ゴブリンを甘く見るな!――元最強ギルドマスターの俺がゲーム序盤に転生、未来知識を武器に見習い傭兵から成り上がって王になるまで 作:窮北の風
「隊長!あっちを見てください!」
チカ町巡回隊の革鎧をまとった若い隊員が、手にしていた真鍮製の単眼鏡を下ろし、すぐさま隣の白髪の老人へ差し出した。
ケンは険しい顔のままそれを受け取る。
そのとき、またがっていたバンケル馬が、ふんと鼻を鳴らした。
ロニクス王国北西の草原地帯が原産のこの小型馬は、体こそ小さいが持久力に優れ、気性も穏やかだ。ケンにとっては、もう十年以上連れ添ってきた相棒でもある。
今は山頂に漂う焦げ臭い煙のせいか、少し落ち着かないらしい。蹄がその場で小さく地面を踏み鳴らしていた。
六十を過ぎたケン自身もまた、内心では焦燥に焼かれていた。
昨日、国境地帯へゴブリン軍が侵入したという報を確認して以来、彼は休む間もなく町の巡回隊をかき集めた。
十名の隊員を二人一組に分け、周辺の町々へ戦況を知らせるために散らした。
その一方で、自分は残りの者を率いてゼス村へ急行したのだ。
目的は二つ。
一つは、現地で状況を直接確認すること。
もう一つは、途中で生き残っている村民がいないか捜索すること。
彼はよく分かっていた。
たかだか二十人ほどの戦力では、小規模なゴブリン斥候隊ならまだしも、精鋭戦士を伴う本隊にぶつかれば、ただ潰されるだけだ。
だからこそ、全員に馬を使わせた。
もし主力と鉢合わせしても、速度さえあれば離脱できる。ゴブリンには騎兵という兵科がない。それが唯一の救いだった。
自分は十分に素早く動いている――そう思っていた。
ところが、途中でチカ町からの伝令が追いつき、すべてをひっくり返した。
町が、ゴブリン大軍の襲撃を受けたという。
慌てて隊を引き返させたときには、チカ町の空はもう炎で橙色に染まっていた。
今、彼らがいるのはチカ町から三キロも離れていない小高い丘、“オウム嘴”と呼ばれる場所だった。
山というほど高くはない。だが町に近すぎるほど近いせいで、頂上に立てばチカ町全体を見渡すことができる。
「ひどい状況だな」
ケンは単眼鏡を下ろし、眉間に深い皺を刻んだ。
「ゴブリンどもは町の西側から押し込んだらしい。あそこがいちばん火の勢いが強い。火はそのまま中心部へ広がっている」
「午後の時点で住民には警告が回っていたはずだ。そのおかげで、無秩序に散り散りになってはいない。大半は本能的に、町の東――トゥー・リバーズ・シティへ向かう側へ逃げているようだ」
「だとすれば、まずは東側で住民を集め、防衛線を作る必要がある……ペトラ、見てみろ」
ほとんど独り言みたいに状況を整理し終えてから、ケンは単眼鏡を横へ差し出した。
「町の東側ですね」
それを受け取ったのは、灰がかった白髪を揺らす若い女だった。
ペトラ。
チカ町巡回隊の副隊長だ。
体にぴたりと沿う白い革鎧を着込み、その下には分厚い綿入りの上着を重ねている。大きく開いた襟元には、銀色に光る小ぶりの短剣が三本並び、その鋭く整った顔立ちをいっそう引き締めて見せていた。
彼女は単眼鏡を目に当てたまま、素早く視線を動かす。
そして次の瞬間、表情が変わった。
「まずいです!ゴブリンの一団が、町の東へ向かっています!何かを……追っています。あれは……冒険者の小隊です!」
「ん?町に残っていた冒険者どもが、自発的に動いたのかもしれん。それならそれでいい。一般住民が逃げる時間を稼げる」
「……そのはずです。前方には、たしかにかなりの数の住民がいます。たぶん、あの小隊が彼らを庇って……」
そこでペトラの声が途切れた。
そして、低く吐き出すように続ける。
「違う……!あの冒険者たち、止まりません!自分たちだけ先に林へ逃げ込みました!」
「何だと!?」
「しかも、その後ろには……ゴブリン精鋭戦士がいます!何体も!」
ケンの胸が重く沈む。
彼はほとんど奪い取るように単眼鏡を受け取り、すぐに覗き込んだ。
「くそっ……レシオか!」
その先に見えた、無様に逃げる大柄な姿を見た瞬間、怒りが一気に湧き上がる。
「職業戦士のくせに、丸腰の住民を囮にしているのか!」
その程度の小細工なら、凡庸な人間の目は誤魔化せるかもしれない。
だが、ケンには最初からお見通しだった。
昨日の午後、冒険者ギルドで起きたやり取りの時点で、彼の中のレシオへの評価は最悪に近かった。
そして今、その評価は完全に地の底へ落ちた。
今すぐ山を駆け下りて、あの男の首根っこを掴み、そのままトゥー・リバーズ・シティの異端審問所にでも突き出してやりたかった。
自分だけ生き延びるために他人を犠牲にする。
冒険者同士の話なら、そういうこともあるだろう。
だが今は、国境戦争の真っ最中だ。
こんな行為は、もはや売国に等しい。
しかし、その怒りも一秒と続かなかった。
もっと差し迫った問題が、目の前にある。
どうやって、あの住民たちを守る?
「……やるしかないな。いつもの手だ」
ケンは深く息を吐き、感情を押し殺した。
「騎兵の速度を使う。敵の攻撃圏外から、嫌がらせのように揺さぶり続けるぞ」
作戦を頭の中で固め、振り向いて巡回隊へ指示を飛ばそうとした、その瞬間だった。
脇で馬が高く嘶く。
白い影が、まるで矢みたいに飛び出していく。
「ペトラ!お前!」
ケンは、もう森へ消えかけているその背中を見て、思わずこめかみを押さえた。
チカ町巡回隊副隊長、ペトラ。
顔立ちは整っていて、剣の才も抜群。
だが、その胸に詰まりすぎている正義感だけは、いつも肝心な場面で彼女を前へ押し出しすぎる。
「はぁ……」
ケンは短く息を吐いた。
「隊長、俺たちも――」
「当たり前だ!」
手綱を引き締めながら、ケンは低く命じる。
「いつも通りだ。目的は牽制、正面からのぶつかり合いは極力避ける!それから速度を落とすなよ。お前らの馬の鼻先が、前の馬の尻に突っ込むような間抜けな真似はするな!」
「ははっ、了解です隊長!」
「そっちこそ気をつけてくださいよ!一番遅いの、隊長の馬ですからね!」
若い巡回兵たちは、声を潜めながらも、思わず笑いをこぼした。
張りつめていた空気が、ほんの少しだけ和らぐ。
ケンは、そんな活気に満ちた連中を見て、口元をわずかに緩めた。
戦争は残酷だ。
だが同時に、若者をもっとも早く成長させる火床でもある。
この先、彼らの誰かが異族の侵略を食い止める柱になるかもしれない。
けれど――
ケンは再び、山の下で燃え続ける町へ目を向けた。
その眼差しは、また静かに沈む。
――その中の何人が、最後まで生き残れるのだろうな。