最強ギルドマスターは十年前のゲーム世界に転生した 〜未来知識だけを武器に、見習い傭兵から王座を目指す〜   作:窮北の風

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第56話 オリアン

 俺は鼠小路を出ると、二本の横道を抜け、両側に朽ちかけた木造家屋が並ぶ細い路地へ入った。

 路地の突き当たりには、斜めに傾いた木製の看板が夜風に揺れている。

 そこには、色あせた塗料で、丸々と太った一匹の蝿が描かれていた。

 

 俺は「ハエの脚」酒場の軋む木戸を押し開けた。

 途端に、古びた黴の匂いと、安酒の酸っぱい臭気が混ざった空気が顔にぶつかってくる。

 

 酒場は広くない。

 四つの卓が雑に置かれ、油汚れの染みついた壁灯が黄ばんだ光を放っている。その弱々しい明かりが、まばらに座る客たちの輪郭をかろうじて浮かび上がらせていた。

 カウンターの奥で居眠りしている禿げ頭の老人。

 隅の席で低い声を交わす黒い影。

 暖炉の燃えさしのそばで丸くなって眠る、一匹のキジトラ猫。

 そして、それらとは別に、酒場の一番奥、もっとも暗い角の席に、一人の老人が座っていた。

 

 彼は色の判別もつかない長衣をまとっている。

 卓上の蝋燭の光を借りても、乱れた長髪と、顔の半分を覆う濃い髭が見えるだけだった。

 その瞬間、俺はまるで『指輪物語』に出てくる灰色の魔法使い――ガンダルフにでも出会ったような気がした。

 老人はただ静かにそこに座っているだけだ。

 何かをしているわけでもない。

 それなのに、こちらが思わず近づきたくなるような、奇妙な神秘性を放っていた。

 

 たぶん、あの人が俺の探している相手だ。

 

 だが、俺は直接そちらへ向かわず、まずはカウンターの前で足を止め、軽く卓面を叩いた。

 

 音を聞いた酒保は、眠たげに顔を上げ、濁った目でこちらを見た。

 

「すみません。人を一人、探しているんですが」

 

 酒保は白けたように目をむき、またゆっくりと突っ伏そうとする。

 

「……」

 俺はポケットから銅貨を六枚取り出し、彼の前へ押し出した。

「……松の実酒を二杯」

 

 酒保はカウンターの上の銅貨をちらりと見ると、ようやくのろのろと体を起こした。

 背後の棚から硝子瓶を取り、琥珀色の液体を二つの杯へ注ぐ。

 

 その隙に、俺は声を潜めて尋ねた。

「メイジのオリアン」

 

 酒保の手が、ほんの一瞬だけ止まった。

 だが彼は顔を上げず、顎だけで店の隅を示す。

 そこは、まさにあのガンダルフじみた老人が座っている場所だった。

 

「ありがとう」

 俺は杯を二つ受け取り、薄暗い一角へ向かって歩き出した。

 

 近づいてみて、初めて分かった。

 オリアンの前にある小さな丸卓の上には、厚いタロットカードの束がきちんと積まれていた。

 その札は普通のものより一回り大きく、角はひどく擦り切れている。

 何度も何度も使い込まれてきたものだと、一目で分かった。

 

 俺が二杯の酒を卓へ置こうとした、その時だった。

 眠っているようにも見えた老人が、不意に口を開いた。

「若き御仁」

 その声は低く、ゆるやかだった。

 だが、不思議と耳に残る響きがある。

「貴殿からは、濃い血の匂いがいたしますな」

 

 俺の足が、ごくわずかに止まった。

 鼠小路《ねずみこうじ》の死体は、まだ冷えきってもいない。

 それを、なぜこの老人が知っている?

 いや、そもそも本当に俺の身体に血の匂いが染みついているのか?

 自分ではまったく分からない。

 

 オリアンはゆっくりと目を開き、こちらを見上げた。

「緑の泥土は、やがて河を呑み込むでしょう。火光がもたらすものは、希望であり、同時に災厄でもある。貴殿の両手は血に染まっておりますが、それだけで敵を退けることは叶いません。いずれ、より多くの殺戮と出会うことになりましょう」

 

 その言葉を聞いた瞬間、俺は一瞬、意識が遠のくような感覚を覚えた。

 この世界に来てから、俺の剣の下で死んだ怪物や人間は、たしかに少なくない。

 そして、これからはもっと増えるかもしれない。

 だが、なぜそれをこの老人が知っている?

 まさか、未来を読むことができるのか?

 

 アラレン大陸には、戦闘こそ得意ではないものの、予言や占術に驚くほどの才能を持つメイジが存在する。

 彼らは水晶球、タロットカード、果ては羊の骨数本だけで、未来の吉凶を占うことができるという。

 数は極めて少ない。

 だが、その分、貴族や商人たちからは非常に重宝されている。

 この落ちぶれたメイジ、オリアンも、その類なのだろうか。

 

「あなたは……」

 俺が口を開こうとしたところで、彼は片手を軽く上げ、こちらの言葉を遮った。

 そして、椅子を示すように、俺へ座るよう促す。

 

「少し、当ててみせましょう」

 オリアンは人差し指と中指で一枚のタロットカードを挟み、めくって眺めると、静かに卓へ戻した。

「貴殿の出自は、決して悪くない。少なくとも、家門にはかつて名のある人物がいたはずです。もっとも……それは、すでに過去の栄光でございますな」

 

 俺は何も言わなかった。

 

 だが、彼の言葉は当たっている。

 この身体の元の持ち主は、祖父が王国騎士だった。父の代で没落したとはいえ、家柄そのものは完全な平民ではない。

 

「貴殿は、長く家を離れておられる」

 彼はまた一枚、札をめくった。

「最近、厄介事に多く見舞われた。命を落としかけたことも、一度や二度ではありますまい」

 

 俺は眉をひそめた。

 

 これも、間違っていない。

 ゼス村からチカ町、そして今の双流城《トゥー・リバーズ・シティ》に至るまで、困難の連続だった。実際、何度も死にかけている。

 

「それでも、貴殿は生き延びた」

 オリアンは俺の目を見つめた。

 その口元に、あるかないかの薄い笑みが浮かぶ。

「そして、強くなられた。以前よりも、はるかに」

 

「それは全部、この札の山から読み取ったんですか?」

 ついに、俺は我慢できずにそう尋ねた。

 

 彼はすぐには答えなかった。

 代わりに、目の前の松の実酒を手に取り、ぐいと仰いで一息に飲み干す。

 琥珀色の液体が、白混じりの髭を伝って長衣の前へぽたぽたと落ちた。

 だが本人はまったく気にした様子もなく、空になった杯を置くと、袖口で口元を無造作に拭った。

 

「若き御仁。全知全能たるメイジを、あまり侮らぬことですな」

 彼は杯を卓上に置き、両手を組んで卓の上に置いた。

「よろしい。貴殿の疑念を晴らすため、特別に機会を差し上げましょう。何なりとお尋ねなさい。どのような問いでも構いませぬ」

 

 俺はしばらく沈黙し、それから目の前の件とはまったく関係のない質問を投げた。

「エルフ国の現国王は誰ですか?」

 

「イランナ二世。いや、正確には女王陛下ですな」

 彼は即答した。

 

「北方氷原にある“泣きの都”が建てられたのは何年ですか?」

「先王暦七百二十三年。当時の北境総督、フレッド公爵の主導により建設され、完成まで十一年を要しました」

 彼は考える素振りすら見せなかった。

 

「スチールメルティング・シティの鍛造槌の音は、昼に響きますか?それとも夜に響きますか?」

「ははは。夜ですな。昼間のドワーフたちは酒を飲まねばならず、槌を振るう力など残っておりませんから」

 

 俺はその場に座ったまま、しばらく何も言えなかった。

 これらの質問は、すべて俺がその場で思いついたものだ。

 当然、答えもよく知っている。

 だがまさか、相手もここまで淀みなく答えられるとは思わなかった。

 この老人の知識と経験は、単なるタロット札一束で説明できるものではない。

 

「若き御仁。これで少しは信じていただけましたかな?」

 俺が黙っているのを見て、オリアンは愉快そうに笑った。

 そして、何食わぬ顔で俺の杯を手に取り、それもまた一息に飲み干す。

「よくお聞きなさい。これから三ヶ月のうちに、南方の戦局は急激に悪化します。ゴブリンの大軍は破竹の勢いで進み、やがて双流城へ迫るでしょう。そして貴殿は、若き御仁、巨大な危機の渦中へ呑み込まれることになります」

 

「それで?」

 

「それで、ですか」

 彼は椅子の背にもたれ、指先で軽く卓を叩いた。

「もし貴殿が正しく対処できたなら、その危機を切り抜けるのみならず、思いがけぬ助力を得ることになるでしょう。ですが、対処を誤れば――貴殿の物語は、そこで幕を閉じます」

 

 その言葉を聞き終えると、俺は静かに視線を落とした。

 同時に、心の中でそっと息を吐く。

 

 ゲームの歴史において、ゴブリン大軍が双流城を陥落させたのは事実だ。

 だが、それは三ヶ月以上も先の出来事ではない。

 十日後だ。

 つまり、オリアンは予言者ではない。

 彼はただ、経験豊富な老人なのだ。

 さまざまな経路から集めた情報をもとに、かなり筋の通った推測をしているだけ。

 ある推測は正解に近い。

 だが、ある推測はひどく外れている。

 

「さて、若き御仁」

 オリアンはようやく最後の一言を語り終えると、満足げに髭を撫でた。

「貴殿の胸中には、まだ多くの疑念が残っていることでしょう。ですが、ここから先の問いは、松の実酒二杯で賄えるものではございませんぞ」

 そこで彼は、わざとらしく背筋を伸ばした。

「とはいえ、その前に、まず我が名を心に刻んでいただきたい。奥術協会認定メイジにして、オズ・ウィザードの元老。神秘にして偉大なる――アンリオでございます」

 

 俺は彼を二秒ほど見つめた。

 それから懐から冒険者ギルドのカードを取り出し、眉をひそめながら確認する。

「アンリオ?でも、カードにはオリアンって書いてありますけど」

 

 空気が、一瞬だけ凍りついた。

 

 老人の髭がぴくりと震える。

 灰青色の目がカードへ焦点を合わせ、次に俺の顔へ移り、またカードへ戻った。

 威厳に満ちていたはずの顔が、茫然から困惑へ、困惑から衝撃へと変わっていく。

 そして最後には、なんとも滑稽な表情で固まった。

 

「え、えええええっ!?貴殿、わしを知っておられるのですか!?」

 

 俺は、まるで幽霊でも見たような彼の顔を眺めながら、危うく吹き出しそうになった。

 どうやら目の前のこの“ガンダルフ”は、思っていたほど神秘的な存在ではなさそうだった。

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