最強ギルドマスターは十年前のゲーム世界に転生した 〜未来知識だけを武器に、見習い傭兵から王座を目指す〜   作:窮北の風

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第39話 オークの森

 オークの森に立ちこめる霧は、まるで永遠に晴れることのない綿くずみたいだった。

 陽の光は差し込まず、頭上には幾重にも枝葉が重なっている。たまに風が吹けば葉がざわざわと鳴るが、鳥のさえずりは聞こえない。虫の羽音ひとつしない。

 何もかもが、ただひたすら静かだった。

 静かすぎて、自分の心臓の音まで聞こえてきそうなほどに。

 

 オークの木々は異様なほど背が高く、幹も太い。大人が二、三人で抱え込まなければ腕が回らないくらいだ。樹皮には暗い緑色の苔がびっしりと張りつき、ときおり枯れた蔓が枝の隙間から垂れ下がっている。その姿は、まるで死人の指のようにも見えた。

 だが、そんなオークの木々のおかげで助かったこともある。

 食糧が尽きてからというもの、皆は地面へ落ちたドングリを拾って飢えをしのぐようになっていた。

 ドングリは大きくはない。全体が茶色く、煮てから殻を剥けば、中の実はほくほくとしていて、かすかに甘みさえある。

 まともな食事の代わりにはならない。

 それでも、何も食べないよりはずっとましだった。

 

「食べすぎるな」

 ペトラは何度も皆へそう言い聞かせた。

「腹を壊す」

 だが、誰も聞かなかった。

 腹が減っているときに、自分の口を律するなんて簡単じゃない。

 

 案の定、しばらくすると吐き気や下痢を起こす者が出始めた。

 特にいちばん多く食べていた何人かの傭兵は、木の根元にしゃがみこんで腹を押さえ、顔色は紙みたいに真っ白になっていた。胆汁まで吐きそうな有様だ。

 トーヴは鞄をひっくり返して乾燥した薬草を何枚か探し出し、それを煮えた湯へ放り込んで、真っ黒な薬湯を作った。それを無理やり飲ませて、ようやく少し落ち着かせることができた。

 

 そんなふうにして、俺たちはまた三日、どうにか持ちこたえた。

 だが、俺の気持ちは日を追うごとに重くなっていった。

 なぜなら、ゲームの中と同じように“外へ転送される”という現象が、いつまで経っても起きなかったからだ。

 

 朝、目を開ける。

 すると、霧は相変わらず壁みたいに濃く、オークの木々は昨日とまったく同じ場所に立っている。

 位置ひとつ変わっていないように見える。

 外へ道を探しに出た巡回隊の隊員たちも、毎回肩を落として戻ってきた。

 朝から昼まで歩き続け、いくつも角を曲がったはずなのに、最後はなぜか野営地の反対側から顔を出す。

 まるで全員が巨大な球体の上をぐるぐる回らされているみたいだった。

 

 ペトラは探査経路を羊皮紙へ地道に書きつけていたが、線は東へ西へと絡まりあい、最後には本人ですら見ても何が何だか分からなくなっていた。

 それでも諦めきれなかったのだろう。

 ペトラは自ら二人を連れて森へ入り、木々へ印を刻みながら、ひたすら一直線に進んでいった。

 そして半日後、ふと顔を上げてみれば――刻みつけたその印が、真上の木にあった。

 

 俺の怪我はまだ完全には塞がっておらず、ほとんどの時間を天幕の中で過ごしていた。

 そのあいだに一つ、厄介な問題だけは片づける必要があった。あの傭兵どもだ。

 

 あいつらはレシオについて霧の奥へ消えはせず、結局この野営地の近くに留まっていた。

 ここ数日は妙に大人しく、これ以上騒ぎも起こしていない。だが、難民に手を上げた件まで、それで帳消しにするつもりはなかった。

 だから俺は、ペトラを通して条件を伝えさせた。

 毎日、巡回隊と一緒に食べ物を探し、外へ出る道も探すこと。それを三日間きっちりやり通したら、以前の件は水に流す。だが、もしまた問題を起こすようなら、そのときは容赦しない。

 傭兵たちは全員うつむいたまま何も言わなかった。

 

 だが、反論がないということは、受け入れたということでもある。

 もっとも、食べ物探しがそう簡単にいくわけじゃなかった。

 この森は、とにかく異様だ。

 鳥がいない。

 虫がいない。

 蟻一匹すら見当たらない。

 まるで、この世界で生きているのはあのオークの木々だけで、あとは全部まがいものなんじゃないかと思えてくるほどだった。

 オークの木々は、何も語らないまま、そこでじっと立っている。

 そして、その中へ閉じ込められた人間たちが、日に日に痩せ細っていくのを、ただ見下ろしているようだった。

 

 第九日目......

 ついに、すべての食糧がなくなった。

 若い者たちはまだ耐えられた。

 歯を食いしばり、腹の中へ水を流し込み、ごくごくと飲み干しては口元を拭い、そのままぼんやり座り込んでいる。

 だが、年寄りはそうもいかない。

 何人もの老人が、もう地面に横たわったまま起き上がれなくなっていた。目の窪みは深く落ち、頬骨だけが不自然に浮き上がり、まるで皮をかぶった骸骨みたいだった。

 

 第十日目......

 朝、俺はまだ天幕の中で横になったまま、今日はいったいどこへ食べ物を探しに行けばいいのかと、半ば惰性で考えていた。

 そのとき、天幕の布がばさっと捲られた。

 

 顔を覗かせたのはペトラだった、様子がおかしい。

「コロン」

 いつもより低い声だった、切迫したものが混じっている。

「まずい」

 

 俺は体を起こす。腹の傷が鈍く疼いた。

「何があったんです?」

「人がいなくなった」

 

 俺は一瞬、言葉の意味が飲み込めなかった。

 いなくなった?

 

 ペトラは言いながら、俺の上着を手に取って肩へかけてくる。

「野営地の東側にいた老人だ。一人暮らしで、年は七十を越えている。ここ二日、まともに何も食べていなかった」

 そこで一度、彼女は言葉を切った。

「昨夜、寝る前までは隣の家族と普通に話していた。受け答えもしっかりしていたから、皆そこまで気にしていなかったらしい。だが今朝、その家族が起きてみたら――老人だけが消えていた」

 ペトラの顔色は、さらに悪くなる。

「天幕は残っている。寝具もそのままだ。だが、本人だけがいない」

「......」

「最初は、朝早く目が覚めて、林の中へ用を足しに行ったんだろうと思った」

 ペトラは早口になっていた。

「だが、昼になっても戻らない。皆に聞いて回っても、誰一人見ていない。周囲も探した。だが、足跡一つ見つからなかった」

 

 俺は上着を整え、そのままペトラと一緒に急ぎ足で天幕の外へ出た。

 

 野営地の空気は、明らかにおかしかった。

 人々は三人、五人とかたまりになって集まり、ひそひそと声を潜めて話している。視線の奥には、隠しきれない恐怖が浮かんでいた。あの傭兵どもも隅のほうに固まっていて、顔色はひどく悪い。

 老人の天幕は野営地の東側にあった。

 もっとも、“天幕”といっても大げさなものじゃない。枝を何本か組んで三角形に立て、そこへぼろ布と葉っぱを被せただけの粗末な小屋だ。

 

 俺は腰をかがめて、その中へ潜り込んだ。

 

 中は狭い、一人が横になるのに、ようやくちょうどいい程度の広さしかない。

 地面には乾いた藁が敷いてあり、その上に薄っぺらい古い毛布が一枚、きちんと畳まれて置かれていた。乱れた形跡はなく、誰かがめくった様子もない。

 脇の木の台には、水差しが一つ、静かに立っている。注ぎ口は上を向いたままで、木栓も外されていない。まるで、ずっと触られていないみたいだった。

 そして、俺の目をいちばん引いたのは、隅に置かれていた一足の草履だった。

 靴底には乾いた泥がこびりつき、甲の上には細い草の切れ端がまだ何本か乗っている。それが、きっちり揃えて置かれていた。

 つま先は外向き。

 まるで、主人がすぐ戻ってきて、そのまま足を差し入れるつもりだったみたいに。

 

 俺はしばらく、その草履を見つめていた、胸の中が、少しずつ沈んでいく。

 

 ......老人は、この小屋から出ていない!

 草履も履いていない。寝具にも手をつけていない。水差しもそのままだ。つまり、起き上がってすらいない。

 なのに、人だけが消えた。

 四方が透けて見えるような枝組みの粗末な小屋から、罠も仕掛けも何もないのに、まるごときれいに消えてしまったのだ。

 

 俺はゆっくりと身を起こし、外へ出た。

 

「コロン、何か分かったのぉ?」

 トーヴは相変わらず、妙に勘が鋭い。

 

 俺はまず彼女を見て、それからペトラへ視線を移し、重い顔で一度うなずいた。

 そのあと、今度はゆっくり首を横に振る。

 ......本当のことは言えない。

 今この状況で、飢えよりも危険なのは混乱だ。

 もし俺が、「あの老人は得体の知れない力に引きずられて、別の空間へ連れ込まれたかもしれない」なんて口にしたら、明日の朝を待つまでもなく、今夜のうちに発狂する奴が出る。

 

「ペトラ」

 俺は目だけで合図を送った。

 話がある、と。

 

 ペトラはすぐにそれを理解したらしく、無言でついてくる。

 俺たちは人混みから少し離れた、大きなオークの木の根元まで移動した。霧のせいで周囲はひどく曖昧で、遠くにいる人影も、灰色の塊がぼんやり揺れているようにしか見えない。

 いつの間にか、トーヴまで後ろについてきていた。

 だが彼女は黙ったまま、少し横で静かに立っている。

 

「......もう、分かっていますよね?」

 先に口を開いたのは、俺のほうだった。

 

 ペトラは腕を組み、眉間に深い皺を寄せたまま、短くうなずく。

「老人はあの小屋を出ていない。毛布も、水差しも、草履も、そのままだ。......普通じゃない」

「はい」

「じゃあ、どこへ消えた?」

 ペトラの声は低かった。

 抑えてはいるが、その奥にはかすかな震えが混じっている。

「人間が、一人で、跡もなく消えるなんてことがあるのか?」

 

 俺は数秒、黙った。頭の中で、用意しておいた嘘をもう一度なぞる。それから、ゆっくり口を開いた。

「昔、ある老冒険者から聞いたことがあります。アラレン大陸には、ごくまれに......“亜空間”が現れることがあるそうです」

「亜空間?」

「この大陸のどこかに、裂け目みたいなものが開くんです。その裂け目の向こうには、別の空間がある。目では見えないし、手で触れることもできない。でも、確かに存在している」

 俺は少し間を置いて続けた。

「そして、ときどき、その空間が近くにあるものを“引き込む”ことがあるそうです。人間でも、動物でも……場合によっては木一本でさえ」

「どういう条件で引き込まれるのかは、その冒険者も詳しく知らなかったらしいです。道を間違えたのかもしれないし、何かの仕掛けに触れたのかもしれない。極端な話、水を一口飲んだだけでも起こるかもしれない――そんな曖昧な話でした」

 

 話し終えるのとほぼ同時に、横から小さく「けほっ」と咳き込む音がした。

 見れば、トーヴがちょうど水を一口飲んでいたところで、盛大にむせている。顔が少し赤い。

 

 俺は、それには気づかなかったふりをした。

「俺は、このオークの森そのものが“亜空間”なんじゃないかと思っています。俺たちが出られないのは、道に迷っているからじゃない。最初から、別の世界の中へ閉じ込められているからです」

 

 ペトラは、しばらく何も言わなかった。

 ただ視線を落とし、落ち葉に覆われた地面を見つめる。唇は細く結ばれ、そこから先の言葉を慎重に選んでいるようだった。

 やがて顔を上げる。

「……じゃあ、消えた老人は」

 声は、先ほどよりさらに低い。

「もっと深い亜空間に引き込まれた、ってことか」

「そうかもしれません」

「なら、どうする?」

 ペトラの口調が少しだけ鋭くなった。

「このまま見ているだけか? 次に消えるのが別の誰かだったらどうする。何か手を打たないとまずいだろう」

「もちろんです」

 俺は深く息を吸った。

「だから、今夜は俺が見張ります」

 

 ペトラは一瞬、目を見開いた。すぐに首を横へ振る。

「駄目だ。まだ怪我が――」

「十日も寝てたんです。傷口はもう塞がり始めてます」

 俺は彼女の言葉を遮った。

「それに、あなたは巡回隊の副隊長だ。昼間は人をまとめて、食べ物を探しに出ないといけない。体力は残しておくべきです」

 

 ペトラは何か言い返そうとして、口を開きかけた。だが結局、反論は出てこなかった。

 複雑な目で、ただこちらを見る。感謝を言いたいのかもしれない。

 でも、今の状況で何を言ってもしっくりこない――そんな顔だった。

 

「......分かった。それでいく」

 そこで話がまとまりかけたとき、横からトーヴがひょいと顔を出した。

「でもコロンって、いつからそういうことまで知ってたのぉ? 前はそんなお話、ぜんぜんしてくれなかったよねぇ?」

 好奇心に満ちた、いつもの声だ。

「そ、それはさっきも言ったでしょう。冒険者から聞いたんです。トーヴさん、今はそういう話をしてる場合じゃないです。お願いだから話を横道に逸らさないでください」

「ふぅん......」

 トーヴは納得したような、してないような顔で首を傾げた。

 それから何を思ったのか、水筒を差し出してくる。

「じゃあ、お水飲むぅ?」

「......ありがとうございます。ちょうど喉は渇いてましたけど――トーヴさん!!」

 トーヴは「はぁい」とでも言いたげに口を結ぶと、素直に二歩ほど後ろへ下がった。

 目は三日月みたいに細くなっていて、明らかに面白がっている。

 

 ペトラはそんな俺たちを交互に見た。口元がわずかに動く。笑いそうになったのかもしれない。

 けれど結局、小さく息をついただけで、そのまま向きを変えた。

「今夜の見張りを組み直す。私はそっちを片づける」

 それだけ言い残し、いつものようにきっぱりとした足取りで去っていく。

 

 俺はその場に立ったまま、遠くの灰白色の霧を見つめた。

 胸の奥には、石でも詰め込まれたみたいな重さが残っている。

 今夜、何を見ることになるのか。

 老人を連れ去った“何か”は、また現れるのか。

 分からない。

 でも、一つだけはっきりしていることがあった。

 もう、天幕の中で寝転んだまま何もしないでいるわけにはいかない。

 

 なぜなら、夜はすぐそこまで来ていたからだ......

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