最強ギルドマスターは十年前のゲーム世界に転生した 〜未来知識だけを武器に、見習い傭兵から王座を目指す〜 作:窮北の風
ぽたり……ぽたり……
水滴が牢房の丸天井、その煉瓦の隙間から滲み出る。
一滴、また一滴と地面に落ち、澄んだ単調な反響を残した。
あの丁寧に掃き清められていた牢房には、今や誰の姿もない。
ただ、黄銅のランタンの炎だけが、まだかすかに揺れていた。
壁に温かな、揺らめく光の輪を投げかけ、寝台に横たわる女の遺体の静かな顔を照らしている。
どれほど時間が経ったのか。
地下牢第一層の入口で、再び足音が響いた。
足音は急ぐでもなく、遅すぎるわけでもない。
先ほどと違うのは、今度は一人だけだということだった。
地下牢の廊下に現れたその人影は、左右の牢房の様子には目もくれなかった。
ただまっすぐ廊下を進み、やがて曲がり角にある、女の遺体が安置された牢房の前で足を止める。
扉がそっと押し開かれた。
片足がまさに敷居を越えようとした、その瞬間――その足が、宙でぴたりと止まった。
人影はゆっくりと身を屈める。
二本の指を伸ばし、牢門の脇の隅から、ほとんど目に見えないほど細い糸をつまみ上げた。
糸の片端は、牢門の裏側に打たれた錆びた釘に結ばれている。
もう片端には細かな毛羽立ちが残っており、まるで無理やり引き千切られたようだった。
その者はしばらく糸を見つめた。
やがて懐から同じような糸を取り出し、改めて結び直してから、ようやく身を起こす。
視線は牢房中央の低い卓を越え、寝台に横たわる女の遺体へ向けられた。
そこで、数呼吸分だけ止まる。
その後、彼は扉を閉め、踵を返して去っていった。
足音が再び廊下に響く。
近くから遠くへ。
やがて、螺旋階段の果てに消えていった。
牢房の中では、ランタンがなお静かに燃えている。
黄銅の外殻に刻まれた蔓草模様が、火明かりの中でかすかに輝いていた。
先ほどの出来事など、まるで最初から何もなかったかのように。
……
ロニクス王国には、こんな諺が伝わっている——
領主の野心がどれほど大きいかは、その城の大きさを見れば分かる。
双流城《トゥー・リバーズ・シティ》の城主は、明らかに非常に大きな志を持つ人物だった。
彼の城堡は、その敷地面積の広さだけでも、ロニクス南境全体でよく知られている。
外観こそ伝統的な石木構造を踏襲しており、一見すればごく堅実で型通りの城に見える。
しかし、一度でも中へ入ったことのある者なら知っている。
この城堡の内部構造は、どこか奇妙だった。
そこには、青々と茂る庭園がない。
広く華やかな宴会場もない。
威厳ある大きな議事殿すらない。
ほとんどすべての部屋が、極限まで圧縮されている。
城主本人の寝室でさえ、単人用の寝台を一つ置けばいっぱいになるほど狭かった。
だが、そこまで空間を切り詰めた城堡でありながら、大量の面積が、戦闘や比武のための訓練場に割り当てられている。
そして今、城堡西側に位置するその広大な訓練場は、明々と灯りがともされていた。
しかし、守衛はいない。
侍従もいない。
あるのは、途切れることのない刃と刃の衝突音だけだった。
ガン――ガガン――ガンッ!
二つの影が、場の中央で凄まじい速度で交錯し、ぶつかり合い、また激しく弾けるように離れる。
石板の床の上には、幾筋ものぼやけた残影が走った。
ガァン――!
耳を裂くような刃の衝突音。
その直後、カラン、と乾いた音が響いた。
折れた剣の一部が宙へ飛び上がり、回転しながら地面へ落ちる。
二度ほど跳ね、最後には影の中に転がって動かなくなった。
場の中央で、上半身を裸にした中年の男が、ゆっくりと腕を上げた。
手に残った半分だけの長剣を一瞥し、眉をわずかに上げる。
そして、何でもないもののように地面へ放り捨てた。
「つまらないなあ」
彼は軽く手を払った。
その口調は、ひどく気怠げだった。
「やっぱり、普通の精鋼で打った長剣は長持ちしないね。いつも途中で折れてしまう。これじゃ、ちっとも楽しめないじゃないか」
そう言う男の呼吸は、激しい戦いを終えた直後とは思えないほど穏やかだった。
線のはっきりした筋肉の上にも、汗の一滴すら浮かんでいない。
彼は壁際の武器架へ歩み寄り、指先で一本の騎士刺剣を引っかける。
そして、そのまま自然な動作でしっかりと握った。
次の瞬間、手首が鋭く跳ねる。
何気なく横の空気へ向けて一剣を払っただけだった。
だが剣先は瞬時に空気を裂き、半秒ほど遅れてから、周囲に鋭く長い唸りが響き渡る。
男は満足げに頷き、向かい側に立つ相手を見た。
「まだ戦えるよね? 僕のほうは、まだ準備運動にもなっていないんだ。ただ、次からは――」
彼はそこで一度言葉を切り、口元に薄い笑みを浮かべた。
「手加減はしないよ」
「承知しております、城主様。どうぞ存分にお力をお振るいください」
銀灰色の撃剣服に身を包んだロレンツォは、手にした長剣をゆっくりと立て、向かいの男へわずかに頷いた。
その声は異様なほど平静で、決して恭しいものではない。
もしコロンがこの場にいたなら、きっとこの光景に驚いていただろう。
貴族階級から言えば、民兵訓練営の一教官に過ぎない人物が、たとえ貴族の出であったとしても、城主と対等であるかのような態度を取ることなど本来あり得ない。
しかも、今のロレンツォが身にまとっている気配は、普通の剣術教師のものとはまるで違っていた。
「いやだなあ、何度言ったと思ってるんだい」
上半身裸の城主は口を尖らせ、刺剣を肩に担いだ。
「二人きりの時くらい、ジェニスと呼んでくれればいいじゃないか。そんなに他人行儀にしなくても」
「承知いたしました、城主様」
「ちぇ、つまらないな」
ジェニスは唇を歪めると、改めて剣先をロレンツォへ向けた。
「じゃあ、無駄話は終わりだ。始めようか」
その言葉が終わるより早く、彼の姿は消えていた。
いや、正確には、目で追えないほど速かった。
その極限の速度を前にしても、ロレンツォの表情は変わらない。
ただ、わずかに半歩だけ後ろへ退いた。
次の瞬間、刺剣の切っ先が彼の額の前に現れる。
だが距離がわずかに足りず、刃はそのまま肩へ狙いを変えた。
その時になって初めて、ロレンツォは手中の長剣を振るい、刺剣を弾き逸らした。
「いいね」
ジェニスの目に、わずかな興奮が走る。
手首を返すと、刺剣は毒蛇のようにロレンツォの剣刃をすり抜け、あり得ない角度から彼の左脇腹へ突き込まれた。
ロレンツォは身をひねって避ける。
同時に、返す剣で相手の剣を握る手首を削りにいった。
二人は再び絡み合うように打ち合った。
剣光が交錯し、火花が散る。
技は次第に速くなり、同時に凶悪さを増していった。
最初こそまだ手合わせの趣があったが、やがて一剣一剣が急所を狙い、本当に命を奪い合っているかのような様相を帯びていく。
そして、交戦開始から十分後。
ジェニスはついにロレンツォの防御の隙を捉えた。
手にした刺剣が、ほとんど異様とも言える弧を描いてしなり、ロレンツォの剣刃を回り込む。
そして正確に、彼の首筋を貫いた。
「ぷつ――」
ひどく軽い音だった。
厚い布を突き破ったような音。
「ああ、これは悪かったね。今のはちょっと手元が狂った」
ジェニスは刺剣を抜いて後ろへ下がり、困ったように額を叩いた。
「でも、これで僕の勝ちってことでいいよね?」
ロレンツォは答えなかった。
ただ手を伸ばし、自分の首にできた傷に触れる。
裂け目は小さく、縁は滑らかだった。
まるで針先で貫かれたような傷だ。
さらに奇妙なことに、そこから血は一滴も流れていない。
彼は眉をひそめると、指先でめくれた皮膚を元に戻した。
そして撃剣服の襟を少し引き上げ、その細い裂け目を隠す。
「もちろんです。勝者は城主様でございます」
「ちぇ……」
ジェニスは刺剣を投げ捨て、そばにあったタオルを掴んで手を拭いた。
それから卓上の水晶杯を持ち上げ、中に注がれた鮮紅色の液体をぼんやりと見つめる。
「剣術比武っていうのは、やっぱり血を見てこそ面白いんだよ。君みたいな相手だと、勝ってもいまいち達成感がないなあ」
「では次回は、傭兵を数名“お招き”して、城主様のお相手をさせましょうか」
「やめておこう」
ジェニスは杯の中身を一息に飲み干し、口元を無造作に拭った。
「あんな連中、騒音を出して僕の床を汚す以外に役に立たないからね」
そこで彼は一度言葉を止め、目を細めた。
「そういえば、昼間、君が衛兵を連れて城門へ行ったと聞いたけど?」
「はい、城主様」
「何だい? 君の可愛い息子がまた何かやらかしたのかな?」
「彼が難民の一団を連れて、双流城へ避難してきました。その中に、なかなかの“上物”が何人かおりましたので、そのまま入城を許可いたしました」
「へえ……」
ジェニスはのんびりと声を引き延ばした。
「実のところ、もうそこまで面倒を増やさなくてもいいんだけどね。最後の貨物を運び出せば、僕の君たちへの約束も果たしたことになる。あとは君たちが、ちゃんと協定を守ってくれることを願うよ」
「その点はご安心ください。今後、戦火がどこまで燃え広がろうとも、貴方様は永遠に双流城唯一の主人でございます」
「ふん。そうであってほしいね」
その時、訓練場の扉が不意に叩かれた。
ジェニスが返事をするより先に、扉はすでに押し開かれている。
キャサリンが中へ入ってきた。
「おいおい、何度言えば分かるのかな。入る時は、僕の許可を待つんだよ」
来訪者を見たジェニスは、またあの気怠げな口調に戻った。
「君は物覚えが悪いのかい? それとも、わざと僕を苛立たせたいのかな?」
キャサリンはその言葉に答えなかった。
ただ深く腰を折り、恭しく一礼する。
「申し訳ございません、城主様。最後の貨物は、三日後に転送する手配が整いました」
「人数は合っている?」
「三人死にました。ただし、すでに補充を手配済みです」
ジェニスは首を傾げ、少し考える。
「ちょうどいい。今日、ロレンツォが難民を一組入れたんだったよね? その中から何人か選んで補充しておきなよ。まったく面倒だな。この時期は、もう失敗しないよう注意してくれ」
「はい、大人」
キャサリンは答えた。
だが、彼女は去らなかった。
ただその場に立ち尽くし、頭を垂れたまま、唇をかすかに震わせている。
何かを必死に押し殺し、言葉にするのをためらっているようだった。
「ああ――君が何を聞きたいのかは分かっているよ」
ジェニスはため息をつき、水晶杯を卓に置いた。
「僕たち、もう話し合ったじゃないか。双流城の件が片づけば、君に約束したことはちゃんと果たすって」
「双流城の件は、いつ片づくのですか」
「もうすぐだよ。もうすぐ」
「もうすぐとは、どれくらいですか」
キャサリンが顔を上げた。
その声には、張り詰めたものが混じっている。
「それは僕にも分からないなあ。一日かもしれないし、一ヶ月かもしれない。あるいは……」
ジェニスは肩をすくめた。
「一年かもしれない」
「一年!?」
キャサリンは勢いよく顔を上げた。
先ほどまでの恭しい表情は、綺麗に消え失せている。
「この、約束破りの外道が!」
言葉が終わるより早く、二本の短剣が彼女の袖口から掌へ滑り落ちた。
寒光が一閃する。
シュッ――シュッ――
二筋の白い気刃が剣先から飛び出した。
前後に並んで空気を裂き、十数メートル先のジェニスへ向かって激しく射出される。
それは、一門の剣術を極限まで修めた者だけが悟ることのできる――剣気だった。
剣気の軌跡は、かすかな歪みを帯びている。
極限まで圧縮された二本の銀色の稲妻のように、ジェニスの左右の回避空間を正確に封じていた。
「おや?」
迫り来る剣気を見て、ジェニスは興奮したように目を見開いた。
彼はほんの少しだけ身を傾ける。
第一の剣気はその肩先を掠め、背後の石壁に深い痕を刻んだ。
続く第二の剣気は、さらに速く、さらに鋭い角度で迫る。
だがジェニスは、今度は避けもしなかった。
彼は低く一声を発し、左腕の皮膚の表面に、一瞬で白い光を浮かび上がらせる。
そして、その剥き出しの腕をそのまま剣気へ叩きつけた。
ガン――!
石壁すら容易に斬り砕くはずの剣気が、ジェニスの左腕を覆う白光とぶつかり、金属同士が激突したような澄んだ音を鳴らした。
そして一秒も保たず、剣気は無数の細かな気旋へ砕け、空気の中へ消えていく。
「ああぁぁぁぁぁ……」
ジェニスは目を細めた。
まるで恍惚とするように、先ほど剣気を受けた小腕を押さえる。
「気持ちいいなあ……。この痛みは、本当に久しぶりだ」
それからキャサリンを見た。
口元の笑みが、さらに深くなる。
「さあ、もう一度。今の感覚は、癖になりそうだ」
キャサリンはその場に立ち尽くしていた。
胸が激しく上下し、瞳の奥の怒りは今にも溢れ出しそうだった。
彼女はジェニスの顔を睨みつける。
まるで、その笑顔を骨に刻みつけるかのように。
だが、剣を握る手は、最後まで再び上がらなかった。
もう一度打っても、結果は同じだと分かっていたからだ。
彼女は歯を食いしばる。
そして勢いよく身を翻し、大股で訓練場を出ていった。
扉は背後で乱暴に閉ざされ、重く鈍い音を響かせる。
ジェニスはその場に立ったまま、顔の笑みを少しずつ収めていった。
「キャサリン、キャサリン……本当に剣術の天才だね。あと一年もあれば、もしかすると本当に僕を傷つけられたかもしれない。ただ……惜しいなあ……」
彼は自分の左前腕を見下ろした。
そこにある皮膚は完璧なままだった。
傷どころか、赤い痕一つ残っていない。
ジェニスは酒杯を取り、再び鮮紅色の液体を注いだ。
少し離れた場所に立つロレンツォへ向けて軽く掲げる。
そして、一息に飲み干した。
「さて、今日はここまでにしようか。ロレンツォ、君もそろそろ息子のところへ帰るといい」