最強ギルドマスターは十年前のゲーム世界に転生した 〜未来知識だけを武器に、見習い傭兵から王座を目指す〜   作:窮北の風

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第47話 アルベルト・フォンの疑念

 時間は十分ほど前に遡る。

 

 アルベルトは手綱を軽く引き、跨っている白馬の歩調を緩めた。

 朝露村《モーニングデュー村》で見た光景が、いまだに脳裏から離れない。あたりに散乱した子ども向けの識字本。血に染まった布人形。崩れた土壁の下から突き出していた、小さな手……。彼は一度目を閉じ、すぐにまた強く開いた。

 

 もともと、彼はただ本を届けに行っただけだった。

 月に一度、馬に乗り、従者を一人連れ、双流城《トゥー・リバーズ・シティ》の古書商からかき集めた子ども向けの本を大箱いっぱいに積んで、南部国境沿いの村々を回る。

 それを始めたのは十四歳の頃。今年でもう七年目になる。

 父――双流城民兵訓練営の首席教官――は、その行いを鼻で笑っていた。

「騎士の使命とは剣を振るうことであって、本をめくることではない」

 

 だが、アルベルトはそうは思わなかった。

 先王が定めた騎士規範の第一は「勇気」、第二は「仁愛」だ。

 貧しい家の子どもたちに本を届け、文字を教えることのどこが、仁愛に反するというのか。

 しかし今回は、その本箱を開く暇すらなかった。

 朝露村《モーニングデュー村》は、すでにこの世から消えていたのだ。

 

 三十数戸が寄り集まっていた小さな村は、ゴブリン軍に蟻塚を踏み潰されるみたいに蹂躙されていた。彼が着いたときには、大火はすでに丸一日燃え続けており、灰の中には焼け焦げた梁が何本か残るだけだった。

 アルベルトは瓦礫の中を半日かけて掘り返し、崩れた地下室や枯れ井戸の底から、どうにか八人の子どもを助け出した。

 だが帰り道、その背後にはずっと数匹のゴブリン斥候がつきまとっていた。

 あの緑皮の小鬼どもは正面からは来ない。ただ遠巻きに追い、時折冷やかすように矢を一本放ち、まるで家鴨でも追い立てるかのように彼らを南へ南へと追いやっていく。

 

 アルベルトは歯噛みした。

 だが、どうしようもなかった。

 彼は馬術こそ悪くないものの、剣の腕前は自分でも赤面するほど頼りない。ましてやそばには丸腰の子どもたちがいる。

 そうして彼は、まるで野良犬みたいに、たかが数匹のゴブリンに二日も追われ続けた。

 そして、あの難民の一団と出会ったのだ。

 

 隊を率いていた白髪の女は、たった一度の突撃で、背後につきまとっていたゴブリン斥候を片づけてしまった。

 その剣は稲妻のように速く、身のこなしは風のように軽い。銀白色の長髪が陽光の中で弧を描き、あまりに鮮やかだった。

 アルベルトは馬上で呆然とし、礼を言うことすら忘れた。

 

 その夜、彼は眠れなかった。

 自分の天幕は難民隊の外縁に張られていたが、彼の頭の中には一晩中、あの銀髪の女の姿しかなかった。

 名前は何と言ったか。

 ――ペトラ。

 そうだ、ペトラ。チカ町巡回隊の副隊長。

 

 彼はこっそり聞き回り、彼女の名前も役職も、ついでに水を飲むときに使っている杯の色まで把握した。

「これが、いわゆる一目惚れというものなのだろうな……!」

 アルベルトは寝返りを打ちながら、何度もそう思った。

 まさに詩篇で歌われる、運命によって定められた邂逅ではないか。

 

 数日も経たぬうちに、彼は彼女との間に生まれる子どもの名前まで考え始めていた。

 男の子ならラインハルト。

 女の子ならエリナ……いや、それでは少々平凡すぎる。セシリアのほうが、より高貴な響きを備えているだろうか――。

 だが、その熱は数日を経るごとに、少しずつ冷めていった。

 否、正確には、冷えたのは心の一部だけで、代わりに別の熱が胸の奥に広がり始めた。

 苛立ちだ。

 ペトラは、ほとんど四六時中あの黒髪の男と一緒にいた。

 昼は隊列の先頭で並んで歩き、夜は篝火のそばで剣を交える。ときどき彼女は笑う。その笑みは、目元を三日月のように細め、かすかに八重歯を覗かせるような柔らかなものだった。

 あの笑顔を、アルベルトは他の誰に向けるのも見たことがない。

 

 彼は落ち込み、食欲すら失った。

 どうしてだ。

 なぜだ。

 あの黒髪の男の、どこがいいというのか。

 着ているのはありふれた木綿の上衣で、袖口などすり切れて毛羽立っている。歩く姿勢も、ときどき妙に猫背になる。食事の所作だって、少しも洗練されていない。

 もちろん顔立ちは悪くない――いや、正直に言えば、かなり整っている。

 だが、顔がいいからといって何だというのだ。

 貴族ですらない平民が、なぜペトラの心を奪える?

 

 アルベルトは密かに、その男について探りを入れた。

 すると、驚くべき話ばかりが耳に入ってくる。

 その男――コロンという名の若者は、この難民隊にとって完全に中心人物なのだという。一人でゴブリン大軍を食い止め、単独で亜空間へ踏み込み、閉じ込められた全員を救い出した。剣の腕も人外じみていて、あのペトラでさえ彼に剣を学んでいる……。

 難民たちの口から語られるそれらの逸話は、一つ一つが吟遊詩人の英雄譚よりも大げさに聞こえた。

 なかでもアルベルトが最も引っかかったのは、コロンが「騎士様」だと囁かれていることだった。

 

「騎士、だと?」

 彼は鼻で笑った。

 たしかに、コロンには人望がある。

 だが、その立ち居振る舞いは貴族とは程遠い。

 どこの貴族が難民と一緒に森へ入り、薪拾いなどする? どこの貴族が洗ってもいない野生の果実を、その場で掴んで口へ放り込む? 挙げ句の果てには、食事に二本の木の枝を使っていた。そんな光景、まともな貴族の食卓であるはずがない。

 この男は、この世界の人間ではないか、あるいは辺境も辺境の寒村育ちなのだろう。

 だが、ただの田舎者が、あれほど高い剣の腕を持っているはずがない。

 

 そこで、アルベルトの胸の中にある考えが浮かんだ。

 ――もしや、あれは偽物ではないのか。

 腕は立つ。

 話も上手い。

 人心の動かし方も心得ている。

 つまり、強くて、巧妙で、女を騙すことにも長けた、そういう手合いなのではないか。

 その疑念が一度芽生えると、もう払い落とせなくなった。

 

 彼は数日かけて観察し続けた。

 観察すればするほど、自分の見立てが正しいように思えてくる。

 コロンのペトラへの態度は、表面上こそ淡々としている。だが、それが逆に怪しい。あれは、いわゆる“押して引く”という手口ではないか。

 ペトラのあの視線は、完全に魅入られた女のものだ。

 難民たちの崇拝だって、巧みな話術で導かれた結果と見るべきだろう。

 

「いけない」

 アルベルトは手綱を強く握りしめた。関節が白くなるほどに。

「たとえ私自身がペトラ殿を得られぬとしても、あのような男に欺かせるわけには参りません」

 そう決意すると、彼は深く息を吸い込み、そのまま馬首を隊列の前方へ向けた。

 

 ――――

 

「本当に、その馬を俺に貸すつもりですか?」

 俺は軽く眉を上げた。

 相手の返事を待つこともなく、そのまま手綱を受け取る。

 そして、そっと馬の首筋へ手を置き、やさしく掻いてやった。

 

 純血のペイセ馬は、俺の指先の下で毛並みをかすかに震わせた。鼻先からは力強い息がふっと漏れ、紅玉みたいな目に俺の姿が映り込む。

 

「ペイセ馬――原産は西南のエメラルド草原」

 俺は馬の首を撫でながら、何でもないことみたいに口を開く。

「見た目が美しく、知能も高く、主人への忠誠心も強い。それに、全身の真っ白な毛並みはとにかく目立つ。だから値も張るし、儀礼用の馬として扱われることも多い。貴族が身分や財力を誇示する道具として使いたがるのも、この種ですね」

 そこで少しだけ手を止め、馬体を見渡した。

「あなたのこの一頭、かなりの上物です。相当な金額がかかったでしょう。それを本当に俺へ?」

 

 アルベルトの胸が、ひゅっと冷えた。

 まさか、この男が一目で馬種を見抜くとは思わなかった。

 それだけじゃない。ペイセ馬についての知識が、妙に細かい。そこらの田舎者が知っていていい内容じゃない。旅商人だって、ここまで淀みなく口にはできないはずだ。

 

 だが、彼はすぐに内心を立て直した。

 知っていたから何だというのだ。

 どこぞの吟遊詩人から聞きかじったのかもしれないし、旅の途中で偶然目にしたことがあるだけかもしれない。世の中には、そういう妙な偶然もある。

 それに、肝心なのはそこではない。

 前の二日間で、アルベルトはこの男が馬へ乗る姿をちゃんと見ている。

 あの不自然に固い上体。

 置き場の分からない脚。

 どう見ても、ろくに馬へ乗り慣れていない素人そのものだった。

 ふん、と彼は心の中で鼻を鳴らす。

 騎士が馬に乗れないなど、そんな話があるものか。

 

 いや、仮に百歩譲って相手が馬種を言い当て、多少は馬にも乗れたとしても――この白馬は別だ。

 このペイセ馬は仔馬の頃から彼と共に育った。気位が高く、主人を選び、気性も決して穏やかではない。馬房の世話係とアルベルト本人以外、まともに乗りこなせた者はいないのだ。実際、彼の父でさえ二度ほど振り落とされたことがある。

 そんな馬へ、よそ者が乗れるはずがない。

 せいぜい鞍に跨った瞬間、道端の泥溝へ叩き落とされるのが関の山だ。

 そうなれば、恥をかくのは相手のほう。

 しかも自分は、その場で“偽騎士”の化けの皮を剥がしてやれる。

 

 アルベルトはこっそり視線を横へ滑らせ、不遠处に静かに立つ銀髪の少女――ペトラを盗み見た。

 そして、口元に自信ありげな微笑を浮かべる。

 次に胸を軽く叩き、貴族らしい気前のよさと、どこか芝居がかった朗らかさを滲ませながら言った。

「もちろんにございますとも。どうぞご安心ください。わが家の財力をもってすれば、閣下にお乗りいただくなど、何ほどのこともございません」

 わずかに顎を上げ、続ける。

「むしろ、閣下のような大英雄にご満足いただけるのであれば、この一頭をそのまま献上したとて、家の者は一言たりとも異を唱えますまい」

 

 俺は頷いた。

 もちろん、相手の腹の内くらい最初から分かっている。

 

 このアルベルト・フォンという若者、ここ数日ずっと、無意識みたいな顔で何度もペトラのほうへ視線を送っていた。

 その目は、片想い中の男子学生とまったく同じだった。

 慎重で、でも隠しきれないほど憧れが滲んでいる。

 別に、自由に恋をするななんて言う気はない。まして、ゴブリンに蹂躙された廃墟の中から八人の子どもを救い出したという話が本当なら、人柄だってそう悪くはないだろう。

 ただ――

 俺という“恋敵”を踏み台にして、想い人の前で格好よく見せようとするなら、ちょっと期待外れに終わるだけだ。

 

 俺はふと顔を横へ向け、すぐそばにいたペトラを見る。

 声音は、まるで今日のじゃがいもがきちんと焼けたかでも尋ねるみたいに平坦だった。

「ペトラ。馬へ乗るときの要点って、何です?」

「……えええ?」

「……は?」

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