ゴブリンを甘く見るな!――元最強ギルドマスターの俺がゲーム序盤に転生、未来知識を武器に見習い傭兵から成り上がって王になるまで 作:窮北の風
冒険者ギルドはチカ町でもいちばん賑やかな通りの真ん中に建っている。だが、その裏口を出た先に広がっているのは、ごく普通の民家ばかりの一角だった。
そこには、まっすぐ整えられた街路も、広々とした広場もない。
あるのは家と家の隙間を縫うように伸びる、細く入り組んだ路地だけだ。
土地勘のある住民でもなければ、こんな場所を走ればすぐ迷ってしまうだろう。
けれど同時に、それこそがこの場所の利点でもあった。
今のところ、ここまではまだゴブリン兵の手が及んでいない。
そしてこの迷路みたいな住宅地が、俺たち二人に、混乱に紛れて逃げ出す隙を与えてくれていた。
トーヴと一緒に裏口から飛び出し、この住宅地へ駆け込んだとき、目に入ったのは荷物を背負って逃げ惑う住民たちばかりだった。
ほとんどが家族連れだ。
顔には、恐怖と戸惑いがそのまま張りついている。
そのとき、一人の体つきのいい女が、短剣を握ったまま慌ただしく俺の前を横切った。
見覚えがある。
昼間、冒険者ギルドでレシオのすぐそばにいた、あの女冒険者だ。
「すみません!ケンさんとチカ町の巡回隊がどこにいるか知りませんか?」
今は一刻も早く状況を把握しなければならない。
俺はとっさに相手の腕を掴んだ。
女は飛び上がるほど驚き、反射的に手の短剣を突き出してくる。
けれど、長年のゲーム生活で染みついた反応からすれば、あの程度の慌てた一撃は脅威にもならない。
引いて、捻る。
それだけで、短剣はあっさり俺の手の中へ移っていた。
起きたことが速すぎて、女のほうは何が起きたのか理解できていないらしい。気づいたときには、もう得物を失っていた。
「ちょっと!何すんのよ、あたしのナイフ……って、あれ?あんた?」
怒鳴りかけた女は、俺の顔を見てぴたりと止まった。
目の前にいるのが、昼間、冒険者ギルドでレシオとやり合っていたあの若い男だと気づいたんだろう。
しかも相手は、かなりの腕を持っていて、しかも貴族の坊ちゃんかもしれない――そんな噂まで流れていた。
そのせいか、さっきまでの威勢は一瞬で消えた。
声音まで急に甘くなる。
「あのぉ……それで、何かご用ですか?」
あまりにも態度が変わったので、俺は少し気まずくなって咳払いを一つした。
それから、もう一度同じ質問を繰り返す。
「ケンさんと巡回隊が、今どこにいるか知りませんか?」
「ああ、そのことぉ?たしかケンさん、午後のうちに巡回隊を全部連れて出ていったって聞いたわぁ。たぶん、ゼス村のほうじゃないかしら……」
「ゼス村、か……分かりました。ありがとうございます」
なるほど。
チカ町がほとんど抵抗できずに崩れた理由はそこか。
守備兵力が、丸ごと町の外へ出ていたんだ。
その事実に気づいた瞬間、胸の奥に嫌な後悔が湧き上がる。
俺があのタイミングで知らせを持ち込まなければ、チカ町はここまで早く落ちなかったかもしれない。
必死に動いた結果、陥落を防げなかったどころか、むしろそれを早めた可能性すらある。
これが、歴史の必然ってやつなのか……?
「ねえ、閣下ぁ。今、町の中ってすっごく危ないでしょぉ?あたしみたいな弱い女、一人じゃこわくって……よかったら一緒に――」
「今、町はかなり危険です。ゴブリン軍がもう入り込んでる。あなたも気をつけてください。俺は急いでるので」
俺は急いで短剣を彼女の手へ返し、相手が続きを言う前に、トーヴの手を引いてその場を離れた。
背後には、ぽかんとしたまま立ち尽くす女冒険者だけが残る。
俺たちが風みたいに路地の角へ消えていくのを、あいつはただ呆然と見送っていた。
何歩か走ったところで、トーヴが俺に引かれたまま、不思議そうに口を開いた。
「コロン、なんだか前より強くなったよねぇ。さっきも、ひょいって短剣取っちゃったしぃ……」
「え?そ、そうですか?はは……」
俺は振り向きもせず、少しだけ歩調を速めた。
これ以上突っ込まれると困る。
だから、慌てて話題を変える。
「そういえば、どうしてあなた一人なんです?ケリーおばさんは?」
「んー?おばさんならねぇ、一昨日トゥー・リバーズ・シティにバターとお砂糖を買いに行ったのぉ。たぶん、帰ってくるのはまだ何日か先かなぁ」
俺は一度だけ後ろを振り返った。
暗がりの中でも、トーヴの丸い目は妙にきらきらしている。
「……怖くないんですか?」
「うーん、どうだろぉ。でもね、どきどきしてるの。なんだかすっごく、冒険みたいで……ちょっとだけ、わくわくしちゃうかもぉ」
その返事を聞いて、俺は思わず長いため息をついた。
やっぱり、この幼なじみの感覚は普通の人間とはだいぶずれている。
でも、こういう人間っているんだろうなとも思う。
生まれつき、冒険の匂いに惹かれるような奴が。
たぶんトーヴは、そういう種類の人間なんだ。
それ以上この話題を引っ張るのはやめ、俺は背中の荷物からあの外套を取り出した。
そのままトーヴの肩へかける。
「え?ありがとう、コロン。でもぉ、わたし寒くないよ?ほら、ちゃんと毛糸の服も着てるもん」
不思議そうにしながらも、彼女は素直にされるがままだった。むしろ襟元を少し広げて、中の格子柄のセーターまで見せてくる。
「寒いとかそういう話じゃないんです……これは魔法装備で、その……動くときの気配を少し薄くしてくれるんですよ。だから、しばらく着ててください」
本当はもっとちゃんと説明したい。
だが、相手が“魔法装備”という概念をどこまで理解しているかも分からない。下手に言葉を重ねても、かえって混乱させるだけだ。
それに、今はそんな話をしている余裕もない。
なぜなら、前方の路地に見慣れた影が現れたからだ――ゴブリン精鋭戦士が二体。
以前倒した個体より、目の前の二体はさらに装備が良い。
身につけた革鎧には金属板が打ち込まれているし、手にしている武器も長剣じゃない。
釘の打ち込まれたメイスだ。
ああいう武器は人間の兵士を叩き潰すのに向いているだけじゃない。
扉や窓、薄い壁まで簡単に破壊できる。
家屋の密集した町を攻めるには、まさにうってつけの装備だった。
「一旦、隠れましょう」
俺はトーヴの手を引き、すぐそばの家の中へ滑り込んだ。
先に気づけたのは幸運だった。
遠目のうちに避けられたからよかったが、もし近くで出くわしていたら、あいつらの鋭い聴覚を誤魔化すのは難しかっただろう。
「コロン……わたしたち、死んじゃうのかなぁ?」
「縁起でもないこと言わないでください」
真っ暗な室内は、息を潜めると一気に静まり返った。
窓の端から差し込む月明かりだけが、部屋の中央のほんの一部を照らしている。
俺は窓の陰に身を寄せ、精鋭戦士たちが通り過ぎるのをじっと待った。
だが、そのときだった。
外から、家族らしい声が聞こえてきた。
「ねえ、ママぁ、わたしたち、どこ行くの?」
「大丈夫よ。おじいちゃんのおうちに、ちょっと遊びに行くだけ。前から、向こうの大きな猫ちゃんに会いたいって言ってたでしょ?」
「えっ、猫ちゃん!?やったぁ!」
「おい、お前たち、もう少し声を――」
「平気よ、あなた。もう町の外れなんだから……」
「それでも駄目だ。向こうへ着くまでは気を抜くな」
「ママぁ、前にいるおじちゃんたち、すっごく背が高いねぇ……」
「何言ってるの?こんなところに誰も――」
「ほら、あそこにいるよぉ」
「……」
次の瞬間、男の声色が変わった。
「まずい、見つかった!お前たちは先に逃げろ!」
「あなた……!」
「俺が引きつける――!」
そしてすぐあとに、ばたばたと乱れた足音が響き、その直後、二つの興奮した咆哮が夜を裂いた。