで募集してたのか」
ゲームの中では、アラレン大陸にある各地の冒険者ギルドは、日々の依頼を出すだけの場所じゃない。
専用の掲示板には、仲間募集や尋ね人、その他いろんな情報が貼り出される。
当然、こういう“求人”もその一つだ。
もっとも、専属の従者なんてものを雇うのは、かなり金がかかる。
生活費を見なきゃならないし、さらに給金まで払う必要があるからだ。
「少しでも体裁を整えるために、こいつなりにかなり無理したんだろうな」
俺は手紙をしまい、今度はあの墨黒い鉄牌を手に取った。
表面には、まだかろうじて貴族紋章の名残が見える。
だが、俺はそこまで気にしていなかった。
身分詐称が露見するんじゃないか、という意味なら問題ない。
こんな辺境の名もない貴族に限らず、有名な大貴族にだって、各地に散った傍流ぐらいいくらでもいる。
それに、手紙の中に出てきたタワーナイトについては、俺も多少は知っていた。
たしかシリス丘陵地帯には、隣り合うようにして存在する二つの特別な組織がある。
一つはメイジで構成されたオズ・ウィザード(Oz wizard)。
もう一つは戦士たちによるタワーナイト(Tower Knight)。
性質はまるで違うのに、この二つの組織は三百年以上にも及ぶ深い友誼を結んでいる。
そのせいで、世界でも他に類を見ない光景がそこにはあるらしい。
――メイジたちが、心から納得した上で戦士の従者を務めている光景だ。
もっとも、そんな話は今の俺にはまだ遠い。
当面の優先事項は、できるだけ早くチカ町へ戻ることだ。
戦利品と遺品を処分しなければならないし、それにこの体の記憶によれば、チカ町には俺にとって“幼なじみ”に当たる相手もいるらしい。
「……そのとき、ボロが出なきゃいいんだけどな」
遠くに見える町の輪郭を眺めながら、俺は小さくそんな不安を覚えた。