最強ギルドマスターは十年前のゲーム世界に転生した 〜未来知識だけを武器に、見習い傭兵から王座を目指す〜 作:窮北の風
酒場の中が静まり返った。
少し離れた場所で酔いつぶれている客のいびきさえ聞こえてくる。
いつの間に目を覚ましたのか、あの虎斑猫が背中を丸めながら俺の脛に身体をこすりつけ、そのまま音もなくカウンターの奥へ消えていった。
卓上のタロットカードは、相変わらず綺麗に積まれている。
一番上に置かれた「ソードの10」の札だけが、火明かりを受けて、妙な光を宿しているように見えた。
俺とオリアンは、それぞれ椅子に座ったまま、自分の前に置かれた空の杯を黙って見つめていた。
「親父さん――松の実酒をもう二杯頼む。大きいほうで」
しばらくして、俺が先に沈黙を破った。
カウンターの奥にいた禿げ頭の男は、眠たげにまぶたを上げてこちらを一瞥すると、のろのろと琥珀色の酒を大杯に二つ注ぎ、自ら運んできた。
杯の中で酒液がゆらゆらと揺れ、濃い松脂の香りと、酒精の刺すような辛さを漂わせている。
店主が背を向けて去っていくのを待ってから、俺は腰の石の中の剣を外し、そっと卓の上へ置いた。
そのままオリアンのほうへ押し出す。
「酒一杯と、剣一本の話。どうです?」
オリアンはすぐには答えなかった。
彼は杯を持ち上げ、まず鼻先へ近づけて香りを嗅ぐ。
灰青色の瞳に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。
それから満足そうに大きく一口あおり、酒が髭を伝って襟元へ流れ込むのも気にせず、ようやく杯を置いた。
手の甲で口元を拭う。
「オズ・ウィザードの蔵書館に、たいそう古い本が一冊ございましてな」
彼の声は低く、ゆっくりとしていた。
「羊皮の表紙で、文字はかすれ、角は虫に食われておりました。若い頃、暇に任せて何頁かめくったことがありましてな。ちょうど、こういう一節を覚えております」
オリアンはそこで一度、言葉を切った。
「ロニクス建国皇帝《けんこくこうてい》の麾下には、四振りの神剣があった。それらは、最も忠誠厚き四人の騎士へ下賜された。そしてその四振りの剣には、先帝の力の源が秘められている――と」
彼は灰青色の目で、まっすぐに俺を見た。
俺がその意味を理解しているか、確かめるような視線だった。
「その書には、こうも記されております。いつの日か、四振りすべての剣に認められる者が現れたなら、その者はロニクス王国全土を統べることができる、と」
彼の指が、無意識に卓面を二度叩いた。
「もっとも、王宮の議事堂の壁に掛けられている一振りを除き、残り三振りはとうの昔に行方知れずとなりました。数百年にわたり、数え切れぬほどの者が探しましたが、誰一人として見つけることは叶わなかった」
オリアンの手が、そっと石の中の剣の柄に添えられる。
その声は、さらに低くなった。
「まさか今日、このような場所で、その一振りをこの目で見ることになろうとは」
数秒の沈黙。
彼は顔を上げた。
その表情は、これまでになく真剣だった。
「ですから、この剣――貴殿はいったい、どこで手に入れられたのですかな?」
彼の話を聞き終えた俺は、胸の奥で張り詰めていたものが少し緩むのを感じた。
ひとまず、この剣が血で血を洗う因縁を背負った呪物ではなく、どちらかと言えば宝物の類だと分かっただけでも十分だ。
だから俺は、もう隠すのをやめた。
チカ町での出来事。
オークの森の中で巻き込まれた亜空間。
ロアンの父親。
巨石に突き立っていた剣柄。
話せる範囲のことは、すべて話した。
もちろん、システムパネルと転生者であることだけは伏せておいた。
オリアンは真剣に聞いていた。
途中で一度も口を挟まなかったが、その表情は俺の話に合わせて目まぐるしく変わっていく。
眉をひそめたり、目を見開いたり、時には本気で驚愕したような顔を浮かべたり。
そして最後に、ロアンの遺体が橡果の皮に幾重にも包まれていたと話した時、彼は深く息を吸い込んだ。
気づけば、俺たちの前の卓には空の杯がいくつも並んでいた。
酒場の中に残っているのも、もう店主だけだ。
「貴殿は、何を知りたいのですかな?」
ようやくオリアンが口を開いた。
ただし、その舌はすでに少し回りにくくなっていて、声もどこか曖昧だった。
「それなら……」
俺は椅子の背にもたれかかった。
自分の頭も、少し重くなっているのを感じる。
「今度は、あなたの話を聞かせてください。もちろん、正直に話すほうで」
長い緊張の反動なのか。
それとも、目の前の老人がどこか久しぶりに気を抜ける相手に見えたせいなのか。
俺も無理に自分を律することはせず、酒がもたらす心地よい酔いに身を任せていた。
「わしは確かに、オズ・ウィザードに長く身を置いておりました」
オリアンはゆっくりと語り始めた。
まるで他人の人生を語るような口調だった。
「ですが、わし自身がその一員だったことは、一度もございません。本物の構成員だったのは、わしの父です」
彼は少しだけ目を伏せた。
「三十年前、わしら一家は旅の途中で、父の仇敵に襲われました。その夜、生き残ったのは、わし一人だけでございました」
オリアンは空の杯を持ち上げる。
だが、中に酒が残っていないことに気づくと、そっと卓へ戻した。
喉仏が上下する。
「父は死ぬ前に、己の遺産をすべてわしに託しました。メイジとしての職業身分、オズ・ウィザードの会員証明、そしてこのタロットカードです」
彼の指が、卓上のカードへ触れる。
「父は言いました。敵はあまりにも強い。復讐など考えるな、と」
その瞬間、オリアンの目が見開かれた。
顔に、歪んだ怒りが浮かぶ。
「ですが、どうして堪えられましょうか。血で血を洗うべき仇でございますぞ!」
彼の声は一瞬だけ高くなった。
だがすぐに、力を失ったように低く沈んでいく。
オリアンは苦しげに両手で顔を覆った。
指の隙間から、かすれた声が漏れる。
「しかし、わしの魔法の才はあまりに乏しかった。長い年月をかけ、試せるものはすべて試しました。けれど、どうしても正式なメイジへ昇格することはできなかった。わしは――本当に、どうしようもない役立たずでございました」
彼の肩がかすかに震えていた。
「さらに苦しいのは、時が経つにつれて、最初に燃え上がっていた仇への憎しみが、少しずつ薄れていったことです」
その声には、言葉にしがたい苦さが滲んでいた。
「わしは……わしは、復讐そのものにすら、興味を持てなくなってしまったのです。笑えるでしょう?憎しみすら守れぬ男が、いったい何を守れるというのでしょうな」
「もしかすると……」
俺は言葉を選びながら口を開いた。
「それこそが、あなたのお父上の望みだったのかもしれません。仇を討つことではなく、憎しみを手放して、あなたにちゃんと生きてほしかったのではないでしょうか」
オリアンは長く沈黙した。
そして最後に、深く息を吐く。
「……そうかもしれませぬな」
彼は肩をすくめ、どうにか軽い口調に戻そうとした。
「その後は、貴殿も見ての通りでございます。わしはメイジの身分を使い、傭兵稼業を始めました。各地を歩き、旅人に占いをして、どうにか飯にありつく生活です」
オリアンはそこで、少しだけ苦笑した。
「実のところ、貴殿の募集に書かれていた報酬は、あまりにも安かった。金目当てでは、とても応募などいたしません。
ただ……そろそろ、どこかに腰を落ち着けたかったのです」
目の前に座る落ちぶれた老人を見ていると、ふと、彼と俺はどこか似ているのではないかと思った。
俺たちはどちらも、自分のものではない仮面を被っている。
どちらも異郷を漂い、どちらも他人には語れない過去を抱えている。
酒が回ってきたせいかもしれない。
あるいは、この世界に来てからずっと胸の奥に押し込めていた秘密が、あまりにも重くなりすぎていたせいかもしれない。
俺は最後に残っていた、すっかり冷めた松の実酒を手に取り、一息に飲み干した。
そして杯を置き、肩の力を抜いて笑う。
「実を言うと、俺はタワーナイトなんかじゃありません。たぶん、“この土地の人間”ですらない。この身分は、異郷で命を落とした若者の遺品から見つけたものです。俺が双流城《トゥー・リバーズ・シティ》へ来た理由は、一つはあの難民たちを送り届けるため。もう一つは……ロアンの家族を探すためです」
「その小さな男の子の家族が、双流城《トゥー・リバーズ・シティ》に?」
「少し、手がかりがあります」
俺は軽く笑い、石の中の剣を腰に佩き直すと、席を立った。
メイジに自分の侍従になってもらうなんて、やはり夢物語だ。
たとえ相手が、正式なメイジではなく、メイジ見習いだったとしても。
だが、今夜の酒は十分に楽しかった。
こういう面白い人物と知り合えただけでも、元は取れたと言っていい。
「ご安心ください。あなたの秘密は守ります。同じように、俺の秘密も守っていただけると助かります」
俺は外套のフードを軽く引き寄せた。
「今夜の酒は楽しかったです。またどこかで会う機会があれば――」
「お待ちなさい」
オリアンも立ち上がった。
その背丈は、俺が思っていたよりずっと高かった。
俺より頭一つ分は上だ。
彼がそこに立つだけで、大きな影が壁灯の光をほとんど遮ってしまう。
灰青色の瞳が、こちらをまっすぐに見据えていた。
「互いの秘密を知った以上――」
彼はにやりと笑った。
意外と整った歯が覗く。
「この取引は、むしろ話が早くなりましたな」
「え?取引?」
オリアンは手を差し出した。
大きな掌が、俺の前へ向けられる。
「貴殿の侍従になること、承知いたしましょう。偽りの騎士に、偽りのメイジ。実に釣り合いが取れているとは思いませぬか?まさに天の配剤でございます」
俺は呆気に取られ、しばらく言葉が出なかった。
「ただし、先に申し上げておきますぞ」
彼はまた、あの老いた悪童のような口調に戻っていた。
けれど、その瞳に宿る真剣さは少しも薄れていない。
「この偽りのメイジを、どうか見捨てないでいただきたい」
俺は数秒、彼を見つめた。
それから、思わず笑ってしまった。
「偽りのメイジ?」
俺は首を横に振り、その温かくてごつごつした大きな手を、しっかりと握った。
「いいえ。あなたは本物のメイジです」
オリアンは眉をひそめ、不思議そうに俺を見つめた。
どうやら、今の言葉の意味が分からなかったらしい。
俺はそれ以上説明せず、卓の上に置かれていたタロットカードを手に取り、彼の手へ押し戻した。
「ちょうど、今日はまだ少し時間があります。俺と一緒に、ある場所へ来てください」
「どちらへ?」
「行けば分かります」
「その前に、冒険者ギルドで契約書を交わすべきではございませんかな?」
「ほかの人なら必要かもしれませんが、あなたには不要です」
俺は笑って首を横に振った。
「それに、今ごろギルドはもう閉まっているでしょう?」
俺は軋む酒場の木戸を押し開け、先に外へ出た。
夜風が、城東特有の湿った土の匂いを運んでくる。
背後からは、オリアンが慌ただしく追ってくる足音が聞こえた……