最強ギルドマスターは十年前のゲーム世界に転生した 〜未来知識だけを武器に、見習い傭兵から王座を目指す〜 作:窮北の風
夜はすでに深かった。
俺とオリアンが城北へ着いた頃には、城門はとうに固く閉ざされていた。
南部山地からロニクス王国の内地へ抜けるための要路であるこの大通りは、双流城《トゥー・リバーズ・シティ》を南北に貫く幅広い街道だ。
普段であれば、商人や旅人、傭兵たちでひどく騒がしい場所なのだろう。
だが今は、木々の枝葉が擦れ合う、さらさらという音だけが残っている。
通り沿いの店の大半はすでに店じまいしており、戸板の隙間から光が漏れている店はほとんどなかった。
さらに、ゴブリン大軍の接近が日ごとに現実味を帯びているせいか、少なくない小店の入口には粗末な木札が掛けられている。
そこには炭筆で、歪んだ字が書かれていた。
『休業中。再開日未定』
「貴殿、少しは年寄りを労わってくださらんのですかな?」
オリアンは荒い息を吐きながら腰をさすり、ぶつぶつと文句を言っていた。
「夜中に老人をここまで歩かせておいて、北門の景色でも眺めるおつもりですか?この辺りで見どころといえば、傭兵向けの按摩屋が数軒、まあまあ使えるくらいのもの。ほかに何がございます?」
俺は答えず、ただ小さく笑った。
そして剣柄を軽く彼へ向ける。
【聖火浄化――法力値を一点消費し、対象の負面効果を一つ除去する】
剣柄に嵌め込まれた紅玉が、一瞬だけ淡く光った。
見えない温かな流れが、オリアンの全身を包み込む。
彼はびくりと大きく身震いした。
ここまで歩いてきたせいで溜まっていた腰の痛み、脚のだるさ、そして深酒の後に残る眩暈が、まるで見えない手によって骨の隙間から引き抜かれていくように消えていった。
オリアンは自分の腰を触り、それから俺の腰の石の中の剣を見下ろした。
唇を何度か開閉させたあと、結局、ぽつりと一言だけ漏らす。
「今夜の酒代が惜しくなりましたな」
それきり、彼は黙った。
俺は剣柄を戻し、空気に混じる匂いを軽く嗅いだ。
それから大通りを横切り、脇に伸びるさらに細い小道へ入る。
この道は人通りがほとんどないらしい。
石畳の隙間には青苔がびっしりと生え、踏むと少し滑る。
両側の屋根は今にも触れ合いそうなほど近く、空は細く切り取られていた。
やがて、小道を抜けた先で俺は足を止めた。
「着きました」
オリアンが俺の背後から顔を出し、薄い月明かりを頼りに前方の建物を確認する。
そして、すぐに嫌そうな顔で口を歪めた。
「貴殿がわざわざ連れてきた先が、ここでございましたか」
「ん?知っているんですか?」
「もちろんでございます」
オリアンは髭を撫でながら、不愉快そうに鼻を鳴らした。
「マーラという老いぼれ魔女の薬剤工房ですな。貴殿も匂いでお分かりでしょう?店先に植えてある金盞花。腐った草の根と溝鼠の巣を混ぜたような臭いがする。あれを看板代わりにしているのだから、まったく大した厚顔です」
俺は目の前の建物を見上げた。
それは、地面から生えた茸のような形をしていた。
ずんぐりとして背が低く、木造の外壁は長年の風雨に晒されて灰褐色に変色している。
窓は小さい。
しかし、すでに深夜だというのに、板の隙間からはかすかな蝋燭の光が漏れていた。
「マーラ……かなりの年寄りなんですか?」
「ふむ、正確なところは儂にも分かりませぬ」
オリアンは眉を寄せ、記憶を探るように少し考えた。
「ですが、少なくとも儂より若いということはありますまい。以前ここへ、目の治療用に明目水を一瓶買いに来たことがございます。ところが、あの老魔女め、こちらが急いで病を治したいのを見透かして、銀貨五枚もふっかけてきました。ご存じですかな、あれはほかの場所なら銀貨一枚ほどの代物ですぞ」
「それは……少し厄介ですね」
俺は低く呟いた。
「何か仰いましたかな?」
「いいえ、何でもありません」
俺は深く息を吸い、光の漏れる小窓から視線を外した。
「ここへ来たのは、確かに取引をするためです」
「取引?」
オリアンは怪訝そうに俺を見た。
「薬剤を買いに来たのであれば、慎重になさったほうがよろしい。マーラという老いぼれは、人の骨までしゃぶるような女です。儂《わし》は生涯二度と関わりたくありません」
俺はそれには答えず、呼吸を整えた。
そのまま扉の前まで歩き、無意識のうちに身体を少し緊張させる。
この小屋は、一見すれば目立たない。
むしろ、みすぼらしいと言ってもいい。
だが、ここは【魔女の坩堝《るつぼ》】薬剤店系列の、双流城支店だった。
ゲームでは、このブランドを知らないプレイヤーはほとんどいない。
値段はやや高めだが、品揃えは豊富で、品質も安定している。多少なりとも財力のある傭兵団なら、定期的にここで薬剤を仕入れるのが普通だった。
もちろん、それは表向きの顔に過ぎない。
この店には、もう一つの正体がある。
全アラレン大陸最大の、魔女地下同盟。
しかも、所属しているのは普通のメイジではなく、黒暗魔法を専門とする魔女たちだ。
ゲーム内でこの秘密を発見したのは、NPC好感度を上げるのが好きなプレイヤーだったと記憶している。
【魔女の坩堝】との好感度が一定以上に達すると、プレイヤーは各地の店舗が閉店した後、決められたリズムで扉を叩き、合言葉に正しく答えることで中へ通される。
そこで購入できるのは、未鑑定の特殊品だった。
書物、薬剤、配方、毒薬、さらには伝説級武器まで。
内容は雑多で、完全に運次第。
この賭博じみた購買方式は、多くのプレイヤーを熱狂させ、同時に多くのプレイヤーを破産させた。
だが今、俺が気にしているのは、そうした商品ではない。
問題は、どうやって中にいるマーラという巫女を制するかだ。
ゲーム設定上、各地の薬剤店に常駐する巫女は、おおむねLv25以上。
つまり二環メイジ相当の実力を持っている。
そして、目の前のこの老いぼれは、どう考えてもそれ以上だろう。
「オリアン、攻撃型の魔法は使えますか?」
俺は声を落として尋ねた。
「貴殿、ご冗談を」
オリアンは心底意外そうな顔をした。
「儂は学者ですぞ。研究をする者でございます。杖を握って戦場へ駆け出す学者など、どこでご覧になりましたかな?」
「分かりました。聞かなかったことにします」
俺は振り返り、少しこわばった指を軽く動かした。
それから目の前の木板扉を、短く二回、長く三回のリズムで叩く。
コン、コン――
ドン――ドン――ドン――
室内の蝋燭の光が、まず一瞬だけ暗くなった。
だがすぐに、尖った老女の声が響く。
「夜は神々に、黒き眼を授ける」
「……神々は人間に……景気のいい平手打ちを授ける」
俺は声を低くし、素早く答えた。
正直、この合言葉を口にするたびに思う。
この魔女同盟の創始者は、精神的にどこか相当やられていたのではないか、と。
まして今は、後ろにオリアンまで立っている。
老人の俺を見る目は、すでに完全に馬鹿を見るそれだった。
「掟は分かっているね?」
「分かっている。俺は取引だけをしに来た」
ギィ――
扉はすぐに開いた。
そこから覗いたのは、皺だらけの老いた顔だった。
まるで干からびた葡萄のような顔だ。
だが俺は、考えるより早く動いていた。
シャッ、と音を立てて長剣を抜き、その刃をまっすぐ相手の首筋へ押し当てる。
冷たい剣身が、薄い皮膚にぴたりと触れた。
あまりにも突然の出来事に、その場にいる全員が凍りついた。
オリアンは驚きのあまり二歩も後ずさり、背中を向かいの低い壁にぶつけて鈍い音を立てた。
マーラもまた、濁った両目を大きく見開き、喉を一度ごくりと上下させる。
俺の手も、わずかに震えていた。
恐怖ではない。
緊張だ!!
俺はよく分かっている。
もし今の動きが一秒でも遅れていたら、マーラほどの術者なら、俺を明日の朝日から遠ざける方法を百通りは用意できただろう。
……もちろん、オリアンも一緒にだ……
だが幸運にも、目の前の魔女は長く続いた平穏な暮らしのせいで油断していたらしい。
二環以上の実力を笠に着て、俺のような若い戦士など眼中に入れていなかった。
だからこそ、この奇襲は成功した。
少し離れた場所に立つオリアンは、驚きのあまり言葉を失っていた。
先ほどまでの不遜な態度は、すでに跡形もない。
メイジ見習いである彼は、奥術粒子の波動には敏感だ。
だからこそ、目の前の巫女がどれほど恐ろしい実力者なのか、はっきり分かっていた。
この女のような高階のメイジなら、片手で自分を十人まとめて相手にできる。
いや、そもそも抵抗することすら許されまい。
それなのに、今しがた仕えることになった主人は、その女の首に剣を突きつけている。
幸運の女神よ!!
これはいったい、何の取引なのですかな。
どう見ても、相手に首を差し出しに来ただけではありませんか!!!
「若いの」
短い死の沈黙のあと、マーラがようやく我に返った。
顔を冷たく歪め、尖った声で問いかける。
「これが、お前の言う掟かい?」
「お前の右手の親指が五つ目の動作を終える前に、俺の剣がその喉を切り裂く」
俺は淡々と言った。
「それから、気管から空気が漏れている隙に、そのまま心臓を貫く。黒暗魔法を修めた巫女の魔力は、すべてそこに宿ると聞いた。貫かれれば、たとえ五環メイジでも蘇れないらしいな。前から一度、試してみたいと思っていた」
その言葉が落ちた瞬間、マーラとオリアンの顔色が同時に変わった!
オリアンは本気で気づいていなかった。
この老魔女が、今まさに密かに術を組んでいたことに!
しかも、その詠唱過程で奥術粒子に一切の揺らぎを生じさせていなかったことに。
自分ですら見抜けなかった。
では、この主人はどうやって見抜いたのか。
一方のマーラの胸中には、さらに大きな衝撃が走っていた。
自分が誇る秘匿詠唱が、この若者に一言で見破られた。
それどころか、親指の動作順まで正確に指摘されている。
まさか、この男は戦士に扮した高階メイジなのか!!
だが、それにしては身体から奥術の波動がまったく感じられない。
マーラは胸を大きく上下させながら、込み上げる動揺を無理やり押し込めた。
その声から傲慢さが完全に消えたわけではない。
しかし、そこには明らかな警戒が混じっていた。
「若いの、その剣をどけな」
彼女は濁った目で俺を睨みつけた。
「それで?お前は何をしに来たんだい?」