最強ギルドマスターは十年前のゲーム世界に転生した 〜未来知識だけを武器に、見習い傭兵から王座を目指す〜 作:窮北の風
ペトラはわずかに目を見開いた。
コロンがいきなりそんなことを聞いてくるとは、さすがに予想していなかったらしい。
なにしろ二日前、彼女はその“見事な”騎乗技術を、身をもって知ることになったばかりだった。あのときの彼のぎこちない様子ときたら、自分が初めて馬に乗ったころを思い出すほどで、何度も落馬しかけていた。
結局、最後には自分が彼の後ろへ乗り、ほとんど手取り足取りでしばらく教えてやって、ようやく前へ進ませられるようになったくらいだ。
それなのに今になって、また“馬に乗るコツ”を訊いてくる。
いったい何を考えているのか。
下手なら下手で素直に認めればいいものを、妙に自信ありげな顔をしているのが余計に始末が悪い。まさか、誰かに二言三言教わっただけで騎術が身につくとでも思っているのだろうか。
……とはいえ、アルベルトの前でコロンに恥をかかせるわけにもいかない。
そう判断したペトラは、余計な感情を顔から消し、短く答えた。
「重心は低く落とす。脚はしっかり馬腹で挟む。手綱は張りすぎず、緩めすぎず。視線は前だ」
そこで一拍置く。
「いちばん大事なのは――馬に『お前が乗っている』と分からせることだ。『馬に運ばれている』んじゃない」
その隣で、アルベルトは露骨な嘲りを目に浮かべた。
やはり、この黒髪の若者は騎術を身につけていない。
こんな場で、今さら聞きかじりの知識だけで乗り切ろうとしているのだ。
もし騎馬というものがそんなに簡単に身につくのなら、自分はいっそチーズに頭から突っ込んで死んだほうがいい。
そう思うと、彼の心にはますます余裕が湧いてきた。
「結構です、ペトラ。騎乗の要点をきちんと失念しておられないようで、何よりでございます」
俺は笑って頷いた。
もっとも、その言葉は表向きのもので、本当の意識は目の前に浮かんだ光幕へ集中していた。
【新規スキルを検出――騎術】
【スキルポイントを5消費して習得しますか?】
ペトラとレオナルドへ剣術を教え続けてきたおかげで、俺の残りスキルポイントはすでに15まで溜まっている。
騎術を覚えるには十分だった。
俺は鞍を掴み、片足を鐙へ差し込む。
動作そのものは、ほんの一瞬前まではどう見ても不慣れだった。
だが次の瞬間、身体がふわりと宙を切って鞍へ収まるころには、その動きは見違えるほど滑らかになっていた。まるで何年も戦場を駆けてきた老騎士みたいに、無駄がない。
すると、ペイセ馬は即座に反応した。
耳をぴたりと後ろへ伏せ、首筋を弓なりに反らし、前脚で地面を不機嫌そうに掻く。
見慣れぬ騎手を振り落とす前兆だ。こちらが少しでも慌てれば、すぐさま暴れて地面へ叩きつけるつもりだったのだろう。
だが、俺は慌てなかった。
空いている右手を素早く伸ばし、首の第八頸椎と第九頸椎のあいだにあるわずかな隙間へ、指先を正確に当てる。
そのまま、ほんの少しだけ力を込めて、内側へ引っかけるように押し込んだ。
そこはペイセ馬という馬種だけが持つ急所で、刺激されると一瞬だけ全身が硬直する。
果たして、さっきまで荒々しく暴れていたペイセ馬は、まるで時間を止められたかのように、その場でぴたりと固まった。
ただ、血のように赤い両目だけが、しきりに後ろを振り返ろうとしている。
俺は小さく笑うと、左手を手綱から離し、馬の首筋を軽く叩いた。強すぎず、弱すぎず。
――静かにしろ。敵じゃない。だが、好き勝手もさせない。
そんな意思を伝えるように。
ペイセ馬は数度だけ身をよじった。
だが、背の上の人間に危害を加える意思がないと悟ると、耳がゆっくりと元の位置へ戻っていく。荒かった鼻息も、少しずつ落ち着いていった。
「いい子だ」
俺は馬が静まったのを確かめてから、ようやく右手を引き、背筋を伸ばして横を向く。
アルベルトはその場で呆然としていた。
口は半開き、目はこれ以上ないほど丸くなっている。視線が、俺とペイセ馬のあいだを何度も往復していた。
――これは、本当に自分のペイセ馬なのか?
そんな顔だった。
おいおい、どうした。
もっと暴れろ。
うちの父親を振り落とし、執事を蹴り飛ばしたあの気性はどこへ行った。
彼は黒髪の青年へ目を戻し、急に胸の奥がざわつくのを感じた。
まさか……この男、本当に馬に乗れるのか?
いや、“乗れる”どころではない。
“精通している”。
「……こ、こんなことは、あり得ない」
アルベルトは、ほとんど自分にしか聞こえない声でそう呟いた。
だが、現実は目の前にある。
粗布の服を着て、食事の作法もどこか雑に見えるこの若者が、ペイセ馬の品種を見抜き、しかも数秒で手懐けてしまったのだ。
そんな眼力と騎術は、双流城《トゥー・リバーズ・シティ》の首席騎士である父ですら、必ずしもできるとは限らない。
――この男は、いったい何者なんだ?
アルベルトの背筋に、冷たいものが這い上がる。
まさか、自分は本当に……とんでもない相手を疑っていたのか?
――もしや、この男は、本物の貴族なのではないか?
「悪くないですね」
俺は馬上から彼を見下ろしながら言った。
「この馬、ちゃんと調教されてる。少し気が短いのが難点ですけど、何度か乗れば落ち着くでしょう。……ああ、そうだ。馬、貸してくれてありがとうございます」
その言葉を聞いたアルベルトは、みるみる顔を真っ赤にした。何か言い返そうとしているらしく、しばらく口をもごもごさせていたが、結局、最後は深く一礼し、
「閣下にお気に召していただけたのであれば、何よりにございます」
とだけ言い残し、そそくさと立ち去っていった。
ペトラは顔を上げて俺を見た。
いつもは冷たく澄んでいるその瞳に、ごくかすかな笑みが浮かんでいる。
――コロンは、ほんとに何でもできる。
ただ、一つだけ困るところがあるとすれば、すぐ人をからかうことだ。
つい数日前、自分は相手の騎術があまりにも危なっかしかったせいで、後ろから抱えるようにして、手取り足取り教えてやったばかりだった。
なのに、あれは全部わざとだったなんて。
そこまで考えた瞬間、そのときの光景が急に頭の中へ蘇る。
自分の腕の中にいた、あの男の身体。
その記憶に気づいた途端、頬が一気に熱くなった。
胸の奥から、羞恥と苛立ちが一緒くたになったような感情が一気に込み上げてくる。
――この男、まさか口実を作って、わざと私に抱きつかせたんじゃないだろうな!?
ペトラは手にした鞘をぎゅっと握りしめた。
できることなら、今すぐその頭へ一発叩き込んでやりたかった。
トーヴという、あの鈍いくせに妙に勘のいい子が、すでにお前へ好意を抱いているっていうのに――どうして私にまで、こんな真似をするんだ。
「……え?ペトラ、顔、すごく赤いですけど」
俺がちょうど振り向くと、そこには案の定、いかにも不満そうな顔でこっちを見ているペトラがいた。
「あなた、こんなにあっさり馬に乗れるようになったの?」
「ええ。まあ、そこまで難しくもなかったですし」
「さっき私が言った二、三言だけで、もうできるようになったっていうのか!?」
「もちろん。どうです?俺って、けっこう筋がいいでしょう」
「あなた……!」
ペトラは歯ぎしりしそうな勢いで俺を睨みつけた。
「おや、ちょうど皆さんも食事を終えたみたいですね。そろそろ出発でしょうし、悪いんですけど、馬から降りるの手伝ってもらえます?」
「はぁ!?まさか、まだ私に触らせるつもりか?」
「ペトラ、何言ってるんですか。さっき馬に乗るとき、どうも腹の傷を引っ張ったみたいで。今、だんだん痛くなってきたんですよ」
「なら、そのままずっと馬の上にいればいいだろう!」
「じゃあ、トーヴを呼んで手伝ってもらいますけど……」
「寝言は寝てから言え!あの子をこれ以上あなたに近づけるわけないだろ、この浮気者!」
ペトラは唇をきつく引き結んだまま、結局はこっちへ歩いてきて、俺を馬から降ろすのを手伝った。
「浮気者?俺が?」
さすがに意味が分からず、俺は素で聞き返してしまう。
「自分で分かってるはずだ!」
「えええぇ???」
そんなやり取りを交わす声が、少しずつ遠ざかっていく。
最後に残ったのは、ペイセ馬の蹄が砕石の道を軽やかに打つ、乾いた音だけだった。
山からの風がひと筋、ふっと吹き抜ける。
双流城《トゥー・リバーズ・シティ》へ続く道の両脇で、無数のライラックの花びらが舞い上がった。