最強ギルドマスターは十年前のゲーム世界に転生した 〜未来知識だけを武器に、見習い傭兵から王座を目指す〜 作:窮北の風
チカ町からトゥー・リバーズ・シティへ向かう道は、大きく分けて二つある。
一つは町の北から出て、がカエル湖の上流沿いに北へと緩やかに延び、方石灘(スクエア・ストーン・ビーチ)を回り込んでから東へ折れる道だ。
遠回りに見えるが、道幅は広く平坦で、途中の水場にも困らない。だから、多くの商隊や旅人はこちらを選ぶ。
もう一つは、ずっと短い。
町の東から出て、オウム嘴の山を越えてしまえば、そのままトゥー・リバーズ・シティへ抜けられる。
ただし、こちらは山道が狭く、曲がりくねっていて歩きづらい。急ぎの用がある者か、体力に自信のある者、あるいは山歩きや景色を好む者くらいしか通らない。
そして今、その普段は人気のない山道を、一団の人間が夜の闇を裂くように必死で逃げていた。
レオナルドはその人波の中に紛れながら、さっきまでの高揚などすっかり失っていた。
体は半ば反射で足を前へ運んでいるのに、頭の中はひどくぼんやりしている。
どうしても、理解できなかった。
さっき、自分が頼みの綱だと思っていたあの冒険者たちは、なぜあんなふうに住民たちを置き去りにしたのか。
背後に武器も持たない町の人々がいることを、あいつらは確かに見ていたはずだ。
泣き声だって、悲鳴だって聞こえていたはずだ。
それなのに、一度も足を止めず、そのまま全員を追い越して、先に林の中へ消えていった。
あんなことをすれば、残された人間がどうなるかなんて、少し考えれば分かるはずなのに。
レオナルドは堪えきれず、一度だけ後ろを振り返った。
道の果てでは、炎の赤い光を浴びて、ゴブリン軍の影がもう見え始めていた。
低く小さいくせに、密集したあの黒い群れが、まるで洪水みたいに田畑の上を押し流してくる。
今の速度では、とても森まで辿り着けそうにない。
その前に追いつかれる。
そうなれば、ここにいる全員が終わりだ。自分も、父も、母も、妹も。
「こんなときに、まだそれを背負ってどうする!」
不意に、父の怒声が耳元で弾けた。
三十年土を耕してきた老農は、母の背に括りつけられていた二本の鍬を乱暴に引き剥がした。
「あなた!」
母が慌てて奪い返そうとする。
「これ、うちから持ち出せた唯一の値打ち物なのよ!これがなかったら、これから何を頼りに生きていけばいいの!」
「命がなくなったら、鍬なんてあっても意味がねえだろうが!」
父はそう怒鳴ったものの、鍬を放り捨てる手は途中で止まった。
ぎりぎりと柄を握り締めたまま、その濁った目には強い未練が浮かんでいる。
やがて大きく息を吐き、彼は鍬を自分の肩へ担ぎ直した。
「……いや、いい。俺が持つ」
「父さん、俺が持つよ」
レオナルドは二歩前へ出て、手を伸ばした。
だが父は身をかわし、そのまま彼の肩越しに、後方から迫ってくる黒い影へ視線を向けた。
そして首を横に振る。
妹の手を、彼の方へ押し出した。
「お前は妹を連れて走れ」
声は驚くほど静かだった。
生きるか死ぬかを話しているようには、とても聞こえない。
「だめだ!一緒に行くんだ!」
レオナルドは反射的に叫んだ。
「馬鹿な子だな」
父は肩を軽く叩き、引きつったような笑みを浮かべた。
「もう間に合わん」
そう言い終えると、そのまま地面へ腰を下ろしてしまう。
母は何か言いかけたが、結局は何も言わなかった。
ただ、小さく微笑んで、静かに夫の隣へ座り、その肩へ寄りかかる。
周囲でも、逃げる人々のあいだに少しずつ諦めが広がり始めていた。
白髪の老婆がついに歩けなくなり、家族に支えられて道端の木の下へ座らされる。
その嫁らしい女は、膝をついて泣いていたが、何を言えばいいのか分からないままだ。
別の若い夫婦は、まだ言い争っていた。
男は、女の支度が遅かったせいで遅れたと責める。
女は、役に立たない荷物をまとめるのにこだわったのはあなただと泣いて言い返す。
しばらく口論していたが、突然男は黙り込むと、幼い子どもを抱き上げ、妻の手を掴んで再び走り出した。
それでもなお、多くの人間はまだ走っていた。
老人を背負う者。
子どもを抱える者。
靴を片方落としても拾いに戻る余裕すらない者。
だが、列はどんどん鈍くなっていく。
息は荒くなり、足は重くなり、どうしようもない絶望が、見えない網みたいに全員へ覆いかぶさっていた。
目の前の人々の顔は、みな灰みたいに疲れ切り、死の影がすぐ後ろまで来ていることを知っていた。
レオナルドは、もう一度だけ父の腕を引いた。
だが、その手は静かに振り払われる。
「妹を連れて、生きろ」
背後から届いた父の声は、ため息みたいに軽かった。
レオナルドは半ば茫然としたまま妹の手を引き、林へ向かって小走りになった。
耳にはあちこちから泣き声が混ざって聞こえる。
だが頭の中は真っ白だった。
もう、自分には何もできない。
このゴブリンの大軍は、自分たちの手に負える相手じゃない。
残ったところで、増えるのは死体の数だけだ。
その現実が、胸の奥にどろりとした後悔を生んだ。
もっと剣が強ければ。
もっと力があれば。
騎士の誓いで口にした通り、もっと多くの弱い者を守れたんじゃないか。
だが次の瞬間、彼の脳裏には、さっき自分たちを追い越していった冒険者たちの姿がよみがえる。
あの連中ですら逃げたんだ。
だったら、自分が命を賭けて見知らぬ誰かを守る理由なんて、いったい何なんだ?
誓いか。
信念か。
そんな曖昧で目に見えないものは、本当に命と引き換えるだけの価値があるのか。
そもそも、それを本当に守りきれる人間が、この世に何人いるというんだ。
そう考えながらも、彼の足は自然と遅くなっていく。
そして、無意識のうちに振り返った。
列の最後尾へ。
最後まで皆の後ろに残っていた、あの若い戦士の姿へ。
――
――このまま走っても、森に入る前に必ず追いつかれる!
俺は足を止め、背後から迫る黒い群れを見つめながら、胸の中が重く沈むのを感じていた。
ゴブリンの軍勢はどんどん距離を詰めてくる。
その密集した足音は、まるで太鼓の連打みたいに、人々の心を一つ一つ叩いていた。
仮に運よく森へ入れても、逃げ切れはしない。
全員の体力が尽きた時点で、待っているのは一方的な虐殺だけだ。
もし俺がこの集団を見捨て、トーヴだけを連れて逃げるなら、脱出できる可能性はかなり高い。
だが、こいつらを囮にするような真似だけは、どうしてもできなかった。
俺は立ち止まり、トーヴのほうを振り返る。
ここまで妙に大らかだったこの子も、さすがに今は少し強張っていた。
左右を落ち着きなく見回しながら、麺棒を何度も手の中でこすり合わせている。唇もきゅっと結ばれていた。
少し離れたところでは、レオナルドも俺を見ていた。
あの金髪の民兵見習いは、いつの間にか鼻まで赤くして泣いている。
顔中涙でぐしゃぐしゃで、まるで泥を塗られた子猫みたいだった。
少し笑いそうになったが、今ここで笑うのはさすがに違う。
やがて、人々の足が一人、また一人と止まっていく。
視線がすべて俺の上へ集まった。
「だ、大人……」
地面へへたり込んでいた中年の女が、震える声で言った。
「わたしたちはもう走れません……。どうか、あなただけでも先に……。もう十分です。無理に守ろうとしなくても……」
「そうだ……」
別の誰かが続ける。
「あなたは、もうやれるだけやってくれた。だから……せめて、その恋人さんだけでも連れて逃げなさい。誰も責めたりしない……」
「だ、大人……もし双流城まで行けたなら、カラス通りの戦斧亭へ手紙を……女将に渡してもらえないか……」
差し出された手紙を見て、俺は小さく笑った。
そしてその封筒を、そっと相手の胸へ押し戻す。
それから、集まった人たちをぐるりと見渡し、わざと少し不機嫌そうな顔を作った。
「誰が止まっていいなんて言いました?」
少し強い口調で言う。
「さっさと走ってください」
「で、でも……どこへ……?」
泣きそうな声で誰かが聞き返した。
「だから、さっきから何度も言ってるでしょう。前の林です」
俺は指を前へ向けた。
「森を抜けて、そのまま道なりに二日進めば、トゥー・リバーズ・シティの城壁が見えてきます」
「道は分かります……!」
中年の男が拳を震わせながら言った。
「でも、でも後ろのあの化け物どもは……俺たちを逃がしません……!」
「まあまあ、そのへんは気にしなくていいですよ」
俺は肩をすくめ、できるだけ気楽そうに見えるよう笑ってみせた。
「トーヴ。俺の外套、絶対に無くさないでくださいよ」
「レオナルド。こっちの人たちのことは、後を頼みます」
それだけ言い残し、俺はゆっくりと振り向いた。
腰の剣を、静かに抜く。
火の光を受けて、刃がひどく冷たく光った。
俺はそのまま、ゴブリン大軍のいる方角へ向かって歩き始める。
一歩。
二歩。
三歩。
足取りは重くない。
むしろ、不思議なほど静かだった。
「——少し時間を稼ぎます!!!」
背後の声は、次第に遠のいていく。
泣き声も、誰かが呼ぶ声も、慌ただしい足音も、すべてがぼやけた背景音へ変わっていった。
前方の黒い波は、どんどん大きく、どんどん鮮明になる。
手に握られた武器の光も見える。
風に乗ってくる血の匂いも分かる。
俺は剣の柄を、さらに強く握り直した。
体の中を流れる血が、少しずつ熱を帯びていく。
……
ずっと後になってから。
チカ町から逃げ延びた人々は、オウム嘴の麓で迎えたあの夜を思い出すたび、必ず同じ光景を語るようになった。
火に呑まれる町を背に。
たった一人の少年が、長剣を手に、押し寄せるゴブリンの大軍へ向かって歩いていったことを。
その背中は、炎の中で長い影を引いていた。
歩みは少しも乱れず、迷いも一切なかった。
あの光景は、刻印みたいに、生き残った者たち一人一人の胸の中へ深く焼きついたのだ——