最強ギルドマスターは十年前のゲーム世界に転生した 〜未来知識だけを武器に、見習い傭兵から王座を目指す〜 作:窮北の風
野営地の中央にある空き地には、剣が空気を裂く音がひっきりなしに響いていた。
難民たちは座ったり立ったりしながら輪になって、その真ん中で三時間以上も剣を振り続けている少年を見つめている。誰の目にも、驚きがはっきり浮かんでいた。
「コロン様、まだ剣を振れるのか?」
「若いってすげえな......!」
「何言ってんだ、若さじゃなくて実力だろ!」
「でも傷だってまだ治りきってないんじゃないのか?さすがに無茶しすぎだろ......」
ペトラは少し離れた場所に立っていたが、最初に抱いていた高揚は、とうに心配へ変わっていた。
たしかに、コロンから教わった剣技や細かなコツは、どれも目から鱗のものばかりだった。説明は分かりやすく、要点もはっきりしていて、訓練所で受けたどの授業よりもずっと実践的だった。
だが今の問題は、それを覚えられるかどうかではない。
コロン本人の身体が、こんな無茶に耐えられるのかどうかだ。
「コロン、私はあなたに剣を教わって本当に感謝している。だが、今じゃなくてもいい。外へ出てから稽古したって遅くはない」
「はぁ......じゃあ、今日はここまでにしましょう」
俺は大きく息を吐いた。
手の中の長剣は鉛みたいに重い。長いこと何も食べていないせいで、胃の奥が焼けるように痛み、むかつきが波みたいにこみ上げてくる。
空腹がひどすぎる。
もうこれ以上は無理だ。
頭もくらくらし始め、こめかみが脈打っていた。目の前のペトラの姿が二重にぶれて、重なったり離れたりしている。
「もう立っているのもやっとじゃないか」
ペトラが慌てて手を伸ばしてきた。
だが、その指先が俺の腕に触れる寸前――
周囲の空気が、突然びりっと震えた。
次の瞬間、ついさっきまでそこにいた若い戦士は、まるで最初から存在しなかったみたいに、きれいさっぱり消えていた。
ペトラの手は宙に取り残されたまま、指先だけがかすかに曲がる。
目は大きく見開かれていた。
「コ......コロン......」
顔から血の気が引いていく。
唇がわずかに震えたが、それ以上大きな声にはならなかった。
――あの夜、一人でゴブリン大軍の前に立ちはだかった少年。
――みんなが絶望したとき、真っ先に立ち上がった人間。
――ついさっきまで自分に剣を教えていた相手。
そのコロンが、何の前触れもなく、こうして消えた。
兆候は、一つもなかった。
――――
俺は、視界が突然暗くなるのを感じた。
まるで誰かが、いきなり窓の外の幕を引きずり下ろしたような感覚。
いや、違う。
幕じゃない。
世界そのものが、ほんの一瞬で別のものに差し替えられたのだ。
直前までそこにいたはずのペトラの顔は、もうどこにもない。
代わりに目の前にあるのは、太いオークの幹だった。
俺は反射的に振り返り、周囲を見回した。
すると、自分がまったく見知らぬ場所に立っていることに気づく。
そこは、ちょうどサッカー場くらいの広さを持つ楕円形の空き地だった。
周囲は、巨大なオークの木々にぐるりと取り囲まれている。一本一本があまりにも太く、二、三人がかりでも抱えきれないほどだ。まるで天然の城壁みたいに、外界との境を完全に閉ざしていた。
空き地の中は、これまでいた場所よりずっと霧が薄い。
中央には低い土の丘があり、その上に小さな木造家屋がぽつんと建っている。
空気の中には、不思議な甘い匂いが漂っていた。
何の匂いかは、すぐには言えない。
焼きたてのパンにも似ているし、蜂蜜にも似ている。そこへ木の香りがほんの少し混ざったような、奇妙に心を引く匂いだった。
さらに妙なことに、その匂いを吸った途端、さっきまで俺を苦しめていた吐き気や眩暈、全身の重さが少しずつ消えていく。
なのに、空腹だけはまったく和らがない。
それどころか、むしろ前よりひどくなった。胃の中を見えない手で掻き回されているみたいに、空腹感が激しく暴れ出す。
「......ようやく、入れたか」
俺は小さく息をついた。
“亜空間”へ入る方法については、どうやら俺の推測が当たっていたらしい。
実のところ、“オークの実を食べないこと”そのものが条件ではなかった。
もしそれが本当なら、オークの実を食べていた連中まで消え始めたことの説明がつかない。
名簿を何度も見返した結果、俺は別の共通点に気づいていた。
消えた連中は、ほとんどが一人暮らしで、手元の食糧が少なく、誰よりも先に飢え始めていた者たちだったのだ。
だから俺は、かなり思い切った仮説を立てた。
この“亜空間”へ引き込まれる本当の条件は――極限まで飢えることではないか、と。
そう考えれば、オークの実を食べなかった難民たちが優先して消えた理由も説明できる。
オークの実で腹を誤魔化せなかった分、手持ちの食糧を食い尽くしたあと、他の者より早く“限界”へ達したわけだ。
だからこそ、俺は今日あえて“剣の稽古”なんて真似をした。
一つはもちろん、ペトラに実用的な剣の知識を教えるため。
だが、もう一つの目的は別にある。
俺自身の体力を一気に削り、できるだけ短時間で“極度の飢餓状態”へ踏み込むこと。
低血糖、眩暈、四肢の脱力――あの状態こそ、俺が狙っていたものだった。
そして幸い、賭けには勝った。
俺はようやく、この“亜空間”へ入ることができたのだ。
次は、この異変の真相を突き止める番だ。
......ただ、その先に何が待っているのかまでは、まだ分からない。
————————
遠くに見えるあのぽつんとした小屋は、薄い霧の向こうで揺らめいていた。
足元の苔は厚く、やわらかい。踏みしめるたびに、かすかな「きゅっ、きゅっ」という音が返ってくる。まるで何かが足の裏へ向かって、ひそひそと囁いているみたいだった。
俺はこの空き地の中を、もうたっぷり三十分は歩いている。
それなのに、目で見ればそう遠くもないはずの距離が、まるで引き延ばされたみたいに縮まらない。
進んでも進んでも、終わりに辿り着かないのだ。
それに――気のせいかもしれないが、小屋へ近づくほど、耳元に泣き声のようなものが混じり始めた。
最初は遠かった。
細くて、かすかで、風が梢を抜けるときの低いうなりみたいな音。
だが、距離が縮まるにつれて、その声は少しずつ輪郭を持ち始める。しかも一人分じゃない。
いくつも、いくつも重なっている。
男の声。
女の声。
老人の声。
子どもの声。
それらが全部混ざり合って、低く沈んだ哀しみのうねりになっていた。
そしてついに、黄昏が近づいた頃。
俺は高くもないその土の丘を登り切り、小屋の前へ辿り着いた。
――その瞬間、目の前の光景に足が止まった。
丘の上だけ、冷えた霧は完全に消え失せていた。
代わりにそこにあったのは、あたたかな橙色の火の光だ。
小屋の前の広場には、木のテーブルがいくつも並べられ、それらが大きな輪を描くように配置されている。
どのテーブルの上にも、これでもかというほど料理が積み上げられていた。
丸焼きの子豚は皮がつやつやと脂を光らせている。
炭火で炙られた川魚からは香ばしい匂いが立ちのぼる。
色とりどりの果物は山みたいに積み上がり、茸のスープは鍋の中でぐつぐつと音を立てていた。
そして、そこに座っているのは――これまで消えたはずの難民たちだった。
皆、椅子に腰かけ、狂ったように食べている。
肉をむさぼり、果物をかじり、パンをちぎって口へ押し込む。
頬を丸く膨らませ、口元を油でべたべたにしながら、その顔には満ち足りたような笑みさえ浮かんでいた。
人混みの奥には、レシオの姿まであった。
片腕を失った“鉄級”戦士は、隅の席に座り、残った片手でローストチキンの脚を掴み、口の周りを脂まみれにして喰らいついている。
その顔には、満足しきった笑みが張りついていた。
「ここは......“美食”の空間なのか......?」
思わず、そんな言葉が漏れた。
もし本当にそうなら、最初から皆をここへ入れてしまえばよかったのではないか。
そんな考えが一瞬だけ頭をよぎる。
だが、その瞬間、自分で自分の考えを即座に否定した。
違う。
おかしい。
俺は目を細め、あの“幸せそうな”顔を一人ずつ観察した。
すると、すぐに分かった。
顔の表情と、目の中身がまったく噛み合っていない。
笑ってはいる。
だが、その目には喜びなんて欠片もない。
あるのは、悲しみ、拒絶、そして底の見えない恐怖だけだ。
俺がここへ現れたことに気づいても、誰一人として声をかけてこない。
立ち上がって迎えようとする者もいない。
ただ、みんな一斉に顔だけこちらへ向け、食べ物を口へ運ぶ手は止めないまま、じっと俺を見ていた。
難民たちの視線の中には、期待があった。
焦りがあった。
それから、ほとんど懇願みたいな色も混ざっていた。
一方でレシオの目には、露骨な嘲りと、他人の不幸を愉しむような色が浮かんでいる。
「......まずいな」
俺は反射的に、一歩だけ後ろへ退いた。
何が起きているのか、まだ分からない。
だが、状況が掴める前に不用意に踏み込むのは危険すぎる。
こいつらの様子もおかしいし、この空間そのものもおかしい。
空気に混じる甘い香りも、幸福そうな食卓の光景も、全部が胡散臭い。
――いったん離れる。
そう判断し、俺が踵を返した、そのときだった。
左手に、ひやりとした感触が触れた。
小さな手だ。
冷たい。
だが、その冷たさは氷よりも質が悪かった。
触れられた瞬間、指先から心臓まで、血も骨も全部が一斉に凍りついたような感覚が走る。
俺の身体は、その場で完全に固まった。
必死に眼球だけを動かし、左を見やる。
そこには、半透明の小さな男の子が立っていた。
いつの間に現れたのか、まったく分からない。
七、八歳くらいだろうか。
身にまとっているのは、古びた麻のシャツ。
髪はぼさぼさで、輪郭もどこか曖昧だ。
だが、その目だけははっきりしていた。
まっすぐ、俺を見ている。
「......幽霊か」
心の中で呟く。
俺は振りほどこうとした。
だが身体はぴくりとも動かない。
頭の中では必死に命令を飛ばしているのに、そのすべてが何か見えない力に呑み込まれていく。
動かせるのは、目だけだった。
くそ!!
胸の内で悪態をつきながら、無理やり気持ちを静める。
目の前にいるこの幽霊の少年こそ、おそらく“ロン”だ。
そしてこの、相手の身体を強制的に縛りつける力――これは、もはや普通の魔物の範疇を完全に超えている。
俺が焦りを抑えきれずにいると、ロンの幽霊は何も言わないまま、俺の手を引き、そのまま食卓の輪のほうへ歩き出した。
並んだ料理がどんどん近づいてくる。
長いことまともに食べていない俺の腹は、それだけで痛いほど鳴った。
不思議なことに、ここまで来ると恐怖は少しだけ薄れていた。
代わりに、妙にくだらない考えが頭をよぎる。
――どうせ死ぬなら、せめて腹くらい満たしてから死ねたほうが、まだましなんじゃないか。
ロンは、俺をどこかの席へ座らせるつもりなのだと思った。
だが違った。
彼は俺を、円を描く木のテーブルたちの中心へ連れていく。
そこにあったのは、一つの黒い巨石だった。
大きさは、ちょうど大きなトレーニングボールくらい。
表面はごつごつと荒れ、何度も烈火で炙られたあとの炭みたいな色をしている。
そして、その黒い岩の中央には、同じく黒い剣の柄が、まっすぐ突き立っていた。
柄も岩も、ほとんど同じ色をしていて、ここまで近づかなければ、そこに剣が刺さっていること自体気づけなかっただろう。
気づけば、周囲の喧騒が消えていた!
俺は眼球だけを動かし、周りを見る。
さっきまで狂ったように食べ続けていた人々が、みな手を止めていた。
食べ物をテーブルへ置き、顔だけをこちらへ向けている。
火の明かりの中で、その顔は明るくなったり暗くなったりし、目に浮かぶ色も、すでに感情を失ったみたいに空虚だった。
何が起きるのか、まるで分からない。
そのとき。
隣に立っていたロンの幽霊が、いきなり俺の手を掴んだまま、黒い剣の柄へ押しつけた......